科学的なものと科学的ではないものとを見分けること

コンピューターの中からこんなテキストが出てきた。何に書いたのだかもう忘れてしまっていたのだけど、検索してみると『「悪意の情報」を見破る方法―ニセ科学、デタラメな統計結果、間違った学説に振り回されないためのリテラシー講座』(シェリー・シーサラー著、今西康子訳、飛鳥新社、2012年)という本のために書いた解説だった。

本の解説なので、これだけで完全には独立した文章になっていないのだけど、これはこれでそこそこまとまった内容が書いてあるので、公開することにした。ウィリアム・ギブスンから始めるところなんて、結構いいんじゃん。この文章を読んで興味を持ってくれた方はぜひ元の書籍を読んでみてください。

=========

 僕が子どもの頃、もうほとんど半世紀近く前、21世紀は夢の時代で、科学の進歩が人々の生活を豊かにするのだと信じられていた。高度経済成長の時代、未来はぴかぴかに光っていた。サイバーパンクの創始者として知られるSF作家、ウィリアム・ギブスンはぴかぴかの未来を「ガーンズバック連続体」と呼んだ。初期の科学小説作家ヒューゴー・ガーンズバックが描いた夢の未来という意味だ。

 21世紀になった今、たしかに科学は進歩して生活は豊かになったけれども、ぴかぴかの未来とはいささか様子が違ったようだ。今の社会が科学と技術とに支えられているのは間違いないものの、世の中はそんなに単純ではなく、現実の社会と科学のかかわりはもっとずっと複雑で、科学やそれにもとづく技術には明るい面も暗い面もあることを僕たちはとっくに知ってしまった。ぴかぴかの未来社会では、科学や技術の進歩はそのまま当然のように受け入れられるはずだったのだろう。残念ながら、というよりも、当然、社会はそんなに単純ではなかった。

 そんなわけで、社会における科学や技術のありかたというのは、僕たちが常に考えていかなくてはならないだいじな問題だ。すでにここまでお読みのかたはおわかりのように、本書はそのための基礎知識として、科学とはどのようなものなのか、そしてまた逆に、科学の誤用や科学的におかしいのに科学であるかのようにみせかけているものをいかにして見分けるかのふたつに注目したもの。

 科学の誤用や科学的ではないのに科学のように見せかけるものは、世の中にあふれている。大きなところでは行政の政策にとりこまれているものもあるし、小さなものでは店に並ぶちょっとした電化製品だったりもする。気にするほどの害もない他愛ないものから、国レベルで大問題を引き起こしかねないものまで、いろいろあるだろう。

 あるいは、小学校や中学校の先生が明らかに科学的におかしいことを信じておかしな教育をしている例もみかける。これはかなり問題だと思う。また、普通の医療でなおらない病気がなおると称する代替医療では、さらに悲惨な事例も耳にする。代替医療に頼って普通の医療を拒否したために、普通に治療していればなおったはずの病気で命を落としてしまうというような事例だ。これらの中には、ほんのちょっとした科学的な考え方を身につけていたり、おかしなものを疑う姿勢がちょっとありさえすれば、防げたはずのものも少なくない。

 個人の生活の場でも、会社などでの意思決定の場でも、あるいは国全体の意思決定や国際的な取り決めなどでも、科学的な考え方はできれば身につけておきたいし、また科学的なのかどうかもできれば見分けられたほうがいい。

 本書の著者が提案する「見分けるための心得」は最後に20箇条にまとめられている。これは普通に見かける「科学と非科学の見分け方」とは内容がずいぶんと違っていると思ったかたもおられるかもしれない。たとえば、科学と非科学を見わける判定基準として、多くの人たちがまっさきに「反証可能性」を挙げる。これは有名な科学哲学者カール・ポパーによる判定基準で、反証可能性とはつまり、もしもそれが誤っていた場合にはなんらかの反証ができるような論理構造になっていることだ。本当に反証するかどうかは脇において、反証する気になればできるものなのか、それとも反証したくてもできないものなのかを問題になる。そして、どうやっても反証できないようなものは科学ではないとされる。たとえば宝くじが当たったのは神様の意志だと言われたって、そんなことにはどうやっても反証のしようがないので、これは科学ではなくて信念の問題だ。

 ところが、本書の20箇条の中にはそもそもこの反証可能性が含まれていない。科学と非科学とを見分けたいのではなく、科学のように見せかけたさまざまなごまかしを見つけるための心得なのだ。僕たちが日常的に出会う問題に立ち向かうなら、このくらい割り切ってしまっていいのだろう。要するに、この心得は日常の役に立つ。

 たとえば、冒頭にいきなり、科学は仮説と検証の繰り返しで進歩するわけではない、と書かれていて、面食らった人も少なくないかもしれない。「科学とはどういうものか」について書かれた本にちょっと目を通してみれば、科学とは仮説と検証の繰り返しで進歩するものだと書いてあるからだ。しかし、本書の心得にもあるとおり、科学はそうそう理想的には進まない。

 科学の世界では、新説は論文として発表されてはじめて学説と認められる。論文になっていないものは、まだ学説にもなっていないのだ。その際、ピアレビュー(相互評価という程度の意味かな)といって、同じ分野の研究者による審査を経た論文だけが専門雑誌に掲載される。では、審査を通った論文の内容は正しいのだろうか。実は、審査を通って論文が掲載されたからといってその研究結果が正しいとは限らない。論文が発表されたというのは、審査した研究者がその研究にはあからさまにおかしいところはないと認めたことを意味するだけだからだ。本書でも強調されているように、その学説が正しいか正しくないかについて他の研究者との議論は論文が発表されてから始まる。建前としては、新たな考えが論文として公表されると、他の科学者たちによって追試されたり再検討されたりして、その結果しだいでその新たな考えは正しいものとして受け入れられたり間違ったものとして捨てられたりするはずだ。ところが、現実は必ずしもそう単純な話にはなっていない。

 ここで、本書では強調されていないことをひとつ指摘しておこう。科学研究の論文は世界中で毎日膨大に発表されている。そういった研究論文のなかには、実は誰にも顧みられることなく、したがって真偽の決着もつけられないままただ単に忘れ去られていくものも少なくない。もしかすると、そういう論文が大多数かもしれない。いや、それどころか、中にはばかばかしすぎて科学者がまじめに反論したり検証したりする気にもならない論文もあったりする。どうしてそんなものが論文の審査を通ってしまうのかというと、まあ論文雑誌にもピンからキリまであるということだ。そういう無意味な論文は質の悪い論文雑誌にひっそりと公表されて学問的にはおしまいになるのが普通なのだが、たまにはそういった肯定も否定もされていない研究成果をどこからか見つけてきて、怪しい商品の宣伝に使う悪賢い人たちもいる。根拠となる論文がちゃんとありますよ、というわけだ。実はそれは単に論文があるだけで、真偽の決着がついていないか、さもなければそもそも議論にも値しない程度のものなのだが。

 コンピューター・シミュレーションについての注意も多くの人にとって目新しいかもしれない。物質科学や細胞の中の様子からブラックホールの衝突まで、さまざまな現象の研究にコンピュータ・シミュレーションが使われ、テレビではそうして作られた綺麗なアニメーションが紹介される。ともすれば、コンピュータ・シミュレーションが現実を忠実に再現していて、コンピュータ・シミュレーションさえすれば本当のことがわかるかのような錯覚に陥ってしまいそうだが、決してそうではない。どれほど「本物っぽい」コンピュータ・グラフィックスだからといって、本物を忠実に再現している保証はどこにもないからだ。「コンピュータ・シミュレーションだから正しい」と思い込んでしまうのはとても危険だ。コンピュータ・シミュレーションの意味と限界を知っておくことは、今の時代にこそ重要だろう。

 では、「科学ではないほう」はどうか。本書にはいくつかの具体例が挙げられているが、怪しい科学にはお国柄があって、日本独自のものも少なくない。僕や僕の仲間たちはこれまでに「科学のように見えて、実は科学とはいえない」さまざまなものを「ニセ科学」と呼んで、それについていろいろ考えてきた。そこで、以下では本書の補足として、日本での例をいくつか見てみよう。

 たとえば、血液型で人の性格が予想できたり、性格を見て血液型が言い当てられたりするという「血液型性格判断」は、日本独自のニセ科学の代表と言っていいだろう。1970年代に大ブームをまきおこして、今では日本人の常識のようになっているこの「血液型性格判断」も、科学的には根拠がないことがはっきりしている。だから、もし仮に本当に血液型と性格にまだ発見されていないなんらかの関係があるのだとしても、それが「性格判断」に使えるほどのものではないことは既にはっきりしている。それなのに、時として「統計的に研究した結果、血液型と性格のあいだに関係があった」と言われることがあるのは、統計数字の扱いが不適切なことが理由で、きちんとした統計を取るとそのような関係は見出されない。たとえば、血液型性格判断の本の読者にアンケートを取れば、それはたしかに血液型と性格の関係が統計的に見出されるだろう。というのは、そういう本の読者の多くは、自分の性格が血液型から予想されるとおりだと感じているからだ。実際、「血液型性格判断」の本には膨大な数の読者アンケートに基づく統計データが使われたりもするが、これはまさに本書で紹介されている「選択バイアス」の問題で、どれほどたくさんのデータを集めても正しい結果は出てこない。

 あるいは、一時大ブームにもなったマイナスイオン商品などはどうだろうか。マイナスイオンという名前は適切とはいえないが、コロナ放電という方法を使えばたしかに空気中に「空気イオン」というものが放出される。この空気イオンのうちでマイナスの電気を帯びたものが体にいいのじゃないかとか、作業効率が上がるのじゃないかというような話は第二次世界大戦前からあって、それこそ人工雪の研究で知られる北海道大学の故中谷宇吉郎博士もそれについてのエッセイを書いているくらい古くから研究されている。だから、肯定的な研究結果もあるにはあって、そういう研究結果だけを集めてくれば、マイナスの空気イオンは体にいいと言ってもよさそうに思えてくる。実際、ブームの当時にはマイナスイオンが体にいいというのは確定した科学的事実であるかのように言われたものだ。しかし、実際にはこれは科学的に検証されたものではなかった。

 もしかしたら微妙な効果くらいはあるのかもしれないし、そんなものはやはりないのかもしれないが、いずれにしても「科学的に効果が実証されている」かのようにテレビや雑誌などで言われたのとは、現実はまったく違っていた。これは学説として確立していないものを確立しているかのように宣伝したものなので、本書の20箇条のどれかに直接当てはまるというよりは、広い意味で「学説とはなにか」の問題かもしれない。もっとも、マイナスイオン商品の中には、そもそもイオンを発生しないものもあったりしたのだが。ちなみに、このような「空気イオンが体によい」という説はアメリカなどにも昔からあって、アメリカの政府機関が「効果は期待できない」と発表した歴史もある。日本でのマイナスイオンブームは実は「遅れてきたブーム」だったというのも、知っておくといいだろう。

 もうひとつ、日本独自の奇妙なものとして、EM菌をとりあげておこう。これは元琉球大学教授の比嘉照夫氏が提唱したもので、「役に立つ微生物の集まり」である。もちろん、役に立つ微生物なら世の中にいろいろあるのだが、EM菌の特殊な点は、あまりにもいろいろなことに役立つとされるところにある。もともとが農業用に考えられたものだけに、土壌改良や水処理、肥料などの農業応用が提案されているは当然として、その後には、河川や湖に投入すれば水質がよくなり、EM菌が作り出す液を飲めば健康になるなど、科学的に見れば不思議な効果がいくつも提唱されるようになった。いわば、万能の微生物とでも呼ぶべきものだ。もちろん、世の中に万能のものなどないので、こういう話は疑ってかからなくてはならない。実際には、このEM菌の効果がまともな学説として世に出たことはないといっていいし、その効果もとてもきちんと検証されたといえるものではない。ただ単に「こうやったらこうなりました」という逸話のようなものが報告されているだけだ。

 そのようなものなのに、EM菌を投げ込めば河川がきれいになるという主張を信じて、たとえば市民の環境運動に使われたり、学校の環境教育に使われたりという例にしばしばお目にかかるし、河川浄化の目的で自治体がとりいれたりした例まである。しかし、EM菌を使った場合と使わなかった場合の対照実験などもろくに行われていないし、常識で考えても、ただ河川に投入しただけで環境が変わるなどとは期待できそうにない。それでも、時として、効果が見られたという報告がある。それにはいろいろな可能性があるだろう。年毎のちょっとした変動にすぎないようなわずかな変化に注目してしまったのかもしれない。さらに、環境改善を必要とするような河川では他の対策も取られているはずで、それらの対策が効果を顕した可能性もある。こういったことを検討してはじめて効果があるかどうかがいえるのだが、どういうわけか効果の検証もされないまま全国で使われているのは、不思議としか言いようがない。

 ところで、今、科学の話をする以上、触れないわけにはいかない話題がある。もしかすると、この問題のヒントを考えたくて、本書を手にしたかたもおられるかもしれない。

 2011年の3月11日に東北地方を巨大な地震と津波が襲い、多くの犠牲者が出た。その影響で東京電力福島第一原子力発電所の原子炉が破損する事故が起きた。被害そのものでいえば、発電所の事故よりも地震と津波によるもののほうが圧倒的に大きかったのだが、放射性物質による広範囲な汚染が起きて地震の被災地以外にも影響を与えたことと、日本が全国に多くの原子力発電所を抱えていることから、不安が全国に及んだ。

 この事故をきっかけとして、原子力発電の是非や放射能汚染による人体への影響について、さまざまな議論がまきおこっている。原子力発電の是非は、科学だけでは決めることができない問題の典型と言っていいだろう。もちろん、原子力発電の原理は科学的に明らかなので、原子力発電そのものに科学的におかしなところはない。ところが、それを安全に維持するという問題はそれほど簡単ではない。実際、今回の事故も予備電源などいくつかの備えさえあれば小さな事故で収まったのかもしれないが、残念ながらそうはならなかった。このような原子力発電のリスクに対してどのように意思決定するかは、科学だけでは決められないし、さりとて科学なしに決めることもできない。現実の社会はガーンズバック連続体ではないからだ。さまざまな事情を勘案して、最後は社会が決めることになる。

 一方、放射能汚染への対策はどうだろうか。もちろん、対策も科学的な知見にもとづいて行われるべきなのだが、日本では今回のような原発事故による広範囲な汚染の経験がなかったためか、現実にはかなり怪しい対策もまかりとおっている。たとえば、前述のEM菌が「放射能汚染された土壌から放射能を消す効果がある」などとされ、一部で実際に試みられているから驚かされる。放射能とはどういうものかがわかってさえいれば、生物の体の中で放射性物質の放射能が消えるなどという主張を見たら、即座に「ありえない」と断言できる話とわかるはずだ。ありえないはずの事故が起きたという現実を前にして、科学に対する不信感が募ることは理解できるが、それでも科学的にありえないことはやはりありえない。このようにあまりにも無意味な対策は単に役に立たないだけではなく、きちんとした対策を妨げるという意味でむしろ害がある。そのような問題を考えていく上でも、科学的ではないものを見分ける心得は重要だ。

















 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?