統計力学のアンサンブルとはなんで、どうして必要なのだろう

この文章は初学者向けの統計力学の講義ノートにつけるために書いた。伝統的な統計力学の説明と違うけれども、たぶん今ならこんな感じに考えるのが筋だと思う。統計力学に興味があるかたのために、この部分だけ抜き出した。

なお、この文章では全く歴史を踏まえていない。アンサンブル概念成立の歴史については、最近出版された稲葉肇「統計力学の形成」がいいと思う。以下の話はそのような歴史もほぼ覆してしまう「ちゃぶ台返し」的な説明。

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僕たちはあるエネルギー範囲にあるすべての微視的状態の集合をミクロカノニカルアンサンブルと定義した。この定義が標準的かどうかには微妙なところがあるかもしれないけれども、とにかくこの定義で計算された物理量の平均値は殆ど孤立した系の熱平衡状態を正しく与える。だから、統計力学の処方箋は簡単で、条件に合う微視的状態を全部集めてきなさいというだけだ。

アンサンブル概念の歴史にはいろいろ紆余曲折がある。ここでは歴史に踏み込まずになぜアンサンブルを使うのかを考えよう。鍵になるのは微視的状態の典型性だ。前に議論した通り、熱平衡状態で実現する微視的状態はどれも似たり寄ったりで区別がつかないと考えられる。たとえば、気体を古典力学で記述される粒子の集まりだとしよう。エネルギーを決めてしまえば、実現する微視的状態の範囲は決まってしまう。その中には粒子が箱の半分に集まっているような奇妙な状態も含まれるけれども、殆ど全ての微視的状態は区別がつかないだろう。

だから、決められた条件のもとで典型的な微視的状態をひとつ持ってきさえすれば、熱平衡状態の性質は殆ど完全に分かる。微視的状態ひとつからエントロピーを求められるかは問題として残るにせよ、殆どの物理量は微視的状態ひとつでわかるはずだ。つまり、たったひとつの典型的な微視的状態で熱平衡状態は充分に表現できると考えていいのではないか。その際に必要な条件は系が充分に大きいことだ。小さな系の微視的状態なら、いろいろ変なものもあるだろうけれども、巨視的な系の熱平衡状態から抜き出してきたたったひとつの微視的状態は殆ど間違いなく熱平衡状態を表現できると考えられる。

この話は古典力学で記述される系なら直感的に理解できそうだ。それに対して、量子力学で記述される系では直感が働かない。実は、系が充分に大きくて複雑なら、完全に孤立した量子系のひとつの量子状態はミクロカノニカルアンサンブルで記述される熱平衡状態と区別がつかないという仮説があり、固有状態熱化仮説と呼ばれる。まだ完全に確立した話とは言えないけれども、数値実験の結果などを見るともっともらしいように思える。これが正しければ、量子系でもやはりたったひとつの微視的状態で熱平衡を表現できるわけだ。おそらくもっと強いことが言えて、殆ど全ての量子状態は熱平衡状態に達して、その後はどの瞬間に物理量を測定しても熱平衡での値になるのだと思う。

実際には観測時間中にある程度の微視的状態を移り変わるのだけれども、どの状態も似たり寄ったりだとすれば、どの範囲の微視的状態を移り変わるかはどうでもいい。とすると、次は熱平衡状態に典型的な微視的状態をどのように作るかが問題になる。ところが実はこれは難しい。人間が考えて作れる状態はどうしたって典型的とは言えないものになってしまうだろう。つまり、熱平衡状態からランダムに取り出した微視的状態は典型的なものばかりなのに、熱平衡状態で典型的な微視的状態を人間が作り出すことはできない。

そこでミクロカノニカルアンサンブルの出番だ。典型的な状態を作れないのなら、エネルギーが狭い範囲にある微視的状態を全部集めてしまおう。集めた微視的状態の殆ど全ては典型的なのだから、物理量をその微視的状態について平均したものは典型的な状態での値に一致する。もちろん、アンサンブルにはすごく妙な微視的状態も含まれているけれども、殆ど全てが典型的な状態なのだから、妙な状態は平均値に影響しない。妙な状態を排除しようと頑張るより、ごく稀で妙な状態も含めて全状態の平均を計算するほうがはるかに易しい。

ところで、この説明で等重率の原理はどうなったのだろう。状態の典型性を仮定してしまえば、等重率を仮定しなくても結果は変わらない。どの微視的状態に重みがついていても平均値には影響しないからだ。ただ、エントロピーを微視的状態の総数から求めるのは、やはり等重率を前提としている。エントロピーまで考えると、等重率の原理は必要だろう。

この説明は伝統的な統計力学の教科書に書かれているものとはだいぶ違う。それでも、たぶん今なら、状態の典型性による説明には多くの研究者が同意するに違いない。ひとつの微視的状態で充分という話はまだそこまでのコンセンサスではないかもしれない。逆に、熱平衡状態と同じ結果を与えるひとつの量子状態を作れることは示されていて、熱的純粋状態と言われる。熱的純粋状態と固有状態熱化仮説は全く別のものだけれども、似た方向性とは言えそうだ。

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