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【エッセイ】泣きたい気持ち(1000)

先日、ラジオのリスナー投稿で切なく悲しく美しいエピソードを聴いた。

高校生の時に出会い、付き合い、卒業後に就職も決まり一緒になろうとした矢先に恋人が病に倒れ、彼女のちょうど二十歳の誕生日に亡くなった。実際には一緒になれなかったがせめてものとのことで、お互いの両親に許可をもらい、婚姻届を書いて棺に納めた。思い出の曲としてふたりで観に行ったSMAP主演映画「シュート」の主題歌「泣きたい気持ち」をリクエスト。その日はちょうどその初恋の相手の43回目の誕生日。命日の墓参りは欠かさないとのことだった。

亡くなった表現を「虹の橋を渡った」とされていた。なんとも美しい表現が悲しみをより強くしていた。

「大きくなっていくのかな?」パーソナリティの木村祐一が涙を堪えながら言っているのがわかった。

それを聴き、溢れる涙をおさえられなかった。歳をとり、前頭葉が弱り、情動のコントロール機能が低下しているだけさと誰も見ていないのに心の中で言い訳をした。

涙を堪えるとなぜだろう。耳がキリキリと鳴るのだ。

私の中にだって恋人ではないが心に生き続けている人がひとりやふたりはいる。否。4人いる。多分彼らが心の表層に浮上して来て私は泣いたのだ。無意識ではあるだろうが。

この記事を書きながら、中学のころに社会で人類の起源を学んだ時、ネアンデルタール人の化石から花粉が検出されたことから彼らが死者を弔い埋葬する習慣があると推測され、彼らは「人類」とみなされているとのことを思い出した。

人とはなんだろうか。そもそも歴史とはなんだろうか。

誰かを強く思い心の中で生かし続けることができるのが人間の定義のひとつではないだろうか。

私はクリスチャンなので毎週日曜日に礼拝をする。クリスチャンはなぜ週に一回必ず教会に通うのか。イエスの壮大な葬式を毎週行っているからである。心からイエスを慕っている人が何人いるかまではわからない。ひょっとすると世界中に数えるほどしかいないかもしれない。実は神の視点から捉えるならそんな人はひとりもいない。しかし、そんなことはイエスはどうでもいい。イエスに従おうという姿勢を示すだけで人は救われる。なぜか。それがキリストの教えとしか私は答えを知らない。もっと詳しい説明はできるが何万字を費やしても足りない。

いつかその辺をKindleでまとめたいと思っている。ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井に描いたように。

歳をとるとほんと、涙もろくなって困る。

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