この度、わたくしの念願だった、ペットロスの方向けの本を出しました。 亡くなったペットと交信するチャネラーさんや、獣医さんにも寄稿いただき、ペットロスの方を少しでも笑顔にできるようにとの思いで出版しております。 応援いただけましたら、大変ありがたいです🙏 【本日の抜粋】 『飼い主さんの愛情が深かった分だけ、ペットたちもそれに応えるように深く感謝して、お空に旅立っていきます。この本を通じてそういったことを是非知っていただきたいと思った次第です』 Am
「中庸」 というものを 「真ん中」や「平均」のように 思っておられる方も多いわけ ですが、 もともとの意味は 「極端な行き方をせず穏当」 「片寄らず中正」 なのであって、 必ずしも 「真ん中」ではないわけです。 上下、 左右、、 前後、、、 軸と軸の両端を見極めながら、 バランスの良いところを探る。 大きく偏っている状況ならば、 あえて、こちらも偏ることで、 バランスを取ることもある、 ということ。 陰極まれば、陽となり、 陽極まれば
「空って、青いんだなぁー」 とか、 「花って、きれいなんだなぁー」 とか、 「風って、気持ちいいんだなぁー」 とか、 他のことは何もかも忘れて、 それだけを感じられる時間、 どれほど創れていますか?、 ということです。 何かに追われて、 忙しくしている一日の中で、 「損だの得だの考えない時間」 「善だの悪だの決めない時間」 「あるものをあるまま受け容れ ていく時間」 そういう自然とつながる瞬間、 それこそが、 本当の心の豊かさをわたくし た
人間って、 「否定すること」 が得意じゃない生きものだと 思うのです。 賛成しなくてもいいんだけど、 「そういう考え方もあるねー」 って、 否定をしないで生きる。 実のところ、 世の中は、 どっちでもいいことのほうが 多いんです。 気にしない、気にしない。 感謝、合掌 慈永
「利益(りえき)」を取るのか、 「利益(りやく)」を取るのか、 同じ漢字の中に異なる2つの 意味を込めたことは、 「どちらを選んで生きますか?」 という、 神さま仏さまからの問いかけ である、 ということなのです。 感謝、合掌 慈永
「世のため、人のため」 とよく言いますけれども、 すべてのことは、究極、 「自分のため」なんでしょ?、 と申し上げたいわけです。 「あなたのためを思って」って、 親御さんがお子さんへ話する シーンが目に浮かびますが、 これとて、 子供を思う親としての役割や 責任を果たしたい、 という自らの思いがあるから こそで、 それは、 「自分のため」 なんじゃないんですか?、 ということなのです。 「世のため、人のため」 を否定しているわけではなく、
毎日を生きている、 ただそれだけで、 わたくしたちは意図などせず、 他人を傷つけることがあるの です。 そういう事実に気づくことが できたならば、 常に自分が正しいというわけ ではなく、 もしかしたら自分以外の目線 からは、間違っているのかも しれない、と、 常に襟を正して周りの意見に 耳を傾け続けることができる。 100人いたら、 100の正義と、 100の善悪と、 100の真実がある。 ひとりで生きているわけでは ないのです。 みん
「苦情」というものは、 伝えなきゃわからないことも あるわけですから、 伝えた方がいいのですが、 その言い方に、 「良く在ってほしい」と寄り添う、 「ひととしてのやさしさ」 が込められているのかどうか、 すべては、そこに尽きるのだ、 ということなのです。 感謝、合掌 慈永
わたくしたちは、 いつも「幸多き人生」を祈ります が、 「幸多き人生」は、 必ずしも「喜び」だけから創られ ているわけではないのです。 深い感謝は、本当にひとを幸せ にすると言われますが、 それは、むしろ、 「哀しみ」の中から創られること に気づいてください。 例えば、 ご両親が亡くなって、はじめて ご両親の深い愛情を識ることは、 本当によくあることです。 諸行無常の世界の中で、 わたくしたちは、 当たり前にあったもの、 若さや、健康や、
「これぐらいのことで何だ、 オレは情けないヤツだな」 そうやって、 自らを勇気づけることを否定 はしませんが、 自分自身への接し方こそが、 自分自身の持つ価値観の現れ なのだ、と言うことに気づく ことです。 自分に厳しく接するひとは、 概して、他人さまにも厳しい。 遅刻をしない、という価値観を 持つひとは、他人さまが遅刻を した時に、顔では笑っていても、 決していい気持ちはしていない、 ということなのです。 価値観がひとを創るのですが、 価値観
ご先祖さまは、 次のように思っておられるの かもしれません。 あれこれ望んではいないので、 ただ「生きる」のではなくて、 「生き切ってほしい」 、と。 さて、明日から、 何をどういたしますかね? 感謝、合掌 慈永
「しょうざせ」と読みます。 人さまに席を譲る、という、 仏教「無財の七施」の一つです。 「人さまのお役に立ちたい」 それはとても素晴らしいこと なのですが、 いつまでも、いつまでも、 「わたくしが、わたくしが」 としゃしゃり出る。 ある程度、歳を重ねたらね、 「わたくしが、わたくしが」 ではなくて、 「あなたが、あなたが」 と、 他の方へ、 活躍の機会を譲っていく、と いうこと。 人さまに 活躍の機会を差し上げる、 それも、また、立派な、
わたくしへのお悩み相談でも、 常にTopにくる相談事ですが、 「人間関係」で最も大切なこと は、 漢字を一文字、置き換えると とても理解しやすいのです。 「人間間係」 感謝、合掌 慈永
「足りていないひと」 と 「余計なことまでするひと」、 どっちが生きづらいか?、 ということです。 「足りない」ところはひとに 好かれたりもしますが、 「過ぎる」ところはだいたい ひとに嫌われるものです。 「足りていないひと」は、 何かあるごとに、 「足りないところあれば教えて くださいね」 と周りに伝えれば、事なきを 得ることも多い。 一方、 「余計なことまでするひと」は、 自らの判断だけでものごとを 進めてしまうので、周りの方 は止めよ
本当のところ、 「チャンス」というものは無限 に拡がっている、というわけ です。 にもかかわらず、 「何だかチャンスに恵まれない んですよね」、 お悩み相談でよく承るご相談 内容です。 「チャンス」をつかめるひとと、 「チャンス」をつかめないひと、 そこには、 「本気度に基づく言動の差」 というものがあるわけです。 例えば、 本を出したくて、出版関係の ご縁を探している、 とするでしょ? 会うひと、会う人の名刺見て 「出版関係の方はいないか
例えば、 「成長」というものは、 「支援」と「試練」、 その両極によって、 もたらされるのです。 自分にとって都合の良い片方、 自分にとって都合の悪い片方、 ものごとというものは、 その両極を受け容れることで はじめて「成就」するのだ、 と、心得ておくことです。 感謝、合掌 慈永