琉球の深い知恵、映画「ウンタマギルー」が教えてくれた7つの事
はじめに、なぜ今「ウンタマギルー」(1989)なのか?
「ウンタマギルー」(1989)は今見ると泡盛の古酒のように年を経るほど味わい深く、考えさせられる事が多い。
高嶺映画の芯となる「オキナワン チルダイ(沖縄の聖なるけだるさ)」の時間の流れやそこから生まれた文化(神話・伝承・琉歌・民謡・踊りなど)や生活は、沖縄特有のモノに違いないが、どの国にもどの民族にもあるモノのように思う。
あらゆる生き物や植物は、その土地の時間の流れ、季節の流れの中で独自に生きている。場所が変われば生き物や植物は変わる。
日本でも南国と北国では夏と冬の長さが違う。沖縄、東北、アイヌでは文化も違う。しかし大きく見ればみんな地球の時間の流れに沿って生きている。その時間の流れは、宇宙に通じる。
しかしグローバル化で地球規模の統合と画一化が進み世界中で独自の時間の流れから生まれた文化や生活が失われつつあるように思う。あらゆる地域の統合と画一化は、ある面で不自然で体に悪い事のように思う。
毎日何かに急(せ)かされて、立ち止まったりじっとしているとイライラされ、みんな先へ先へと急いでいる。大阪で「ぼちぼち(ゆっくり)行こう」としても、後ろからクラクションで煽られる。他人のスピードに合わせないと「マイペース」は「使えない奴」と見なされる。
日々の「受け入れがたい現実」を受けとめ、それでも焦らずゆったりと、感情に流されず、人と人との諍いを交わしながら、台風や災害も乗り越え、歌い踊り、陽気に大らかに生き続けるにはどうすればいいのか?
そんなヒントを「ウンタマギルー」で見つけた。映画から勝手に教訓をみつけるのもたまにはいいのでは?と思う。
あくまで個人的で邪道な見方かもしれませんが「ウンタマギルー」が教えてくれた7つの事です。
1.自分の言葉で語る(方言は楽し)
この映画は全編琉球方言の字幕付き。ウチナンチュ―(沖縄の人)の言葉で語られる。それには理由がある。明治時代から昭和中期まで日本政府によって学校で方言が禁止された。話すと罰として「方言札」を首から下げられる。方言が禁止されると友達の※童名(わらびなー)も使えなくなる。
※童名(わらびなー)琉球の先祖から受け継がれている名前:チルー、ナビー、カマド、等
沖縄芝居、組踊、民謡、琉歌の教育が学校で奪われる。方言を失う事は独自の文化を失う事だ。関西弁が話せなくなったら大阪のお笑いはなくなってしまう。方言を取り戻す事はこれら独自の文化を取り戻す事だ。
映画の冒頭、露天散髪屋のテルリン(照屋林助)はワタブーショウで村人を引き連れ、三線、ギター、ドラム、コンガの中で、歌い、踊り語る。
村の子供たちは自由に走り回ったり座ったりしながら聞く。この雰囲気がなんともいい。歌詞の内容で政治も歴史も語られるが、あくまで散髪屋のおじさんの会話。陽気で楽しい。琉球方言の独特のリズムと味が癖になり何度でも聞いてしまうし、記憶にも残る。
テルリン「…ドルドルドン♪ドルドルドン♪日本復帰はドルドルドン♪聖徳太子
(日本円のこと)は尻からげて腹(わた)出して…ドルドルドン♪」
途中に入る村人3人のコーラスも楽しい。
村人3人「わったーやー♪わったーやー♪わったーやー♪やーさんどー♪(俺た
ちはー、俺たちはー、俺たちはー、ひもじいよぉー)♪」
テルリン「ぬーが、ぬーやら、むるわからん♪、ぬーが、なとーら、むるわ
からん(何が、何やら、よくわからん、どうなっているのか、よくわから
ん)」
特にこの二つのセリフが好きで、ついつい歌ってしまう。
ひもじくても歌う事を忘れない。言葉は自分の言葉で、音楽は世界共通。言葉がわからなくても音楽は心に響く。そして知らない言葉をそのまま理解すると、その深みと味を知る事ができる。
2.世界は不条理(お前の頭に槍が…)
最初の陽気で楽天的なテルリンのワタブーショーを楽しんでいると、米軍ジープの先導で沖縄高等弁務官のカマジサー(ジョン・セイルズ)が現れ、唐突に不条理な場面が来る。
沖縄の浜辺を、白塗りのウンタマギルー(小林 薫)が頭に槍を刺したまま歩いている。美しい沖縄の海のイメージが、槍の刺さったウンタマギルーの存在で一瞬にしてサルバドール・ダリの絵の中のような不条理な世界に変わってしまう。
ここはどこで私は何を見ているのだろう。で、気づく。世界はそもそも不条理だと。コロナ禍も異常気象も災害も人間の視点でみれば災難だが、ウィルスにはウィルスの、天候には天候の理由や筋道があり、地球も宇宙も人間の都合で動いていない。当たり前だけど時々忘れる。
人間の条理(筋道)で動いてないから不条理。世界はシュルレアリスム。突然頭に槍が飛んできても、台風に飛ばされ、波にさらわれても、世界はそもそも不条理だ。
ウンタマギルーが立ち止まり、頭を押さえ苦悩の表情をすると、単純な私はウンタマギルーと同化してしまう。この痛みを通して「ウンタマギルー」の世界の住人になる。
私の頭には太い槍が刺さり、日々頭が重く、足取りはふらふら、やっとの思いで歩いている。なぜこんな風になってしまったのか?
3.人の夢の続きを盗め(たとえ婆さんにぶたれても)
豚の化身である美しいマレー(青山知可子)はサトウキビの精糖所で働くギルー(小林 薫)に抱かれている夢を見ている。そのマレーの夢の続きを、ギルー本人が見て、ギルーはマレーを抱いている。
日本映画で美しく官能的なラブシーンは少ないが、音楽も含めこのシーンの二人は美しい。この官能的な場面を一瞬にして破るのがウトゥー婆(間 好子)さん。彼女はギルーをひっぱたき、その頭をなぜか抱きしめる。
ウトゥー婆さん「貧乏人は嫌だね、人の夢の続きまで盗んで見るんだから」
この夢の場面は記憶に深く刻まれる。ギルーはマレーと夢の続きを共有した事で、宿命的なつながりを感じる。
次に、この夢の続きを見るのが、子山羊に聴診器をあてて動物占いをしているギルーの妹チルー(戸川 純)。夢の中でギルーとマレーが運玉森(ウンタマムイ)で結ばれている場面を見る。
無意識に誰かの夢を盗み、その続きを見る事は、本当にあるだろうか?
若い頃は自分で夢見た事をやっているつもりでも、それは過去に誰かが見た夢の続きで、それでもその夢を引き継ぎたくて、勝手に過去の夢のバトンを盗み、そしてまた未来に向けて誰かにバトンを渡したくてまた次の夢を見る。人はそんな風に生きて自ら生きている時間の枠を超える。そんな気がする。無意識でつながった人の夢の続きを盗め。たとえ婆さんにぶたれても。
4.宿命的な愛を貫け(たとえ相手が豚の化身でも)
「オキナワン チルダイ」でも琉球原人(かっちゃん)は豚の化身と結ばれていた。「パラダイスビュー」でもレイシュ―(小林 薫)は豚の化身ではないが毛遊び(もうあしび)でナビーを妊娠させた事で運命の歯車を狂わせていく。「ウンタマギルー」でも毛遊び(もうあしび)が物語の鍵を握る。
満月の夜、波の音が響き、三線の音と琉球民謡の歌声が響く。浜辺では数人の男女が円陣を組み、その中のギルーとマレーは手拍子を打っている。曲はテンポの早いカチャーシーにかわり、二人の気持ちが通じたように視線を交わし森へと消えていく。
毛遊び(もうあしび)は古くからの沖縄の風習。単なる男女の交際の場だけではなく、民謡、楽器演奏、舞踊、伝説など様々な音楽や文化の伝承の場でもあった。歌も求愛歌だけでなく、労働歌や島の歴史、戒め、別れの歌もある。浜辺や野原の自然の中で、若い男女が民族のリズムに身を任せ、テンポの早いカチャーシーで二人の感情も高ぶってゆく。
月夜、浜辺、音楽、踊り、風、虫や鳥の鳴き声、波の音、男女、全てが一体になって時を過ごすうちに若い男女が結ばれるのは自然な事のように思える。相手が豚の化身だからこそ、聖なるモノとの宿命的な交わりが人間の境界を越え、超自然的な世界とつながる生きる力を得る。
自らの宿命を知り、実行する事が、自らの運命を変える。
5.蟻の声を聴け
ギルー(小林 薫)はガジュマルの古木の妖怪キジムナーと友人。彼は日常的にキジムナー(宮里栄弘)と会話し、妖怪の子供のおできの心配をしている。キジムナーも妖怪とはいえ普通のおじさん。でも彼が動くとガジュマルの木々の葉が揺れ木漏れ日が光る。嘉手刈林昌「時代の流れ」が聞こえる。民謡のリズムの中の何気ない日常の中の大切な瞬間。
高嶺映画はあらゆる場面を忘れないものにする詩的映像表現で日常や歴史を語る。それゆえ何気ない場面が記憶に残り、やがて時間を経て詩や伝承、神話に変化する。
豚の化身のマレー(青山知可子)はいつも、サトウキビ精糖機の登り窯の軒下で、膝を崩して、水パイプで※淫豚草を吸っている。この風情がいかにも少し淫らで色っぽい、そしてけだるい。これが「沖縄の聖なるけだるさ」なのか?俗な親父たちのエロスの極みなのか?判断に困る所がおもしろい。
※淫豚草、海の大麻、豚が好んで食べるが食べると頭がおかしくなる。文字通り豚が淫らになる草(高嶺映画の虚構の植物)
神人も運玉森の巨石から染み出すように現れる。妖怪も豚の化身も神人もよくあるファンタジーの記号化された異人や化け物として現れるのではなく、我々と同じ普通の人の姿で現れる。人と同じく人と非(あら)ざるものがあたりまえに同居する世界。見慣れた日常が、ちょっとした事で、未知で異様な世界に変化するのが楽しい。
ギルー(小林 薫)は、妖怪や豚の化身だけでなく様々な生き物とも日常的に交流を持つ繊細で優しい男である。彼はなぜか豚小屋の赤い絨毯の上で眠る豚が気になる。その豚がまさかマレーだとは知らず、マレーと宿命的なつながりを感じる事をなぜかその寝ている豚に語る。その話を豚は、薄目を開け、耳をピクピクさせて聞いている。
特に印象深いのは運玉森(ウンタマムイ)でマレーと結ばれた後、彼女が草履を残し消え、その草履の上にいた蟻がギルーに何かを伝えるように動く場面。ギルーが蟻の思いを察するとその草履は空中に浮く。彼は空中浮遊する草履に導かれ…運命を変える出来事に遭遇する。
蟻の声を聴かなければ、ウンタマギルーになる運命も生まれなかった。
自然と感応して、あらゆるモノ(妖怪、化身、神人、豚、蟻など)と交流する事。それがいつか宿命を知り、運命を変えるかも…。
6.(逃げろ、そして)空中浮遊して世界を眺めろ
ギルーはマレーとの事が西原親方(平良 進)に知られ、西原精糖所倉庫の火事(西原親方の補助金ほしさの自作自演)の放火犯にされ命を狙われる。
濡れ衣を着せられてもギルーは反論もせず、やられてもやりかえさず、聖なる運玉森(ウンタマムイ)に逃げる。沖縄には「意地の出じらあ手引け、手の出じらあ意地引け(カッとなったら手を引け、手が出たら気をしずめよ)」という糸満の百姓が薩摩の侍に教えたという言葉がある。
この言葉のようにギルーはカッとなり反撃する事なく一旦は運玉森(ウンタマムイ)に逃げ、そこでキジムナーから、額に聖なる石を授かり空中浮遊などの術を得る。(これが原因でギルーはウンタマギルーに変身する)
すると「動物の気持ちがわかるようになり」ウンタマギルーはアンダクェー(エディ)を引き連れ、スズキ動物商会から動物を盗み出し、食べる分だけ食べ、育てる分は育て、百姓に分け与える。金持ちから金品を盗み、貧乏家族に渡す。米軍から武器・弾薬を盗み独立党ゲリラに流す。
単純に金持ちが独占している食料としての動物や金品を、農民、貧困家族に分け与え武器・弾薬を独占している米軍から奪い武器の乏しい独立党に渡す。それは政治的意図というより経済と武力の不均衡を無くしただけの事。
独立党ゲリラと警察隊の銃撃戦に巻き込まれたウンタマギルーは「アメリカも日本も祖国だと思わない。この琉球こそがわが祖国」と宣言する。
アンダクェーに「今、政治的発言をしたね」と言われると、ウンタマギルーは「銃の音を聞くとその気になる」と少し照れる。私はこの場面が好きだ。ウンタマギルーを演じている小林 薫さんの子供のような無邪気さと、大人の魅力と知的で優しい繊細さと全てこの役にハマっていてとてもいい。相棒アンダクェー役のエディの風貌と優しさもいい。このコンビの冒険活劇をずっと見ていたくなる。しかし、二人は、それ以上は戦わず発煙筒を投げて、煙に巻いて逃げる。この流れもこの二人らしくていい。
空中浮遊の術を使いウンタマギルーの視点で上から見れば琉球諸島はただの複数の島。アメリカのモノでも日本のモノでもない。ただの島。ウチナンチュ―(沖縄の人)は、アメリカ人でもないし、ヤマトンチュ―(本土の人)でもない。ウチナンチュ―(沖縄の人)はウチナンチュ―(沖縄の人)。ただ沖縄で暮らす人。
だから誰のものでもない、強いて言うなら地球のモノであるはずの島や領土を奪いあい、殺しあう。そんな時は、逃げろ、追いかけられたら戦わず、冷静になって、煙に巻いて逃げろ。
7.神に下駄を預けるな
神に下駄を預けてはいけない。神をあてにしてはいけない。神は神で忙しい。人間の事などいちいち考えている暇はない。
「ウンタマギルー」の神はマレー(青山知可子)との一夜を楽しみにニライカナイからやって来るだけ。だから西原親方(平良 進)がマレーを人間・ギルー(小林 薫)と交わらせ、米軍高等弁務官カマジサー(ジョン・セイルズ)に献上した事に怒り、西原親方を飛べない鳥・ヤンバルクイナにしてしまう。それだけ。
飛べるウンタマギルーに手は出さないし、飛べないで、槍が刺さったままのウンタマギルーも救わない。まして米軍高等弁務官カマジサーを罰する事も、生活に行き詰まった貧乏人を救う事もない。直属の部下を左遷させただけ。バチもあたらなければご利益もない。そもそも神はそういうもの。
本土である日本もいろいろな神が入ってきたが、もともと本土の島にいた神も、古事記の神も、神は神で神の生を精一杯生きる事で忙しい。
自分の人生、自分で何とかしなければ…。神に下駄を預けてはいけない。
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