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存在について・Ⅲ


宣言

この存在論の目的

「認識論がどうであれ否定できない」ことである。

この存在論の結論

「存在とは?」「存在とは存在である(存在以外の何物でもないし、存在以外の何物などない)」
この文には意味がない。しかし、言葉は人間が勝手に作り、言葉に不可欠な意味は人間が勝手に持たせるものであり、意味がないがゆえに事実を表している。

注意すべき原則

「あらゆるものは二つ以上に分けられるが、二つ以上に分けたところでなにも変わらないものがある(物理的な存在であれば変わるが、まず物理を証明できない)そして、それが、二つ以上に分けらけられるように見えるのは、我々の認識上での話に過ぎず、本当は一つしかないこと」
「一つのものを二つ以上に分けたら実在は存在になるが、また一つにすれば実在になる」
「言葉は一つのものを二つ以上に分ける。それゆえに、言葉を使って存在そのものを説明することはできない。しかし、存在そのもの以外は説明できるので、存在そのもの以外をすべて否定することで存在そのものを『どれでもない』というように説明する」
「(知らない人は読まなくてもいい)これはモナドやイデアといった想像上のもの、形而上学的なものではない。この世のすべてであり、この世のものが見えるのなら、この世のものすべてを見れば存在そのものを見たことになる。ただ、それが実際には寿命とか能力の問題でできないので、見ることができない」

今回話す内容はこれがすべてである。

書き方

専門用語を使っていない。
本当、真実、という言葉を使わずに、実際、事実、で統一した(つもりである)。事実には、隠されているのではなく我々が見えていないだけ、という意図がある。実際(という言葉)には、素朴、日常的、常識的という意図がある。
一般的な意味とは違うが、どういうことかを即座に説明されず、後述される言葉は鍵括弧に入れた。あきらかに違うものは要れていない。
時間の「実在」を否定しながら時間を前提にした文章があるが、それは、明言したルールを使い、読者自身で見極めてほしい。

本文

実在種類

「実在する存在」には三種類ある。しかし、分析という「望み」のために分けただけで、実際には実在ABだけである。

実在AB
「存在そのものとは存在そのものである」
「存在そのもの」の言い換えである。
例えるなら、パンにとってのパンと小麦である。写真にとっては枠、あるいは写真が写すものではなく写真そのものである。
・被全体性
・強全体性
・個別性
・唯一性
・存在方法/実在
・存在位置-実在構造での包括者/未分割

実在A
「存在そのものは存在そのものに存在させられている」
例えるなら、パンにとってのパンである。
一つのものを二つに分けた場合の片方である。
・存在方法/存在
・存在位置-実在構造での最大/最高
・その他、「・」に続く部分は実在ABと同じ

実在B
「存在そのものは存在そのものを存在させている」
例えるなら、パンにとっての小麦である。
一つのものを二つに分けた場合の片方である。
・存在方法/存在
・存在位置-実在構造での最小/最低
・その他、「・」に続く部分は実在ABと同じ

存在種類

「存在する存在」にも三種類ある。しかし、分析という「望み」のために分けただけで、実際には存在ABだけである。

存在AB
「今、ここで、どのようにか、誰かが望むすべてであり一つ」
「存在そのもの以外」の言い換えである。
例えるなら、写真の中のすべてである。写真の中のものだけである。
・被全体性
・強全体性
・個別性
・存在方法/存在
・存在位置-存在構造での包括者/未分割

存在A
「今ではなく、ここでもなくても、絶対に実在しそうな、誰かの「望む望まない」に関係しなさそうなすべて」
例えるなら、ある一点に集中して写真を見たときのその一点以外である。
一つのものを二つ以上に分けた場合の片方である。
・存在位置-存在構造での最大/最高
・その他、「・」に続く部分は存在ABと同じ

存在B
「今ではなく、ここでもなくても、絶対に実在しそうな、誰かの「望む望まない」に関係しなさそうな一つ」
例えるなら、ある一点に集中して写真を見たときのその一点である。
一つのものを二つ以上に分けた場合の片方である。
・存在位置-存在構造での最小/最低
・その他、「・」に続く部分は実在ABと同じ

存在の四性質

「実在する存在」には被全体性、強全体性、個別性、唯一性があり、存在する存在には唯一性以外がある。しかし、分析という「望み」のために分けただけで、実際には唯一性だけである。

被全体性
「あるものがあるものを構成するものにされる」
例えば「Eat」は「英語」により「英語」を構成する「英単語」にされる。

強全体性
「あるものがあるものを構成するものにさせる」
例えば「英語」は「Eat」を「英語」を構成する「英単語」にさせる。

個別性
「それを単体で捉えられる/一言で言い表せる」
例えば「赤いバラ」は「赤い」と「バラ」が必要だが、「バラ」は「バラ」だけを必要とする。

唯一性
「それと同レベル/同レイヤーのものがなく、消えてしまうと他のすべても消えてしまう(逆に言えばこれ以外のすべては無くてもよい虚構である)」
例えるなら、本当に米粉100%のパンがあったとしたら、米粉だけを抜いても消えてしまう。

存在構造

あらゆる存在は一つの存在構造に組み込まれている。しかし、分析という「望み」のために考え出しただけで、あらゆるものの認識方法としてしか「実在」しない。そして、存在構造の中に入れられたものも「実在」しない。
ある二つのものが一つのものを作ることで存在構造は成り立つ。一つのものが一つのものを作ることはできない。
例えば、「日本語」と「英語」があれば「言語」を作る/「言語」が作られる。「日本語」だけであれば、「日本語」=「言語」になり、「言語」は意味やニュアンスを変えて存在し続ける(以前の「言語」ではなくなる)か消滅する。

実在構造
実在AB、あるいは実在Aと実在Bは実在構造を作り、実在Aと実在Bの間に存在構造が挟まる。

存在位置
あらゆる存在には存在構造内に三種類の存在位置がある。しかし、分析という「望み」のために考え出しただけで、実際には包括者しか「実在」しない。

包括者/未分割
順番としては、まず包括者/未分割があって、それを分析のために二つに分けている。「望む」ときには無数に分けられているようで、実際には一つである。
存在構造の中では、存在構造を成り立たせる/枠を作る働きをする。
最大最高であり最小最低でもある。

最大最高
存在構造の中で上限に達した、それ以上に大きいものを想像できず、総体に見えるような位置にある。

最小最低
存在構造の中で加減に達した、それ以上に小さいものを想像できず、原子のように見えるような位置にある。

存在方法

あらゆる存在には三つの存在方法があり、どちらかを選択することになる。
最初に例を挙げてこの三つを説明する。

彼ピは浮気をしていたり彼女の陰口を叩いたりしているから好いていないっぽい。本当に好いていない場合、「彼ピは私のことが好き」は実在しない。そして彼女からすると彼ピが彼女を好いている絶対的な証拠はないのでどこまでも実在しない。
しかし「彼ピは私のことが好き」という考えは実在しないだけで存在はしている。これの存在方法を限界的な実在にするとこうなる。「彼ピは私のことが好き、と私は考えているっぽい」

実在としての存在
四性質について説明したときの「存在方法/実在」と同じ意味だが、混乱させてしまいそうなのでこう表記する。
これは、事実ということである。この方法をとれるのは実在ABのみである。
これには我々の「望み」は関係ない。

存在としての存在
四性質について説明したときの「存在方法/存在」と同じ意味だが、混乱させてしまいそうなのでこう表記する。
これは、存在はするが、「実在」しないということである。
この方法をとるものはいくらでもあるし、「望み」によって成り立つ。
存在としての存在方法には、「物理として存在する」「自然科学の結果として存在する」「常識として存在する」「妄想として実在する」など。注意してほしいのは、「物理として存在する」と「自然科学として存在する」が同じ意味である根拠はない。また、物理や自然としての存在方法は実在としての存在方法ではない。

限界的な実在
これは、存在ではあるが、限りなく実在に近いっぽいということである。
存在そのもののの実在以外に事実はなく、「望み」が事実と一致することはない。ただ、「望み」からできる限り「欲求を抜いて認識」したときに事実っぽいものがある。その事実っぽいものと「望み」を一致することで限りなく事実に近づける。事実に至るまでに足りないのは、「望み」から「欲求をすべて抜けない」、「『望み』の『中の欲求が無意識的な可能性がある』」からである。
また、これは存在としての存在の一種のため存在としての存在と兼ねることができる。

実在度数

あるものがあるものを「望む」ことで実在度数が発生する。実在度数はどれくらい認識と一致するか/どれくら欲求を満たすかで増減する。
実在度数は重複する。机は、机として使いたければ机としての実在度数を持ち、凶器として使いたければ凶器としての実在度数を持つ。
実在としての存在が100%、存在としての存在が1~99%(この1%は存在そのもの以外に実在と言えるものはないという一種の比喩、ハテナと言える)、限界としての実在も1~99%である(この1%はどれくらい望みを認識にできるか分からないという一種の比喩、ハテナとも言える)。
人間が0%ではない(人間の「望み」通りに実在するかは分からないが存在はする)のは、存在そのものが人間を「望む」からだと解釈できる。

望む/望み

認識と欲求をほぼ同時に行うということである。
我々には「認識したい」という欲があり、何かを認識すると「それが欲しい」となる。つまり、「認識→欲求→認識・・・」という流れがあるが、この間にあるラグが見えないので実質的に同時である。
望む/望みはもっとも純粋で原始的な認識方法であり、言語はその一種にすぎない。
望みには文化なども影響する。ヒンドゥー教徒は牛を聖なる動物として望む。文化は認識に張り付いているが、認識に張り付けたのは欲求である。その認識をした方がその文化の社会で生きやすいからそう認識するようにした、ということである。
補足すると、我々は魅力的なものを見たいと思うより先に、なんでもいいから見たいと思っている、ということである。

虚無、空虚、ただなにもないだけということはない。あらゆるものはなんらかの存在方法で存在するのである。

余地
空箱の中にはなにもない空間が存在する。なにもない空間すら存在しないのなら、その中に手を突っ込めないし、物を置けないし、壁と壁・天井と床の間に距離はない。
なにもないように見えるが、見えるということを根拠に存在する、なにかあることを想像できる、そのような非物質的なものを余地と呼ぶ。これは納得できるのであれば可能性と呼んでもいい(ただ、可能性は一般的には未来(時間)に対してのみ使われるので余地と呼ぶ)。


彼ピの話で分かったと思うが、嘘とは、あるものの存在方法が実在としての存在だと思っていたのが、存在としての存在方法の一種である嘘として存在かつ限界的な実在だったということである。

架空
ヌマンチョべベロンマンという漫画がある。いや、ない。いま適当に考えた。なぜこのように実在しなさそうなものを語れるのか。我々の頭の中には日本語、漫画、話せる確実な可能性、想像できる力などさまざまなものがあり、それらがヌマンチョべベロンマンという架空を成立させる。つまり、架空でないものたちの観念を組み合わせることで架空のものを作り出せるのである。また、実際のところ、それは想像した時点で架空ではない。

無感覚
何の感覚、何の経験もない者にも存在を感じられるか、という質問にはこう答える。「者ということはなんらかの意識はあるだろう。では、彼/彼女にとっては少なくとも意識とそれ以外がある。意識は志向性を伴うため、それ以外の存在を感じるだろう」

消滅
あらゆるものは存在方法を変えるだけで消滅しない。木は燃えると木という存在方法ではなく灰という存在方法に変わる。我々はそのことを感じているから、道路が消滅しても「地盤沈下が起きた(その空間の存在方法が物理的余地に変わった)」と思ったり、トランプが消えても「タネがある(我々に気づかせずに存在方法を変えるなにかがある)」と思うのである。

形而上
机を持ってこい、と言われたらなにも持っていけない。机を持ってこい、と言われてそこそこの大きさの固い箱を持って行っても許されるのはなぜか。それは、究極的には、彼/彼女はなにかを望んでいるだけで机を望んではいないのである。ただ、そのなにかを机と呼んだだけなのである。そしてそのなにかとは(彼/彼女に)望まれた、存在そのものである。そして我々は、名前のあるなにかを求めるのではなく、なにかを求める気持ちが先にあり、その気持ちを表すときにそのなにかに名前をつけ認識し、させたのである。机と呼びたい気持ちが机という名前/認識を成り立たせるのである。なので、「あれとって(ほしいという気持ち)」で伝わるなら、「醤油とって」と、「あれ」に「醤油」と名付ける必要がないし、「あれ」で伝わるなら「とって」もいらないし、「ん」とか唸り声で伝わるなら、言葉もいらない。

時間には1秒、2秒、もしくは1日、2日、もしくは1世紀、2世紀、などの全体があり、時間が一つのものとして成り立っているように見える。しかし、この瞬間にしか我々は生きられないし、証明できない。つまり、時間=この瞬間になり、存在構造が崩壊する。ところで、一瞬と言う言葉は「一」を入れているし、瞬間という言葉は「間(1と2,2と5,なんでもいい)」という端と端を前提にする言葉なので使えない。ので、一つしかない時間という矛盾した表現を「瞬」という言葉で纏める。

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