見出し画像


父の遺影は私が高校生の
頃の写真
バックは下関漁港
母の遺影は私達が結婚後の
写真を探しだした。


父:大正11年3月10日
  大分県の豪農の長男と
  して生まれる。
  昭和49年3月7日没
  行年51歳

母:大正12年10月10日
  博多で生まれる。  
  平成16年11月3日没
  行年81歳


父の誕生日は3月10日で
東京大空襲の日である。

満洲陸軍で大空襲の日に生まれたということで
「この非国民が!」ということで激しい暴行を受けたという。
東京大空襲は父のせいでは
無いのだが、満洲陸軍部隊は
そんなものであったのだろう。
さぞや悔しく辛い思い出なのだろう。

私が小学6年の頃、お小遣いをためて父の誕生日のプレゼントとしてネクタイを贈ろうとした。

「散歩よ、気持ちは有難い。すまんがこれはお前の誕生日の3月11日に改めて贈って貰いたい。」

という父の頼みで翌日の3月11日に改めて贈り直した。
父はたいそう喜んだ。

父からも私にプレゼントがあったので、その日はプレゼントの交換日となった。

大したご馳走は無かったが
貧乏な中、楽しい誕生会であった。


やがて月日は過ぎ、私は
父母を残して東京に行った。

そして数年後、父は通勤帰り若者の運転するバイクにはねられ、危篤状態になった。

私は特別休暇をとり下関の病院に駆けつけた。

父は意識不明のままだった。

母と交替で夜中も泊まりこんだが、病院側からクレームがついた。

「うちの病院は完全看護なので宿泊されると看護の邪魔になる。」

仕方ないので昼間の面会時間だけ行くことにした。

特別休暇が無くなったので
医師と相談した結果、病状は変化が無いので、一旦東京にもどった。

その翌日、出社して暫くすると父の危篤が悪化したとの一報が入り、羽田空港から博多空港の便に飛び乗った。
そこからタクシーで下関の病院に到着したのは夜の7時を過ぎていた。

看護婦長さんに父は亡くなり、自宅に搬送されたと聞いた。

私がタクシーで自宅に着いた時は、白い布で顔を覆われた父の体が布団の中に横たわっていた。



母はその後、自宅の下関市営住宅で一人で暮らした。

生活には困らなかった。

父は通勤途中の事故ということで、労災が適用され、遺族年金も加算手当があり、その額は月37万円にものぼった。

下関市営住宅の部屋代は月三千円である。
独り暮らしなのでライフラインも込みで、月一万円ですむ。
つまり月36万円が自由に使えるお小遣いである。

近所の人を誘っては毎日のように豪遊した。
贈り物までしていたようである。


ある日、上福岡の自宅に病院から電話が入った。

母が乳癌にかかり、手術が必要なので、立ち会いが必要なので来てほしい。

癌の手術は、当時、親族の立ち会いの元に承認を受ける必要があった。

早速、新幹線の予約をしたが
何しろお盆の時期で、空きが無い。
唯一、特等席が1室空いていると言うことで、その席を確保した。
特等席は普通、金持ちが使うもので、一般庶民には縁が無い。
1室独占するので快適である。
新幹線特等席初体験
ちょっぴりリッチな気分になった。

新下関駅からタクシーで下関の病院まで駆けつけた。

主治医から説明があった。

乳房を残して内部をくり抜く方法と、乳房を切除する方法があるが、前者だと癌細胞の転移の可能性が高く、後者だと低い。

乳房は女の命である。
母は前者を希望した。
主治医と私は後者を勧め
母を説得した。
癌細胞の転移の可能性が少ないほうで。
母は了解した。

手術は簡単に終わった。

私に手術の結果を確認するように主治医から求められた。
乳房の塊はどす黒い血にまみれ、不気味であった。


数年後、癌は直腸に転移していた。
乳房の手術はすでに手遅れだった。

抗がん剤投与と放射線治療を継続しながら、母は仲間を引き連れ遊び回った。

平成16年11月4日
母死すの連絡があった。
11月3日に風呂場で倒れている母を隣人が見つけ救急車で搬送したがすでに絶命していたらしい。

慌てて私達は駆けつけたが
母は死を悟っていたかのように、友人に葬儀の依頼をしていた。
父の親戚も既に集まっていた。
私は喪主の挨拶を交わすだけで、友人が全て段取りしてくれたので、私達は楽だった。

葬儀も終わり、あとは市営住宅から退去しなければならないが、私は業者を探しだし
片付けを全て依頼した。
確か60万円かかったと思う。

その前に貴重品がないかとチェックしたところ、数日前の下関大丸で買ったかなり高い洋服の領収書が出てきた。
母は死ぬ数日前まで下関大丸までお買い物をしていたことになる。
その領収書を見つけた時は
驚いたが、何だかホッとした。

今考えると
母は10月10日:昔の体育の日に生まれ
11月3日:文化の日に亡くなるとは、全くお目出度いものである。
こんなことを言っては罰当たりであるが。

母は自由に生き
そして友人に囲まれ、自由に死んでいった。

父とは違い。

今は仏壇に父母の遺影として
若い頃の小さな写真を
飾っている。



           2023年8月15日
                      秋月 かく



父母共に
写真嫌いで
その結果
二人揃いて
遺影は若い


この記事が参加している募集

今日の短歌

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?