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歎異抄の旅(5)『源氏物語』で有名な横川僧都(源信)を訪ねて

 なぜ、『歎異抄(たんにしょう)』に引きつけられる人が、多いのでしょうか。
 それは、誰もが抱いている
「死んだら、どうなるか」
という不安に、真っ正面から答えた古典だからです。
 しかも『歎異抄』には、釈迦(しゃか)が明らかにされた「往生極楽(おうじょうごくらく)の道」が示されているからでしょう。

「死んだら無になる」「土に返るだけ」と、何の不安も迷いもなく断言できる人は、ほとんどいないと思います。
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)も、
「父に続いて母も亡くなった……。次は、自分の番だ」
と驚かれたのです。
「死んだら、どうなるか」の大問題を、仏教では「後生(ごしょう)の一大事」といいます。
 親鸞聖人は、未来がハッキリしない、不安な心を解決するために、9歳で出家し、天台宗(てんだいしゅう)の比叡山(ひえいざん)へ入られたのでした。

 京都府と滋賀県にまたがる比叡山には、100以上の寺が、広い範囲に散在しています。山の中は、大きく三つのエリアに分けて、東塔地域(とうどうちいき)、西塔地域(さいとうちいき)、横川地域(よかわちいき)と呼ばれています。

 前回までは、東塔地域を訪ねました。
 今回は、親鸞聖人の足跡を探して横川地域へ向かいましょう。
 観光の起点となっている延暦寺(えんりゃくじ)バスセンターから、車で奥比叡(おくひえい)ドライブウェイへ入ります。
 カーブの多い道ですが、きちんと舗装され、高速道路のように途中には広い休憩所があり、トイレも完備されています。

休憩所の展望台からは、琵琶湖を眺めることができる

 車で5キロメートルほど北へ進むと「横川バス停」のパーキングエリアに着きました。
 駐車場の一角に山門があります。
 ここで東塔、西塔、横川の三つの地域を巡拝する入場券を持っているか、チェックが入ります。
 門を過ぎて、ちょっと驚いたのは、
「野生ザルにご注意 近よらないで下さい」
の立て札です。

 確かに、この深い山には、人間よりも野生動物が多くいるに違いありません。
 真冬なので、観光客もいない1月16日。ひっそりした参道を歩くと、さらに驚く光景に出合いました。
 親鸞聖人のご一生を表した絵看板が、10枚も、道なりに並んでいるではありませんか。

親鸞聖人のご一代を表した絵看板

 9歳で出家されてから、90歳でお亡くなりになるまでのご苦労を絵で表しているのです。
「ここは、本当に、天台宗の山なのだろうか」
と思うほど、親鸞聖人を褒めたたえてあります。

信行両座の諍論
越後への流刑
越後から関東へ

 やがて、崖の上に、朱塗りの長い柱と貫で固定された寺が見えてきました。このエリアの本堂に当たる横川中堂(よかわちゅうどう)です。

横川中堂

「舞台造り」といって、京都の清水寺(きよみずでら)と同様の建築方式をとっています。

『源氏物語』の旧跡
  源信僧都の恵心堂へ

 横川地域で有名な僧侶といえば源信僧都(げんしんそうず)です。親鸞聖人が、とても尊敬されている高僧です。
 源信僧都ゆかりの恵心堂(えしんどう)が近くにあるので訪ねてみました。
 横川中堂から、高い樹木に覆われた道を進んでいきます。静かです。大自然の中を歩き、シーンとして澄み切った空気を肌で感じると、
「1000年前も、800年前も、こうだったのではなかろうか。源信僧都も、親鸞聖人も、この道を歩まれたに違いない」
と思えてきます。
 10分ほどで、目的地に着きました。
 境内の真ん中に、石畳の通路があり、その奥に建つ質素な寺が恵心堂です。

横川の恵心堂

 予想していたよりも小さな建物でした。ここで、源信僧都は仏教を学ばれ、多くの書物を執筆されたのです。
 恵心堂の前には、意外な石碑がありました。
「『源氏物語』の横川僧都遺跡」
と刻まれています。

恵心堂の前にある石碑 源信僧都は「横川僧都」「恵心僧都」とも呼ばれていた

 碑文を読むと、源信僧都は、紫式部(むらさきしきぶ)が書いた『源氏物語』に何度も登場しておられることが分かりました。だから、この恵心堂は、『源氏物語』の遺跡にも当たるのです。
『源氏物語』にまで、尊い人格の高僧として登場する源信僧都とは、どんな方だったのでしょうか。

母と子が、一つの目的に向かい、念願を果たす

 源信僧都は、幼名を千菊丸(せんぎくまる)といいました。早くに父と死に別れ、母の手一つで育てられたのです。
 幼い千菊丸が、川原で遊んでいると、川の水で弁当箱を洗っている旅の僧侶を見つけました。前日からの大雨で、水が濁っています。
 千菊丸は、親切に、
「お坊さん、その水は汚いよ。あっちに、もっときれいな川があるんだよ」
と教えに行きました。
 すると僧侶は、すっと立ち上がって、
「坊や、仏教では『浄穢不二(じょうえふに)』といって、この世にきれいなものも、穢(きたな)いものもないと教えられているんだよ」
と、もっともらしく答えたのです。
 すると千菊丸、ちょっと首を傾けて、
「『浄穢不二』ならば、なぜ、洗うの?」
と聞き返しました。
 率直で鋭い反撃に、僧侶は、ぐっと詰まってしまいました。
 こんな子どもに言い負かされたままでは引き下がれません。ちょっと懲らしめてやろうと思って、千菊丸に、こう言ったのです。
「坊や、十まで数えられるかい」
「そんなの簡単だよ」
「じゃ、やってごらん」
「いいよ、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十」

 僧侶は、ニンマリして、
「おや、今、おかしな数え方をしたね。一つ、二つと、どれにも『つ』をつけるのに、なぜ十だけは『とお』と言って、『つ』をつけないのかな」
と、追及します。
 すると千菊丸は、
「それは、五の時に、『いつつ』と言って、『つ』を二つ使ってしまったから、十の時には足りなくなったんだよ」
と、さらりと答えるではありませんか。
 旅の僧侶は驚いてしまいました。
「こんな優秀な子を、出家させたら、必ずや偉大な僧侶になるだろう」
と思って、早速、母親に会いに行ったのです。
「お子さんは、実に賢い。比叡山へ入れて、仏教の学問をさせたらどうでしょうか」
と勧めたのでした。
 子どもを手離したくないのは、どの親も同じです。しかし、千菊丸の母は、
「仏教を学ばせたほうが、この子のためにも、亡き夫のためにもなるだろう」
と考え、承諾したのです。
 母は、千菊丸に、
「立派な僧侶になるまでは、二度と帰ってきてはなりませんよ」
と言って聞かせました。

 千菊丸は、名を「源信(げんしん)」と改めました。
 母との誓いを守って、一心不乱に勉学に励んだので、次第に
「比叡山に源信あり」
と有名になり、宮中でも評判になったのです。
 ついに、時の天皇より、
「源信から、経典の講釈を聞きたい」
と、比叡山へ要請がありました。
 この時、源信は15歳だったといいます。内裏(だいり)へ赴き、天皇はじめ群臣百官に仏教を説きました。天皇は、若い源信の堂々たる弁舌に感嘆し、褒美として、七重(ななえ)の御衣(ぎょい)、香炉箱(こうろばこ)などの珍宝を与えたのです。
 晴れの舞台で大役を果たし、名声を博した源信の喜びは、天にも昇る心地でした。
「ああ、お母様にお伝えしたら、どんなに喜んでくださるだろうか」
 源信は、早速、事の始終を手紙に書き、天皇から贈られた品々とともに、郷里の母の元へ送ったのです。
 ところが、間もなく、母から、すべての荷物が、送り返されてきました。
 そこには、次のような手紙が添えられていました。

 私は、片時も、おまえのことを忘れたことはありません。どんなに会いたくても、やがて尊い僧侶になってくれることを楽しみにして、耐えてきたのです。
 それなのに、権力者に褒められたくらいで有頂天になり、地位や財物を得て喜んでいるとは情けないことです。名誉や利益のために説法するような、似非坊主(えせぼうず)となり果てたことの口惜しさよ。
 後生の一大事を解決するまでは、たとえ石の上に寝て、木の根をかじってでも、仏道を求め抜く覚悟で、山へ入ったのではなかったのですか。
 夢のような儚い世にあって、迷っている人間から褒められて何になりましょう。後生の一大事を解決して、仏さまに褒められる人にならねばなりません。
 そして、すべての人に、後生の一大事の解決の道を伝える、尊い僧侶になってもらいたいのです。 母より

 手紙の最後には、次の歌が書き添えられていました。

 後(のち)の世(よ)を渡す橋とぞ思いしに
    世渡る僧となるぞ悲しき

イラスト・黒澤葵

 源信は、泣きました。まさに徹骨(てっこつ)の慈悲(じひ)です。迷夢から覚めた心地で、ひたすら、後生の一大事の解決を求めて、勉学に励んでいきました。

 それから25年以上の歳月が流れました。ついに、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)に救われ、後生の一大事の解決を果たした源信僧都は、
「今度こそ、お母様に喜んでいただける」
と、郷里へ向かったのです。
 ところが、途中で、自分へ手紙を届けようとして急いでいる男に出会いました。何か胸騒ぎがした源信僧都、封を開いてみると、姉の文字でした。
「お母様は、もう70を超えられ、体が弱くなられました。ここしばらく風邪で寝込んでおられたのですが、ますます衰弱され、明日をも知れぬご容態です。そんな苦しい息の中から、源信が恋しい、源信に会いたい、と繰り返し言っておられます。どうか、少しでも早く帰ってきてください」
 驚いた源信僧都は、ひたすらわが家へ急ぎました。

「源信です。ただいま帰りました」
 母の耳元で、そっと告げると、
「よく帰ってきてくれたのう。今生(こんじょう)では、もう会えないかと思っていた……」
とつぶやき、顔に、生気がよみがえってきました。
 源信僧都は、すでに40歳を超えています。幼い日、比叡山に登ってから一度も顔を見ていませんが、母は、毎日、息子が仏法者の道を踏み外さないようにと念じ続けてきたのです。
 今こそ母の恩に報いたいと、源信僧都は、仏法を伝えるのでした。
「阿弥陀仏は、『すべての人を必ず、この世も未来も最高無上の幸福にしてみせる。もし、できなかったら、仏の命を捨てよう』と約束なさっています。後生の一大事の解決は、阿弥陀仏の本願によらなければ、決してできないのです……」
 息子の説法を聴聞(ちょうもん)して、母も、阿弥陀仏の本願に救われて浄土往生(じょうどおうじょう)を遂げたと、伝えられています。
 遠く離れていても、母と子が、一つの目的に向かい、念願を成就したのでした。

『枕草子』『平家物語』などにも、大きな影響を与える

 源信僧都は、後生の一大事の解決の道を示すために、恵心堂にこもって『往生要集(おうじょうようしゅう)』を書かれました。

源信僧都が『往生要集』を書かれた恵心堂

 恵心堂の近くには、『往生要集』を、「仏教文学の白眉(はくび)」と讃えて解説した絵看板がありました。次のように書かれています。

『往生要集』は、経典のなかから往生についての要文を集め、問答形式で書き綴ったもので、念仏往生(ねんぶつおうじょう)の重要さを説きながら、文学的価値も非常に高い作品として知られています。『源氏物語(げんじものがたり)』『栄華物語(えいがものがたり)』にしばしば引用されたほか、『枕草子(まくらのそうし)』『平家物語(へいけものがたり)』『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』や数多くの謡曲(ようきょく)、浄瑠璃(じょうるり)などにも影響を与えました。

 源信僧都の『往生要集』には、死後の地獄や極楽の様子が、読む者の心に迫る文章で書かれています。『往生要集』をもとに地獄絵図、極楽絵図も描かれました。
 清少納言の『枕草子』にも、地獄絵図が出てきます。その場面を意訳してみましょう。

 ある日、帝(みかど)が、地獄絵図を持ってきて、中宮定子(ちゅうぐうていし)さまに見せようとされました。
 地獄と聞いただけでも、命が縮まるほど恐ろしいのに、「これを見よ、これを見よ」とおっしゃるのです。
 私は、「怖いから、決して見ません」と言って、隣の部屋へ行って、体を小さくして隠れていました。

(『枕草子』より)

 源信僧都の『往生要集』は、平安時代の貴族の間にも、広く伝わっていたことを示しています。
 怖がる女性に、地獄絵図を見るように強いるのは、かわいそうです。清少納言は、ショックのあまり、かなり長い時間、隣の部屋に隠れていたようです。
 源信僧都は、決して、人を怖がらせるために『往生要集』を書かれたのではありません。
「すべての人は、必ず死んでいきます。一日、一日、私たちは死に近づいているのです。死んだら、どうなるのか。この一大事に、少しでも早く気がついてもらいたい」
と願っておられるのです。

なぜ、人間に生まれたことを、喜ぶべきなのか

 また、源信僧都は、私たちに、
「人間に生まれたことを喜びなさいよ」
と、次のように教えられています。

(原文)
まず三悪道(さんあくどう)を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり。身は賤(いや)しくとも畜生(ちくしょう)に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼(がき)に勝るべし、心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。

(横川法語)

(意訳)
まず地獄・餓鬼・畜生の三つの苦しみの世界を離れて、人間に生まれたことは、大いに喜ぶべきことです。身分、家柄で差別されている人でも、畜生よりは上でしょう。家が貧しいといっても、餓鬼よりは幸せです。人生は思いどおりにならず、苦しいものですが、地獄の苦とは、比較になりません。

 生きるのが苦しいといっても、他の世界と比べたら、今、人間に生まれることができたのは、とてもありがたいことなのです。
 命を大切にしなければなりません。
 そして、大切な命で、何をするのかを考えることが重要なのです。
 源信僧都は、仏教を聞き求めて「後笙の一大事」を解決することが、この世も、未来も最高無上の幸せになれる道ですよ、と教えられています。

 親鸞聖人は、源信僧都から200年以上後に、比叡山へ入り、横川で仏教を学び、修行に励んでおられました。

横川中堂から恵心堂への道。「1000年前の源信僧都、800年前の親鸞聖人も、きっとこの道を歩まれたのだろう……」という思いがわいてくる

 しかし、場所は同じであっても、比叡山時代の親鸞聖人は、源信僧都が明らかにされた阿弥陀仏の本願にあわれることはなかったのです。

 親鸞聖人は、晩年に、
「善知識(ぜんじしき)にあうことも
 教うることもまた難(かた)し」
とおっしゃっています。
「善知識」とは、後生の一大事の解決の道を正しく示してくださる仏教の先生のことです。
 善知識が、どんなに近くにおられても、縁がなかったら、お会いすることも、教えを聞かせていただくこともできないのです。

 親鸞聖人の、比叡山での求道は、まだ続きます。
 次回は、比叡山の西塔地域へ向かって、親鸞聖人の足跡を訪ねてみましょう。

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