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·*‘·*’·*·自己紹介·*‘·*’·*·

初めまして、サラです·*‘·*‘·
ページに来て頂いてありがとうございます✨

私、サラとはどんな人物か?


私の過去や世界観も含め自己紹介していきますね!

基本設定が
『重度の厨二病』『オタク』
なためたまに出現する異文化な文章もお楽しみ頂けたらと思います✡

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子供の頃から美しい世界を感じ、触れることが大好きで異世界や現世を同時に感じる時が幸せでした。

言葉、色、音楽、絵、ダンス、文字、人
この世界にはたくさんの祝福された
光輝くもので溢れていると思っていました。

純粋に美しいものに囲まれて生きていければよいけれど、
世界は時に残酷で全てを閉ざしたくなるときもあります。

家庭、学校、仕事、人間関係は避けては
通れませんしそれぞれに課題のある道です。

小さい頃から感覚や感情が過敏で
繊細な気質なため、
それぞれの道でかなり苦労しました。

・家庭が安定していたことがない
(家族間の不和、仕事や金銭面での揉め事、過干渉、家族の病気、親族間での争い)

最初に人が子供〜成人になり自立して生きていくまでに最も大切な
『生活していく環境』ですね。

だいたい気づいたのは小学校くらいですが
常に両親や親族の揉め事が身近にあり
安心や安全、心の健康的なあり方を
知らずに生活していました。。

大人になるまでも
お金や家族の揉め事、自分の揉め事
がなくなることはありませんでした。

・幼稚園〜高校は人間関係が築けず
友人は1人、2人はなんとかできても
だいたいひどいイジメにあう。

そもそも集団生活がサラの基本スペックに
搭載されておらず、無理でした。
集団生活の意味はあるのか?という意識のため『学校』というところは本当生きづらさしかなかったです┌┘墓└┐

小学生から繊細、過敏過ぎて
低学年は三学期ほぼ通えない時期あり、

中学は週始めは頑張っても
週末はイジメによってMP(精神力)が
もたず休みが多くなる

家庭揉めまくっている、
この時は兄も家族の揉め事に
心身病んで不登校、
まだ私のイジメなんて問題持ち込めるわけないと必死で隠していたんです。
(のちに存じられてたのを知りますが)

あまりにこの生活に耐えられるのが無理で
心身を壊し始め学校にも
行けず状態もあり、
内科で軽めの安定剤も処方されていました。

中高一貫校だったのですが
イジメは知られたくないので
美術系の学校に通いたいと両親に言いました。(美術は大好きなのは本当なので半分は本音ですね)

が、猛反対を受けますが日に日に
衰弱していくので最後は許可してくれました。
なかなか酷い言葉も受けたのですが
それでももう学校に通えなかったんです。

本来、1年は必要と言われる画塾も
3ヶ月ほどしか通えなかったぶん
なんとか必死で高校に入りました。

これで新しい生活に•••!と思いきやです。

もう心身は限界だったのに
せっかく行かせてもらってるんだ
素晴らしい学園生活にするんだ!と
心身に鞭をうち空回りをおこし

またしても数人の友人以外のカースト上位からイジメをうけ、
ついには授業中にペンが握れない
文字が書けない、座ってられない、
授業の言葉の意味が理解できない
登校どころか生活すらできない状態になり

長期の休学から自主退学になりました。

ここからは人生の絶望体験の始まりでした。

今までずっとずっと長い間、
必死で隠して『自分は強い!』って言い聞かせてきたはずの感情が止まらなくなりました。

寝たきりで立ち上がれず、一人でお風呂すら入れない。
唯一立ち上がってトイレに行くのもほぼ這いずるようにです。

何が一番大変だったかというと、
母が側にいて手を繋いでいてくれなければ
精神が保てませんでした。
パニックと涙が止まらないのです。

内科、心療内科も診療の椅子に座ったとたんに涙が止まらなくなるほどでした。

明日など来なければいいのに
生きていたくない

毎日毎日思っていましたし、
誰かに助けてほしくても
本当に助けを求めたい人の名前も出てきませんでした。

1ヶ月ほど、ほぼ寝たきり
1年近く寝たきりに近い制限生活

KERAというファッション雑誌を見ることが
唯一の時間の過ごし方でしたね。
ファッションが好きでこれが生活を変えてくれる原動力にもなりました。

なんの感情もわかなくなっていた私が
一着どうしても欲しい服が載っていたのです。
誰よりも力を欲していた厨二病が目を輝かせた某FFのゲームの主人公の装備のような
2次元を具現化したような商品です。

ですがネットでは買えない商品。。
ショップは隣県、電車で最低1時間はかかる。。

ずっと壊れていた子が唯一欲しがったもの
なんとかしてあげたい、と母が一緒に電車に乗って買いに行ってくれました。

電車は怖くて仕方ありませんでしたが
なんとかお目当てのものを手に入れて
久しぶりに感じる『嬉しい』という感情でした。

そこからは徐々に、外の生活に慣れるため
まずはそこの電柱まで、そこの曲がり角までとリハビリ散歩から
母が勧めてくれたフラワーアレンジメントの教室に通ったりとしました。
外界へ行くのは大変で、
一歩進んではまた戻りを繰り返してました。

少しずつ外に出るようになってから
絵の勉強がしたいと専門学校へ行きたいと思えるようになりました。

ただ、高卒資格をとるのに通信制の学校に
通うのは体調が厳しいものがあり

自宅で座っていられる時間に
高卒認定試験用の学習DVDで座学をしました。
元からノート作りは得意な方だったので、資料をコピーして貼ったり工夫していました。

試験当日は、病気や障害枠のある特別室で受けました。
途中で発作を起こして薬を届けてもらったりしたので特別室で受けさせてもらえて良かったです。

晴れて高卒認定試験に受かり、
専門学校に入学までに体を鍛えたいと思いました。
鍛えたらちょっとは健康になれるだろうと思ったんです(単純)

癖のある厨ニなので皆が知ってるのは嫌だな、と当時ではまだ珍しかったものを探しました。

そこからベリーダンスと出会い
身体での表現の楽しさを知りました。
綺麗なものや異世界感が大好きな私には
ベリーダンスはとても魅力的でした。

※ちなみに体調は悪くなったり一瞬良くなりながらなので必死でした(汗)

また数奇な出会いでたまたまポールダンスしてみない?と誘われて
興味津々で行ってみました。

このときの私、ポールダンスってそもそも何か知りません(笑)
何か知らず行きました(笑)

ベリーダンスはこの頃から
世間に流行り始めていましたが
ポールダンスはまだまだ知る人も少なく
情弱極めの世間知らずは知る由もなく。

初めてポールダンスを見たときは
感動の嵐でした。
こんなにゲームや漫画みたいな動きのダンスがあるの!?
と斜め上方向性のオタク感想と
未知の世界に完全に沼落ちでした。

人より心身が健全でなかったため、
亀スピードでゆっくりゆっくりの上達。。
それでも楽しくて楽しくて
初めて自分の居場所だと思ったのです。

ポールダンスは比較的他のジャンルのダンスと比べても選曲や衣装、世界観なども本人の
自由度が高いダンスで
自由に表現していい!という点も良かったです。

そこからいじめられっ子だった自分に新しい人間関係ができ、
新しい世界は希望になっていました。

そして、専門学校へ入学です。
今までのイジメられ経験から今度は
舐められてはいけないと
パンクやロックな服とかきて通学です。
(厨ニのオタクの斜め上対策)

この時は正直、入学する学科をミスったかなー。。と思います。。
仕事が一番多いのはグラフィック科ということで入りましたが
パソコン系が苦手でやってたら覚えるし技術もつくだろうと甘い考えは通用せず。。

絵を描くのは好きだけど
興味はどっちかと言えば服とか、、
たまにファッション科の授業も特別に
座学を受けさせてもらってました。

グラフィックは今の創作写真や絵のレタッチなどには活かされてます。
ミスったかもと言いながら貴重な技術なのでありがたく使わせてもらってます🙏

専門学校はというと波乱万丈なところでは
なかったのでそこまで書くことがないかもしれません(^^;


問題はそこからです。。。

学校を卒業すると当たり前に就職です。
私は相変わらずの心身不調と心療内科の薬とともに生きていたのでまともな就職条件
週5、8時間勤務ができる気がしませんでした。

新卒ではありましかだとりあえず
雑貨屋さんのアルバイトで短時間の勤務から社会人経験を始めました。

生活や人生を良くするためにも頑張ろう!
という気持ちだったのと
勤務してからとても売上が良かったので
販売向いてるかも!という感じでした。

会社に属するということは、その会社の
やり方などもあるので
その教えに従うのはありますが
教えの通りや考えを反映させると
売上が下がり、仕事も楽しくなくなってきました。。
同時入社の店長候補の方からも相性悪かったり、突然目の前で従業員がクビにされたり
なかなか辛いものがありました。

もっと自分に合う仕事はないか、
と雑貨屋さんを辞めて
一般事務の派遣や靴の販売、アパレル販売、
、市役所、ハンコ屋さんでハンコ作ったり
健康食品の事務とか
覚えている以外でも転々としました(汗)

どこも心身の不調が社会の厳しさに
耐えられるほど整っていない、強さがなく続けられることができませんでした。

辞めればぐったり寝込んだり。。

このままでは本当にまずいと
色々な治療に手を出しました。

心療内科は元より、カウンセリング、
アロマセラピー、整体、食事療法、
カイロプラクティック、心理学、
暇さえなくても心身や健康のブログ記事を読み漁る、相談会、、、等など。。。

思いついたものはなんでもしましたし、色んな治療院に行きましたし、

1つの場所にもお金と時間をたくさんかけたり、

多岐にわたる治療や勉強をしました。


でも一向に治る気配も、兆しもなく。。

しかもこの時は、家庭状況が死ぬほど悪く
常に争いしかなかったです。

何故かというと、色々調べることによって
私の心身の不調は家庭環境や家族が原因と
専門家や記事から目や耳に入るわけです。

何故、私がこれだけ苦しい生活や思いや人生をしなければいけないんだ!!

と爆発します。荒れに荒れるわけです。
原因となる家族と一緒に住んでいるのですから、一触即発です。

お互いが酷くぶつかり合い、修羅でしかありませんでした。

生活を助けてもらっているのに
感謝もできない心境で
母とはお互いが深い共依存で大変でした。

そのせいかトラウマの出来事があり
私はもっともっと悪化し
空を必要以上に広大に感じて恐怖で見れなくなり、過去とは比べ物にならない道を歩くことに対してパニックを起こす、重度の広場恐怖症までなってしまいました。

大好きだった空が見れなくなったのはこの世の地獄気分でした。

いくら家族とうまくいきたい、
普通になりたいと大金と時間をかけても
溝は深まるばかりでした。

それから自立すれば変わるかもしれないと
何度も何度も援助を受けて一人暮らしを
試みても全て失敗していました。

援助もしてもらって失敗して罪悪感もありますし、援助側もお金を出しても失敗すると私がお金に対して何もわかっていないと怒りをぶつけたくなる。

何一つうまくいかない何もかもが
嫌で嫌で、自分の弱さがつらくて

生きていることに絶望しかなく
泣いていない日が何年もなかったです。

ある時、『このまま地獄みたいな生活がずっと続くのかな。。』と思ったとき
たまたまTwitterでいつもの心理系を漁っているときコーチングというやつでしょうか。
それが目に入ったんですね。

しかも、実績が私より重たそうな症状も
治してるのでは!?と
藁にもすがる思いで連絡をとりました。

そしてカウンセリングをうけ、
コーチングの内容や期間、料金を聞きました。

本当今まで私が経験したことのない金額なわけです。驚きしかなくどうしよう、と思いました。
でももうこのままの人生は無理だ、これで無理なら幸せになんてなれっこないと人生を賭けようと申込みました。

コーチングの内容としては
対面や課題をこなしたりですね。

元々のベースがその時は最悪に悪かったので心身共に本当しんどかったです。

実家からちゃんと出て離れるきっかけにはなりました。


何をしたかというと、、、

『外の世界と繋がるためのトレーニング』です。

・病気だからと諦めていたことや逃げていたことを→やる

・自分の足で幸せを探しにいく 

・自分から会いたい人に会いに行く

などなど、、、他にもありますが、これらをひたすら闇から動けなくなっていた自分が光の世界を歩めるようになるため

その時の最善の行動を考えどんな小さなことでもトレーニングとしてやってきました。

ここではわりと大きな決断を書いていきますが、

一人暮らしは無理だから実家に帰るという
選択を今後一切しないという覚悟を決めて
離れました。

背水の陣を自ら敷くことで、逃げ癖があった自分に実家へ戻ることの退路を断ち、以前なら文句を言ったり逃げたりしたことを

自力で乗り越えるという状態へ持っていきました。

元々は一人でも暮らして自立していけるようになる!
というのが目標なのでこれが自分の正解でも夢でもあったのでこの機会を逃せば今度こそ『人生は終わる』と自分で自分の未来を察していたので必死でした。

選んだ大好きな友人や知合もいたので、安心感もありますし友人に感謝です🙏

薬もコーチングを始める前に
効果があるのかわからなかったのと
いつでも止めていいと言われていたこと、

そもそも薬を飲んで治ることじゃないし
私の悲しい記憶や体験を消してくれる夢のようなアイテムなわけでもなかったので捨てました。

引っ越しのためにアルバイトで資金を稼ぎ
就職活動でその県に就職できるよう
勤務希望をだし、
百貨店で販売のお仕事に就くことができました。

最初はフルタイムすらほぼしたことがなかった私が不安でいっぱいでしたが、
自分で自分の生活を成り立たせる
という気持ちでなんとか日々を精一杯
頑張って仕事と生活をしました。

上司から厳しくお叱り受けたことや
キツくて怖い先輩がいたり
自分の無力さを痛感したり
泣くこともありましたが、

仕事に慣れて
何人ものお客様から私をご指名頂けるくらいに信頼して頂いたり
私の接客でたくさんの方が笑顔になってくださることが本当に幸せでした。

今までの自分の仕事に対する姿勢も
心身の不調ばかりに目がいったいたけど
どうしたらお客様が喜んでもらえるかや
仕事の1つ1つの大切さも
学ぶことができました。

おかげで短期間でお店のサブや、

売上ランキングでも何度か入賞を頂くことができました。

一人一人のお客様を大切に向き合うことで一回の接客で顧客様率が高く、そこからのリピーター様へ繋げることもできました。

仕事を始め、プライベートでも人生を見直し

今までよりも自分を出しながら
友人とも接することができるようになり
より自然体でいられる、
言えなかったことが言えるようになりました。

実家から離れて距離感が出たことで母との関係も以前に比べかなり改善されました。

心の在り方もただ嘆いていた時より
何かあっても、どうしたらいいのか
考えられるように強くなりました。

現在はまた別の仕事をしつつ、
自分が仕事で勉強したことや書きたい思考とかをnoteで書いてます☘️

やりたいことに勇気をもって挑戦していくことは、自分への治癒でもあり自分の生活を改善してくれました。

大変という気持ちよりも楽しい!という気持ちが強かったんですね。

今までは諦めていたり適当にしてしまっていたことを本気で取り組めるように
なりました。

やる!と決めてから少しずつ関わる方の新しい出会いやイベントもあり人生が豊かになっていっております。

なかなか人生の紆余曲折あり、
しんどいことが多かったですが
だからこその表現や
私ができることはあるのではないかと
今にいたりますね。

なので、

色々な経験をしてきたからこそ

・こんなやり方もありますよ

・こんな考え方もありますよ

・やりたいことってなに?

・どう始めたらいいの?

ということを発信できるのではないかと思います。

人生を少しでも良く、笑顔を増やせる
きっかけになれたら幸いです。

ご覧いただきありがとうございました。

サラ

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