教育の再生産の問題

ブルデューはその著書、再生産の中で「よいものは、本質的にはよいものであるからよいものであり、よいものと教えられるからよいものになるわけではない」と述べたが(自己解釈)、それでいてよいものはよいものと教えられるからよいものになってしまうことも示した。

別の表し方をすれば

正しいことが存在する→それが正しいと教える

ということになるが、これには問題があって

正しいことが存在する→それが正しいと教える→新たな正しさが発生する→その正しさが以前の正しさと矛盾する場合、教えられない

ということである。

ある正しさを教育された人々(仮に、一次的被教育者)にとって、一時的教育(以前の正しさ)は自身の正統性に不可欠なのである。
たとえば、なにがあろうと国のために死ぬことが誉であると教育された人々にとって、なにがあろうと国のために死ぬことが愚かである、となってしまったら自分たちの正統性は失われてしまう。
これは文化や宗教、伝統的な技術についてもそうであって、教育的権威の肥大化(教育されたことが正しいことであるという認識)に達すれば避けられない。
しかし、もちろんこれも悪い面だけではなくて、被教育者がこれから学ぶ内容について正しいのか正しくないのか考えるのは事実上不可能だからその手間を省けるし、一次的教育を受けたものが多数派の集団で自身もそうなればそれだけで正統性を確保できるのである。

もっとも、すぐに一次的教育を捨てて二次的教育に移れる集団、正しさの更新をためらわず恐れない集団、教育的権威を肥大化させていない集団、効率を追い求める集団が強いということには変わりないが。

そしてそのような集団になるためには、敗戦や革命、無視できないほどの効率化や危機に直面すること、強力なリーダーの指導が助けになる。


教育的権威は、基本的に本当に正しいことを教え続けるだろうし、正統性のために正しいように見せかけるし、正統であれという期待に沿って正しくいようとするし、時間の経過と規模だけでもその権威を強化するため、肥大化する一方である。
これを打ち止めるための意図的な試み、つまり教育機関のミスなどではない努力とは、常にその正統性を疑うことで教育的権威を相殺しありのままの姿をさらけ出させることだ。これもまた一般人には難しい。
かといって学者だけが研究してしまうと、今度は学者自体に教育的権威が宿ってしまうため、また学者自身が自問自答して自身を間違っていると分析しても、その分析が正解だとすれば間違っていないという矛盾に直面してしまうため、問題があるとすればそれは社会制度の中にある。
そして社会制度もまた、教育的教育(学校や職場で教えられること)とその切り離せない裏面である家内的教育(家族から教わったことやプライベート空間で得た情報)を真っ当に受けた者が多数派なため、変わることがない。
その一方で、個人が自問自答して、自身の教育的権威(というより、過信や傲慢さ)を打ち消し、それを自分の中でだけで留めておくなら、それを持続できるのであれば、全面的ではないにしてもかなり純粋な教育者になれる。たとえば、ある理論を作ったとして、その理論を論破する理論を作って、その理論すらも論破する理論を作る、というのを繰り返すうちに、その理論に関してはそうなれるはずだ。

経験論は好まないが、私の人生はこの理論の逆説的証拠になる。
私は小学校3年生で不登校になり、母子家庭で育ったため、教育の両面で正しく再生産されることがなかった。
ゆえに、教育を疑えるのである。

もしかしたら、私のような哲学初心者でもわかるようなことはすでに述べられていたのかもしれないが、はっきり言って難解だった。また、忙しかったので興味のあった再生産にあまり関係なさそうなところは飛ばした。
彼自身も日本語訳の作者に対して「気張ってた若い頃に書いたやつだから読みにくいかも」と言っていたので、許してほしい。

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