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何もなかった時代に思いを馳せる

私の幼少期は本当に誰に聞いても【おてんば】だったそうで。

特に兄が2人いる。ということも相まって、いつも遊びに行く際は兄の後を追いかけていました。
男の子の遊びですから木に登ったり、高い所からジャンプしたり、仮面ライダーごっこと称して戦ったり。
とにかく激しくてよく生傷を作っては兄に付いて行くなと母に怒られました。(聞かなかったですが笑)


よく人生の楽しかった時期を思い返す中で出てくるのはこの幼少期の時期。

なぜか胸がじわ〜んと温かくなるんです。


何もない田舎

私が生まれたのはギリギリ昭和の雰囲気が残っている時代で、特に田舎ということもあり

コンビニもなければスーパーもない
もちろん携帯もなければ、パソコンもない訳です。

スーパーがないので週に何回か野菜やお菓子、ちょっとしたおもちゃを積んでいるトラックが来ます。その地区に1台しかトラックは来ないのでその日は主婦の集会になって大賑わい。携帯もない時代、皆この場所で情報交換という井戸端会議が行われていました。

豆腐は別の豆腐屋さんの車がラッパを鳴らしながら、歩いた方が早いくらいの速度で地区を周っていました(よくお使いで買ってきてと頼まれて走って追いかけました)

本屋さんもなかったので移動式の車の図書室が来ました。

コンビニの代わりは個人の商店で、駄菓子を買いによく50円を握りしめて遊びに行きました。

「子供の遊び」といえば近所の公園に行くか秘密基地を作ったり、
自然豊かだったので川や田んぼでエビやメダカを捕まえたり、ザリガニ釣りなんかもしました。そして探検と称して近所をよく散策したものです。

私は動物が大好きだったので近所の探検中に犬を飼っている家を見かけたら躊躇せずに、例え知らない人の家でもピンポンを鳴らして

「犬を見せてくださ〜い!」とお願いしました笑

今ではきっと考えられないですが
家に鍵もかけないような平和な時代だったので、皆快く家にあげて可愛がってくれてお菓子までくれたものでした。

これに味を占めた私は色々なところにピンポンをしては犬を見せてもらい、お菓子をもらう事を繰り返したので近所で「おてんば娘」として噂になり、とうとう母の耳に入りこっぴどく怒られたのでした。


便利な時代と引き換えに

現代はその頃に比べるととても便利な世の中になりました。
24時間開いているコンビニ、
豆腐も野菜も魚も肉も一箇所で買えるスーパー。
携帯でいつどこでも動画が見れるし、調べたいことは図書館に行かずとも調べられるようになりました。

この便利な生活に慣れてしまった私たちがいざ
【携帯を使わずに1日を過ごすこと】を強いられたら
何をして良いのか戸惑ってしまうのではないでしょうか。

こんなに便利なのに一番色濃く残っている私の思い出はやはり何もなかった不便な時代。何もないけれど何もないからこそ自然と共に遊び、近所で助け合い、全てが循環して○という和になっている感覚。
すぐには解決できない多くの疑問を抱きながらイメージを頭の中で膨らませて夢みた日々。


ツツジの蜜を吸いながら木にのぼり木の実を食べ、
豆で笛を作り、ゆっくりゆっくり帰った帰り道。


1日という時間がとても長く濃かったあの日々。



こんなに便利な世の中なのに、いつでもどこに居ても知らない人とも繋がれるのに
なぜかあの時代より現代は孤独や寂しい感じがするのです。


ふと気づけば、何気なく開いたSNSに何時間も費やして後悔。。。
目まぐるしい情報が自分の意思とは裏腹に次から次にやってくる。

もっと面白い動画が回ってくるんじゃないかと期待して永遠のループに陥る。SNSというのはよく出来た構造で、少しでも私たちをそのアプリの中に滞在させようとします。

そして、「この後どうなるんだ」という疑問の数秒後にはすぐに答えがわかってしまう。という仕組み。

もっと、もっと、もっと

と刺激中毒に陥り、満たされない感覚に陥ってしまう。
満たされないから気づいたらまた携帯を開いてしまう。

心がどんどん疲弊して、一向に豊かになれない。無限ループ……


人生の先輩に学ぶ習慣

話は変わりますが、
私は年配の方とお話しをするときにとても心を揺さぶられる瞬間があるんです。
距離がなんだか近いというか、でもそれは全然嫌な感じとかではなく、
むしろ心が近いという意味で安心するという感覚なんです。そこになんの躊躇もなく変な気遣いもなくて。例えば、

頑張ってね と肩をぽんぽんとしてくれたり、
手が冷たいね〜 と手を温めてくれたり、
持っているお菓子をくれたり、
そして何かしら褒めてくれたり。
私は特に良い眉毛してるね〜!と褒められます笑

きっとこれって、自分の感覚を今でも大事にしているからこそ生まれる人としての温かみではないのかなと思うのです。

どういうことかというと、年配の方って当たり前かもですが
「携帯を見てずっと下を向く」ということをしないんです。
それはもちろん身体的に見るのが辛い。ということもあるのかもしれないのですが、【今、この瞬間を楽しむ】ということにとても長けている。
景色を観察したり、人を観察したり、その場の感覚を楽しんでいるんですよね。

だからよく小さなことに気づく。私のおじぃちゃんも生前はよく皆と行動していてもふら〜っといなくなり、誰も気にしないような細かな所に夢中になりよく迷子になっていました。笑

人がたくさんいる中でも携帯を見ずに自分の周囲を観察することって、結構私たちには勇気がいる行為ですよね。
変な人と思われたくないとか、目立ちたくないとか、他の人と目が合いたくない…など。

だから四六時中携帯を見てしまう。
その場所の雰囲気、人、音、匂い、
そこに溶け込もうとせずにここではない非現実世界に入り込んでしまう。


でも大事なことって自分の感覚のリズムと自然のリズムを合わせて生きていくことなんだなと人生の先輩を通して思うのです。


これからの生き方

話は長くなりましたが、結局何が言いたいのかというと
私たちには圧倒的に

今に留まること、足るを知る】

というこの部分が欠けてきているのではないかと思うのです。
便利な世の中と引き換えに心の豊かさや、人と人とが助け合う和の習慣が
すり減ってしまっている現代。SNSの世界に入り浸り、今ここではない世界に意識を飛ばしてしまう。

もっと頑張らなきゃ
もっとこんな物が欲しい
もっと癒しが欲しい
もっと貯金を増やそう

常に不足の意識。

でも不便で何もなかった時代って、とっても心が満たされていて温かな雰囲気に包まれていました。
社会や風潮というものは1人1人の意識から創られていくものです。
だからもう一度私たちは原点に還る必要があるのではないでしょうか。


足りないものではなくてすでに自分が持っているもの、
有るものに目を向ける習慣
想像力を働かせる習慣
身の回りにある当たり前のものや自然を観察する習慣

こういった習慣を実践していくだけで心がすごく豊かになり、そしてこの豊かな波動に連動してさらに豊かになるようなことが起こる好循環が生まれる。



私も実際に強制的に携帯を触らないようにサウナに行ったり
ウォーキングに出かけたり、最近はハイキングにも行くようになりました。


その時の身一つになった感覚というか、
私が私だけに戻っていく感覚というか。
とてつもなく自分が小さくて、でも内側と外側がコネクトして自分の中に壮大な何かを感じるような。

なんとも説明しづらい感覚になるのですが、心がそして魂が喜びで満たされていくのがわかるんです。


1人が変われば大きな波紋となって社会が変わっていくんです。
私1人なんて微力と思うかもしれませんが、全ては振動や波動でこの世は出来ています。
1人、5人、10人と足るを知り、
不足の状態から抜けて心が豊かになる人が増えたら

それだけで癌世界1位、そして自○率世界1位のそんな日本から抜けることが容易にできるのではないか、あの活気のある時代のように還ることが出来るのではないかと胸が踊るのです。


毎日生誕1日目。
人生はいつからでもやり直せるし、また始められる


最後まで読んで頂きありがとうございます🕊️















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