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岡本喜八監督『ネガからポジへ』痛烈な喜劇「肉弾」


1.ネガからポジへ

 「ゴジラー1.0」を見て、昔の戦争映画が見たくなった。それで岡本喜八監督の「肉弾」を見た。
 岡本監督の映画が好きだ。「大誘拐」「ジャズ大名」「近頃なぜかチャールストン」「ブルークリスマス」「沖縄決戦」「肉弾」「独立愚連隊」
 リズム
テンポユーモアがあって、楽しみながら見てしまう。観た後に痛烈なメッセージが届き、それについて考えこんでしまう。
 岡本喜八監督のエッセイ集「マジメとフマジメの間」も読み返してみた。
「ネガからポジ」への発想の転換が好きだ。
 若い某雑誌記者の「監督の、これまでの作品のほとんどが喜劇仕立てって感じですが、そんな喜劇志向は生まれつきスか?」と言う問いに答えて、

開戦の日、十七歳だった私は、自分で自分の寿命を摑みで二十一歳と踏んで、実際、その日から二十一歳と六ヶ月の終戦の日まで、死神に追っ掛けまわされることになるのだが、特に、最後の兵士としての八カ月は、栄養失調と、特攻訓練と、死への恐怖との闘いであった。
そんな日々の状況に、マジメにノメり込むと、自分で自分がまことに気の毒に思えてくる。
「おれの青春は、いったい何だったんだ?」
そこで、ある日-空襲で九死に一生を得た昭和二十年四月二十九日-をキッカケに、反(アンチ)マジメに切り替えたものだ。
つまりは、自分を含めたあらゆる状況を、喜劇的なシチュエーション(劇的境遇)と思い込むことにしたのだが、それかあらぬか、安心立命とまではいかなくても、ちょっとは気が楽になったし、ちっとは周囲も見えてくるようになったようでもあった。
…中略…
 戦中戦後合わせて十五年の長丁場を何とかコナせたのも、そんな「ネガから、ポジへ」といった、マイナス・イメージをプラス・イメージに切り返すクセのお蔭だったかもしれない。

出典:「マジメとフマジメの間」岡本喜八著 ちくま文庫

 岡本喜八監督ほどではないが、私も父がうつ病になって、自分もいずれ深刻な鬱病予備軍ではないかと思い、ネガからポジへの思考の変換を試みた。
 シリアスに考えすぎると、一息ついて喜劇的に状況をとらえようとしている。ほっとくと神経質な自分は、何でも悲観的に考え、落ち込みがちの鬱状態になる。そういう時はとにかく文字に置き換える。置き換えていくうちに、相手の気持ちがみえてくる。そして周りの状況もみえてくる。
 次に自分を道化のように自虐ギャグのようにバカにしてみる。頭にきた相手も、面白キャラの変な人に変換する。するとだんだんアホらしくなる。
おもしろくなるとネタになる。

2.喜劇とは痛烈なもの「肉弾」

 岡本喜八監督がチャップリンの追悼記事に寄せたエッセイも印象深い。

喜劇とは、痛烈なものである。シリアスなドラマと肩を並べるほど痛烈なものである。そう教わったのもチャップリンである。
大衆の中にいて、大衆をさんざん楽しませてくれたチャップリン。旧ハリウッドと、とことん闘ったガンコきわまるチャップリン。すべてが私達活動屋の範といってもおかしくない。

出典:「マジメとフマジメの間」岡本喜八著 ちくま文庫

 悲惨な状況を「ネガからポジ」に置き換え、痛烈な喜劇として忘れられない作品にしたのは映画「肉弾」(1968)と思い再見した。
 「肉弾」は原爆投下後、敗戦濃厚な日本。本土決戦に備え、特攻隊編入された「あいつ」の物語。自分が体験した物語を「あいつ」の視点で客観化して道化にして笑う。
 例えば空腹で「あいつ」(寺田農)は食料不足で空腹に耐えきれず、牛のように反芻して繰り返し食べる。
 区隊長(田中邦衛)「それでも人間か!」と言われれば「牛であります」と答える。
 候補生は常時、栄養失調。食料を増やしてくれるよう区隊長に意見した「あいつ」「豚になれ」と言われ素っ裸爆破訓練
 その時の「あいつ」の心の中を語る仲代達也のナレーションが耳に残る。
あいつ「「恥ずかしい」と言う感情が持てなかった。顔を赤らめる事すら忘れた。たいしたことはない、たいしたことはない、牛は豚に感謝した。ほんの少し餌が増えた。体中を顔にして風邪をひかなくなった、アレルギー体質が治った、たいしたことはない
 「たいしたことはない」と感情が鈍磨している「あいつ」の語りに、私は、笑うに笑えず、ただ時折、何気ない場所で泣きそうになった。

引用:映画「肉弾」ポスター

 笑うに笑えないのは、次の場面。 
 停年前の学校長閣下(今福正雄)が涙を見せ語る「対戦車特攻隊員になってもらうことになった。諸氏は本日より人ではない、神だ」しかし、背景には明るい音楽、「あいつ」は語る。
それだけだ。本当にそれだけだ。人から牛になり、牛から豚になり、豚から人間に帰ろうと思ったら一足飛びに神様になっちまった。それだけの話だ」
 とはいえ学校長閣下は大量の食糧と砂糖を持ってトラックに乗って去る。「こういう人生もある。たいしたことはない。そういうことだ
 二十歳前後の若者を死に至らせる命令を下す老人は、老後を裕福に暮らし「あいつ」に未来はない。
 映画の前半は、特攻隊任務前日の外出許可が出た一日の話。その日は一日中、ずっと雨だった。

 泣きそうになったのは次の場面。
本を探しに古本屋に行き、古本屋のおじいさん(笠智衆)との場面。
 古本屋のおじいさん(笠智衆)がB29で両腕をなくし、本の代金はいらないから、留守のおばあさんの代わりに「あいつ」に小便の介助をしてもらう。
おじいさん(笠智衆)が「あいつ」の介助で小便を気持ちよく出しながら、
おじいさん「兵隊さんよ。いい気持ちだ」
あいつ「そうですか。そいつは良かった」
おじいさん「兵隊さん。死んじゃあだめだよ、
死んじゃっちゃ、こんな気持ちになれっこない」
あいつ「そうですね、でも…(シリアスな事を考え途中でやめて、おしっこ)長いですね、止まんないんじゃないですか?」

 空襲で父と母と五才の妹を失った遊郭の主人うさぎ(大谷直子)との出会い。遊郭で、数学の勉強しながら店番をしている少女・うさぎ(大谷直子)。あいつがうさぎに因数分解を教えて仲良くなり…。
 うさぎは、ボロボロの家にいて
うさぎ「父と母と五つの妹、ここで三人が死んだ。蒸し焼きになって、蝋人形のように…」
 勤労動員で工場に行っていて助かったうさぎは、兄も特攻隊だった。ベニヤ張りの一人乗りのSS艇、先に爆薬を積めて敵の船に体当たりして死んだ。
 二人の間に生まれた深い悲しみと共感。あいつは、初めて自分より大切な人が出来て、
あいつ「俺は死ねる。これで死ねる。君のために死ねる」半面「うさぎと共に心底生きたい」と言う強い感情もわいてくる。 

引用:「肉弾」あいつ(寺田農)うさぎ(大谷直子)
引用:映画「肉弾」うさぎ(大谷直子)

 もう一人印象深い人物、手榴弾を手にした少年(雷門ケン坊)は、空襲で兄を失い、一人になり「あいつ」と共に砂丘で穴を掘り「肉弾」となる。
少年の「ニッポン、良い国、清い国、世界で一つの神の国」が空しく響く。あいつ「汚いより清い方がいい、神の国より人間の国の方が良い。強い国ってのはどうかなぁ。世界に輝く偉い国、そうあってもらいたいなぁ」
あいつ「君みたいな子供がそんな手榴弾を持つような国はダメだ
 しかし、敵の戦車上陸もなく、今度はドラム缶付き魚雷で一人敵空母を狙うが…

 
この映画の全ての人に名前はない。名もなき人の声、声にならない思い、声に出来なかった「あいつ」の叫び。
「汚いより清い方がいい、神の国より人間の国の方が良い」あいつの言葉は、戦争のニュースが絶えない今こそ深く響く。

引用:映画「肉弾」あいつ(寺田農)

 最近、いろいろなシステムが戦後のまま何一つ変わらず、戦争が経済戦争に変化しただけではないか?と。
 だから、時代が変わっても、戦争や核の危機は変わらず、そのメタファーであるゴジラは今も更に怖く、作り続けられる。映画の中の「あいつ」が、時々「ゴジラ-1.0」神木隆之介演じる敷島に見えた。

 岡本喜八監督の古いフィルムの映画を観て、最後に気づいた。
 そもそもフィルム撮影の映画はネガからポジフィルムが生まれる。
ネガポジは区別されるものではなく、一心同体、ネガにが入ればポジにもがつき、消えることはない。
 だから一番大切で繊細に扱わなければならないのはネガだ。フィルムでは、ネガのディティール、深さが、美しいポジを生む。人間としても弱く傷つきやすいネガを大切にして生きたいと思う。


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