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たまねぎの皮を剥く 〜生きるとは〜

日本人の多くが好きなカレーライス。
カレーを作るのに欠かせないのは、じゃがいも、人参、そしてたまねぎ。もちろん豚肉やカレールーも必要です。

ちなみにカレーの中に三枚肉の塊が入るとか、時には鶏肉やツナ缶が入ると知ったのは、結婚してからのこと。
実家を出るまでは、豚バラスライスがカレーの主人公でした。

私が育った田舎は半農半漁の地方で、父はサラリーマンの傍ら、休みの日には畑仕事をしていました。私が子どもの頃は畑仕事を手伝う、なんていう殊勝なことはなく、ひたすら無関心でいました。

とはいえ、畑で採れたものは自ずと食卓に並びます。毎年、春先になると食卓に並んだのは「たまねぎ」
この忌まわしき野菜は、オニオンスライスとして目の前に現れます。

どこに、朝からオニオンスライスを嬉々として食べる小学生がいるでしょうか。母親から「血液がサラサラになるから」と言われ、それでも渋っていると「食べなきゃ学校行っちゃいけません」と半ば強制的に食べさせられたのを、昨日のことのように思い出します。

血液をサラサラにする必要があるのは動脈硬化が心配される中高年男性(この場合、父親)であって、それは決して小学生には当てはまらないことを大人になってから知りました。
当時は反論できずに、大量のマヨネーズをかけたオニオンスライスを飲むように流し込んでいた記憶があります。カレーは飲みものであるように、オニオンスライスは私にとって飲みものでした。

閑話休題。
一人暮らしを始めると自分でも包丁を持つようになり、たまねぎの皮を剥くことがありました。

たまねぎの外側にある茶色い薄皮。
それをめくると見えてくる白い部分。これは果たして実と呼ぶべきものなのか。はたまた、これから干からびて皮になる手前のものなのか。

ヒトはたまねぎの茶色と白を食べられるか、そうでないかで区別しているものの、一歩引いて見るともともとは同じものではないかということに考えが及びます。

それでは、皮を向いた先にある(この先、皮になるかもしれない)白い実のような部分も一枚ずつ剥がしていくと、最後には何が残るでしょう。
ほかに実と呼べるものはあるのか、好奇心に火がつきます。

たまねぎの皮を剥き続けたら、これまで剥いてきたものと同じものに遭遇します。それは皮なのか、はたまた実と呼ぶべきものなのか。

そして、皮を剥く行為を続けていたら、皮を剥く行為だけが残った。

このことは、何かを追い求めて生きても、生きて存在している事実に行き着く、ということをたまねぎが象徴しているように感じます。
その先にあるはずの真実を追い掛けて行ったら、じつは何も現れることはなかった。何かを求めて追いかけても、その先は「空」だった。

たまねぎの皮を一枚一枚剥いていく行為は、生きることの本質につながるのではないでしょうか。
先を焦らず、目の前の行為そのものに対峙する。何かを追いかけるのではなく、行為そのものを味わう。ここに生きる本質があるように思います。

あ、たまねぎは火を通すと甘くなって美味しいんですよね!
目の前に現れた課題も、料理の仕方ひとつで辛くも甘くもなるといったところでしょうか。

今日はここまで、よい旅を。

physical, mental, spiritual and social well-beingに生きるお手伝いをしています。2020.3に独立開業しました。家族を大切にし、一人ひとりが生き生きと人生を楽しめる社会が訪れるといいなと思いながら綴っています。