ニセ科学問題から見た科学リテラシー

この原稿は「日本の科学者」 の2011年2号「特集 21世紀の科学リテラシー」に掲載されたものです。東日本大震災の直前ですね。

「日本の科学者」は日本科学者会議という左派系学術団体(よく日本学術会議と間違える人がいますが、全く関係ありません。こちらはまあ共産党系というべきですかね)の機関誌で、長い歴史があります。科学リテラシー特集ということで僕にニセ科学問題を書けという依頼がありました。左派系であることを考慮して、ルィセンコ問題や9.11陰謀論など左派が弱そうな話題を意図的に取り上げました。

案の定、編集委員会から「9.11陰謀論はまだ賛否両論あるのではないかという意見があった」との意見がついてきたのですが、そんな馬鹿なことを言っているようではだめなので一蹴しました。9.11陰謀論なんて戯言以外の何ものでもありません。それを賛否両論だの決着してないだのと言い出す編集委員がいるようでは全く科学リテラシーもへったくれもありません。いや、日本科学者会議はイデオロギー優先で科学リテラシーのない人たちの集まりなんですよ。それは東日本大震災(というより、東電原発事故)後にあからさまになりますが、この原稿はそれ以前のものです。

面白い内容だと思うので、ここに再録します。もしかすると、ゲラ段階で手を入れたかもしれませんが、これは最初に投稿したままです。お楽しみください。

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はじめに

 科学リテラシーという言葉をここでは,科学的知識とそれを使うための考え方とを合わせたものという程度の意味に解釈しておこう.むろん、万人があらゆる科学分野について専門家並の知識を持つのは無理な相談だが,通り一遍の基本的な科学知識は,現代人の常識として,誰もが身につけるべきである.どのような科学知識が必要かについては多くの議論があるのでそちらに譲り,本稿では,考え方やものの見方を中心に議論する.
 新聞やテレビのニュース,あるいは雑誌記事や広告を見て,本当にそうなのだろうかと考えてみるだけなら,難しい話ではない.たとえば,「燃料電池は夢のエネルギー源.これさえあればエネルギー問題は解決」といった主張を見かけた際に,エネルギーを生み出すかのような話はおかしいのではないか,と疑問を持てるようになるくらいなら,それほど大変ではあるまい.燃料電池はすぐれた技術だが,いうまでもなく,エネルギーを生み出しはしない.エネルギー源とは別の話である.
 あるいは,「コラーゲンを含んだ食品は肌にいい」と言われたら,食べたコラーゲンがそのまま自分の皮膚になるのだろうか,という程度の疑問を持つのはたやすいはずだ.
「EM菌なるものを川に撒くだけで,川がきれいになるので,みんなでその活動に取り組みましょう」という提案があったら,流れのある川の生態系を変えるほどの菌とはいったいどういうものなのだろうと考えて,疑問を口にしてみるべきだし,「オール電化はエコ」という広告を見たら,「いったいどういう意味なのだろう?」と頭にクエスチョンマークの一つも浮かべるのが,科学的な態度というものに違いない.「現代は○○が増えているから,がんによる死亡者が増えている」的な表現に対して,「高齢化の効果じゃないの?」と突っ込みを入れられるようになるのも重要だ.
 たとえば、「どんなものにもいい面と悪い面がある」ことを忘れないようにして,あまりにも単純でわかりやすすぎる二分法的議論は鵜呑みにせずに疑ってかかる習慣をつけるだけでも,怪しい話の多くを却下できるだろう.こういう考え方,ものの見方が,ニセ科学にまどわされないための科学リテラシーなのだと思う.

1 創造論科学とルイセンコ論争

 さて,ニセ科学という言葉だけではぴんとこないかもしれないので,具体例を挙げよう.世界的に見ると,たとえば「創造論科学」が代表的なニセ科学として真っ先に挙げられる(1) .
 宗教の教義である「神による創造」を科学的事実と言い張るのが「創造論科学」である.アメリカでは,一部の州に,「学校の理科の時間に,創造論科学を進化論と同じ時間をかけて教えよ」という法律があった.この法律は,1980年代後半に最高裁で違憲とされ,いったんは下火になったが,現在は,より科学的な体裁を整えた「インテリジェント・デザイン説」というものに衣替えして,再び勢力を盛り返しつつある.
 インテリジェント・デザイン説では,神という存在に直接言及するのをやめ,その代わり,生命や人間は,「高度な知性体」によって設計されたものであるとする.これだけなら,風変わりであるにしても,それなりの根拠さえ提示されれば,学説としてありえないわけではない.しかし,これはあくまでも「創造論科学」の衣替えなのである.意図的に科学を装っているという意味で,まさにニセ科学以外のなにものでもない.
 ちなみに,創造論科学は日本ではあまり目立たなかったと思うが,このインテリジェント・デザイン説には専門の学会組織「創造デザイン学会」があり,積極的な展開を目指しているようである.
 もう一つ,歴史的に重要な事件として,ルイセンコ事件をとりあげよう.スターリン時代のソ連で,獲得形質の遺伝を主張したルイセンコという農学者の説が国家の正統学説と認定され,反対者を学会から追放した事件である.筆者の父の書棚にルイセンコ事件に関する本があったので,ルイセンコの名は小学生の頃から知っていたが,比較的最近になって,改めてその経緯を調べてみた.過去に書かれた文献を読んでみると,本家ソ連でのルイセンコ事件もさることながら,日本でのルイセンコ論争はそれ以上に興味深かった(2).
 ルイセンコ説自体は,分子生物学以前の時代であっても,実験で確認できたはずのものだ.ソ連では反ルイセンコ説が事実上禁じられていたので無理としても,日本では禁止されてはいないのだから.それにもかかわらず,文献を読んでみると,実証研究はあまり重視されず,「民衆のための科学かどうか」という机上の議論と農地での実践とに過剰に重点が置かれていたように思える.空回りする理念と,実証なき実践というのが正直な印象である.
 この事件をニセ科学問題として振り返ると,ルイセンコ学説そのものがニセ科学なり疑似科学なりと呼ばれるべきものかどうかは微妙である.少なくとも最初は単なる「間違った学説」にすぎなかったのだと思う.では,なぜ筆者がこれを歴史的に重要なニセ科学問題として取り上げるのか.それは,ルイセンコ説が,科学的正否の観点ではなく,スターリンによって政治イデオロギーの観点から選ばれ,「正しい科学」とされたからである.そして,日本でも,科学的事実としての正否とはほとんど無関係なイデオロギー論争で科学的正否を決めようとしていたようだ.
 ルイセンコ事件は,「創造論科学」におけるキリスト教の役割を政治イデオロギーが果たしたものと言ってよいだろう.創造論科学であれ,ルイセンコ事件であれ,結局は科学的事実とは無関係な別の価値観からの正しさを「科学」に持ち込んだことが誤りだった.それを希望や願望に基づく価値観と呼んでもいいだろう.
 希望や願望を科学的事実と混同しないことは,基本的な科学リテラシーの一つと筆者は考えている.そういう目で,もう一つの比較的つまらないが、しかし大きな問題となった例を見てみたい

2『水からの伝言』と希望

 科学者による疑似科学・ニセ科学批判は,細ぼそとはいえ,昔から行われてきた.たとえば,決して強い口調ではないが,千里眼事件(明治末に,透視や念写能力を自称する人々を帝国大学教官らが調査した一連のできごと)をもとに科学的なものの見方を説いた中谷宇吉郎のエッセイ(3)などは,今でも通用する優れた論考である.
 そんな中で,筆者を含む何人かの科学者がニセ科学問題に本格的に言及し始めたきっかけは,『水からの伝言』(4) だった. これは,水に「ありがとう」という言葉を見せてから凍らせると樹枝状に成長したきれいな結晶ができ,「ばかやろう」という言葉を見せたのではそのような結晶にはならないという説である.それを実証したという写真集は大きな評判となった.樹枝状結晶自体は気相成長でできたもので,おかしな点はなにもない.一方,氷の形が言葉に影響されるという主張は,科学的には単なるナンセンスにすぎない.
 ところが,これが実験事実として世に出たために,広い読者に科学的事実として受け入れられた.とりわけ,筆者らが衝撃を受けたのは,これを小学校の道徳教材に使ったという先生方が全国に少なからずおられたことである.水が言葉の影響を受けるという「科学的事実」と、人間の体は大部分が水でできているという(こちらは正しい)科学的事実とにもとづいて,「悪い言葉を使うと,相手の体の中の水が悪い反応をするので,いい言葉を使いましょう」という言葉遣いの指導教材に使ったのである.
 これはさまざまな問題をはらんでいるが,ここでは,この授業が道徳の根拠を物質科学に求めたものであることを強調しておきたい.この考え方は,道徳が歴史や文化を背負ったものであることを完全に無視したもので,科学の誤用,あるいは科学的事実に対する誤解といっていい.身も蓋もない表現になるが,科学は善悪についても人生についても教えてくれないことを理解しておくのは重要である.
 この『水からの伝言』が受け入れられた理由も,やはり希望や願望なのだと思う.言葉の善し悪しによって水の振る舞いが変わるという説は科学的にはどうなのか,と疑問を持つ前に,「いい話」として受け入れられてしまった.いい話かどうかが科学的正否に優先したわけである.ここでも,希望と科学的な正否は別問題という基本的なリテラシーが問われている.
 同じことが,いわゆる「ゲーム脳」問題にもあてはまる.テレビゲームをしすぎると脳の前頭前野が機能的に壊れると主張する「ゲーム脳」説(5)は,科学的根拠も薄弱で学説として認められているとはとてもいえないにもかかわらず,学校教育関係者を中心に,広く受け入れられた.子どもたちがゲームにばかり夢中で困ると悩む多くの親や教師にとっては,ゲームが脳に悪いことが科学的に証明されるのは,まさに願いをかなえてくれるものだったのだろう.

3 科学的事実の整合性

『水からの伝言』問題については,「反証もせずに否定するのはおかしい」という反論が頻繁にあり,時には科学に携わる人からさえそのような反論を受けることがある.しかし,これを反証なしに否定できるとするのもまた,一つの科学リテラシーであることは強調しておきたい.
 個々の科学的事実は,決してそれぞれが孤立してあるのではない.水についてのさまざまな科学的事実は互いに関係し,つじつまが合っている.さらに,水以外の物質についての事実とも整合していなくてはならない.
 現代科学で未解明なことは膨大にあるが,それでも「物質の性質は言葉の意味や内容に影響を受けない」と断言できる程度には,われわれは物質を理解している.物質としての水が言葉の影響を受けることを認めるには,物質科学の非常に深いところ(端的には物質にはたらく力)を変更しなくてはならないだろう.たかだか数冊の写真集が,それをさせるだけの強力な実験結果だと考えるのはナンセンスである.
 最近,テレビのクイズ番組では,さまざまな知を問うものが流行っている.知識の背景をきちんと説明してくれる番組もある一方,単に答が合っているかどうかだけのクイズも多い.もちろん,知識を問うこと自体は悪くないが,単に,個々の事実を知識として知っているだけでは,科学とニセ科学の違いはわからない.『水からの伝言』を反証なしに否定できるのは,個々の科学的事実は互いに整合的でなくてはならないからである.

4 疫学対メカニズム論

 もう一つ重要なリテラシーとして,確率・統計と疫学を挙げておきたい.筆者は,日本の科学リテラシーで大きく欠けているのが,この確率・統計の考え方,とりわけ疫学的な考え方であると考えている.
 疫学は,狭い意味では病気,とりわけ,伝染病や食中毒などの原因をつきとめるためのものだが,その考えかたは医学の問題に限らず,さまざまな場面に応用できる.多くの不確定要素が絡み合う問題で,なにかの原因を探るための考え方が疫学だと考えればよいだろう.病気の原因とほとんどパラレルな問題としては,たとえば,機械の故障原因が挙げられる.
 筆者は,精緻な現代疫学の詳細を理解しているわけでもないし,語る立場にもない.しかし,通り一遍ではあっても,基本的な疫学の考えかたを身につけておくことの重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはない.
 ここで,疫学をめぐる重要な問題として,水俣病を挙げておこう.ご承知のとおり,水俣病問題は,発生初期の対策遅れに始まり,患者認定基準をめぐる問題がいつまでも後を引いて,いまだに解決していない.
 疫学者である津田敏秀は,著書『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(6) の中で,この水俣病に焦点を当て,水俣病問題発生当時に,「水銀が水俣病の原因とは言い切れない」といったたぐいの主張をした医学者たちがいかに問題をこじれさせたかを論じている.疫学の常識にしたがえば,水銀云々の議論以前に,まずは「魚を原因食品とする食中毒事件」として対策をとるべきだったというのである.
 水俣病問題の混乱は,行政にとってなんらかの意味で「都合のよい主張」をする医学者を,科学的主張の是非とは関係なく専門家扱いして,その主張を「科学のお墨付き」として使ったことに起因すると考えられる.
 そして,それが成り立った背景の一つとして,「メカニズム偏重」の風潮があると筆者は考える.発症メカニズムがわからないことがいたずらに重視されたのである.しかし,メカニズム不明の科学的事実などいくらでもある.メカニズムがわかっているかどうかではなく,どのような現象が起きているかが確認できていればよいのである.
水俣病の例では,メカニズムはさておいて,魚が病気の原因食品であることさえ確認できれば,当面の対策のための事実としては十分だったということである.
 このようなメカニズムに固執する態度は,他のさまざまの場面に見られる.はなはだしい場合には,「メカニズムがわからないものは科学ではない」などという主張を見かけることもあるが,それはむろん正しくない.メカニズムが未知であっても,再現性のある客観的事実であれば,それは科学的事実である.メカニズムがわかるに越したことはないが,必ずしもメカニズムが明らかではなくても,原因を推測するために疫学の考えかたが使えるし,メカニズムの解明に拘泥すると,かえって本質を見失いかねないことを水俣病の例は示している.

5 民間療法ホメオパシーと臨床以前の問題

 ところで,これはさきほど,反証なしに『水からの伝言』を否定してよいと書いたことと矛盾しないのだろうか.反証なしでよいとした理由は,まさにメカニズム論であった.しかし,この場合のメカニズムは,たとえば水俣病などとはまったくレベルの違うものであることに注意したい.
 それを端的に示す例として,ホメオパシーという民間療法をとりあげよう.民間療法あるいは代替医療には,さまざまな種類がある.それらが本当に効果を持つのかどうか,きちんと調べたければ,臨床試験が必要となる.たとえば,「鍼など効くはずがない」とか「漢方薬は妙な理屈に基づいているから効くはずがない」というのは明らかに早計であって,効果は,臨床試験によってのみ確認できる.まずはそれが一般論である.
 ホメオパシーは,200年ほど前にドイツで始まった民間療法で,病気の症状を治すために,薬効成分(病気の症状とよく似た症状を引き起こす物質が使われる)を,水で十分に希釈して砂糖粒に染み込ませたものが使われる.この際の希釈度が尋常ではなく,現代的な分子論の観点からすると,各砂糖粒には薬効成分は1分子も含まれない.したがって,これがプラセボ(偽薬)以上の効果を持たないことは自明である.
 それにもかかわらず,このホメオパシーが最近は,日本でも広まりつつあり,被害者も出ている.過激なホメオパシー推進者は現代医療を否定するので,それを信じてしまった人が,必要な医療を受けずに死亡するといった事件が起きるのである.ただの砂糖粒ですら,死亡事件が起きる.そして,それを防ぐために必要な科学知識は「1分子も含まれないものには,その分子の効果はない」という,物質科学の基礎とすら言えないものだった.
 実際にはホメオパシーについてかなりの数の臨床試験が行われているが,(7)ここまで自明なものなら,臨床試験をせずとも否定してかまわないはずだ.つまり,われわれは「どの程度ありうるか」について,ある程度の見通しを持って,それを判断基準とするべきなのである.

6 個人的体験と客観的事実と9.11陰謀論

 もちろん,ホメオパシーのおかげで病気の症状が改善したという体験を持つ人は多いのだろう.そうでなければ,この療法がヨーロッパで200年も続くとは思えない.一方,ホメオパシーがプラセボと区別がつかないことは自明なので,症状が改善したという体験は,たとえば自然治癒などであろう.それでも,ホメオパシーを使ったら改善したという体験は,忘れがたいものとなるに違いない.これが,個人的体験と客観的事実との悩ましい関係である.
 個人的な体験や経験の積み重ねは否定するべきではない.しかし,それが客観的にも意味を持つものなのかどうかは,いったん自分の体験や経験を棚上げにして考えてみる必要がある.このように,個人的な体験は客観的事実ではないのだという認識を持っておくこともまた,重要な科学リテラシーといっていい(8).
 そこで,この「個人的な体験」にかかわるものとして,9.11同時多発テロの問題をとりあげたい.このテロ事件を米政府による自作自演の陰謀であったと疑う方々は本誌読者にもおられるようで,実際,誌上に賛否双方の論文が掲載された.筆者は,アメリカがイラク侵攻の口実として9.11を利用したと考える一方,テロそのものの自作自演説はナンセンスのひと言で切り捨ててかまわないものと主張している.ここでは科学リテラシーの観点からこの問題について,一つだけ述べておこう.
 自作自演説が出始めた当時,多くの自作自演論者が,根拠の一つとして,世界貿易センタービルの崩壊の仕方がおかしいという点を挙げた.中には,物理的にありえないと主張する論者もいた.実際,菅原進一(当時,東大)のように,崩壊直後の取材に対していったんは「地下で爆発があったのではないか」と述べた建築専門家もいる.むろん,これはあくまでも第一印象での話に過ぎないのだが,とにかく,建築の専門家ですら当初は地下での爆発かもしれないと思ったくらいなのだから,まして建築の素人がまっさきに「爆破かもしれない」と考えること自体は,なんらおかしいことではない.大事なのは,第一印象を棚上げにしてよく考えてみることである.
 そもそも「おかしい」と主張するためには,普通の状態を知らなくてはならない.しかし,あのクラスの巨大ビルが普通に崩壊する現場など,これまで誰が目撃しただろうか.あれは人類が初めて目撃した巨大ビル崩壊であり,そして,ビル崩壊とは極めて複雑な現象である.ビデオを見ただけで「おかしい」と言ってしまえるような簡単な話ではない.だからこそ,この崩壊については,大規模な計算機シミュレーションが行われたのである.崩壊の詳細は議論の余地があるが,飛行機が衝突したツインタワーだけではなく,第7ビルまでが崩壊したメカニズムについても研究が進んだ.情報が少ないうちは不自然に思えるものも,研究が進むにつれ,意外ではあっても不自然ではないことが明らかになってきている.
 われわれは誰しも,身の回りの狭い範囲の経験をもとにものごとを見る.それが必ずしも悪いとは限らないが,必要とあれば自分の経験やそれにもとづく直感を棚上げにできること,それは一つの重要なリテラシーと言えよう.自分にとっての「自然な」巨大ビル崩壊のイメージとは,実はテレビや映画の特撮で刷り込まれただけのものに過ぎなかったのではないか,たとえばそう疑ってみることから始めてみてはどうだろうか.

7 オウム真理教

 多数の犠牲者を出したオウム真理教事件もまた,ニセ科学と科学リテラシーの関係という観点からきちんと考えるべき問題である.
 ご承知のとおり,オウム真理教は,超能力を売りものにするカルトでありながら,教団内に科学技術省という組織を持ち,大学や大学院で理系の専門教育を受けた信者が,「科学」を営んでいた.しかし,オカルト的主張を最上位に戴く科学とは,いったいなんだったのか.科学の専門教育を受けた信者が生み出したものは,一方に,教祖の脳波を受信するヘッドギアがあり,一方に,確かに人を殺せるサリンがあった.このアンバランスは,何に由来するのか.
 もちろん,彼らは,それぞれに個人的ななんらかのきっかけがあって,オウム真理教のオカルトを受け入れたのだろう.そのきっかけとは,まさになんらかの「個人的な体験」だったに違いない.それは,ある種の奇跡だったのかもしれない.仮に奇跡を見たのだとしても,それはあくまでも個人的な体験にすぎない.彼らに欠けていたのは,そういった「個人的な体験」を客観視する姿勢だったのではないかと,筆者は考えている.自分では奇跡のトリックが見抜けなくても,それだけで奇跡と信じてしまうのではなく,なんらかのトリックに過ぎないはずだと考えるのが,客観視するということである.確かに彼らには科学知識はあったが,残念ながら,それを使うために必要な「考え方」,とりわけ「個人的体験を客観視する」態度が身についていなかったのではないだろうか.
 オウム真理教事件が突きつけたものが,日本の理科教育・科学教育が持つなにか根本的な欠陥を意味するのかどうか,科学と教育に携わるすべての人が頭の片隅なりに置いて,時折りは考えてみるべきだろう.

おわりに

 カール・セーガンは,科学と民主主義は同じ精神に基づくものだとして,科学的で合理的な考え方の重要性を説いた(9).筆者も,この考えには全面的に同意したい.もちろん,個々人の日常生活がすべて合理的に行われるかといえば,もちろんそんなことはないし,そうする必要もないのだが,少なくとも社会的な意思決定の場では,科学的で合理的な考え方を基盤としなければ,民主主義社会は成り立たない.科学リテラシーがなぜ重要なのかに対する答えは何通りも考えうるが,科学的な考え方が民主主義の基盤だからというのは,一つの大きな理由である.

参考文献


1) 疑似科学やニセ科学についての良書は多く出版されている.「創造論科学」の問題に詳しいものとしては,Micheal Shermer : “Why People Believes Weird Things"〔邦訳『人はなぜニセ科学を信じるのか』(岡田靖史 訳,早川書房,1997)〕.
2) 中村禎里:『ルイセンコ論争』(岩波書店,1967) .
3) 中谷宇吉郎:『千里眼その他』(何種類かの中谷の随筆集に収録されている) .
4) 江本 勝:『水からの伝言』(波動教育社,1999) .
5) 森 昭雄:『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版,2002) .
6) 津田敏秀:『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(岩波書店,2004) .
7) S. Shingh and E. Ernst: “Trick or Treatment" (邦訳『代替医療のトリック』(青木 薫 訳,新潮社,2008) .
8) 菊池 誠:『科学と神秘のあいだ』(筑摩書房,2010))は,この問題に焦点を当てた.
9) Carl Sagan : “Demon Haunted World" (邦訳『悪霊にさいなまれる世界(上・下)』(青木 薫 訳,早川書房,1997) .

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今日は最近買ったRobert Reedの"The Ringmaster"からの一曲。マイク・オールドフィールド愛に溢れた「まんまマイク」な作品です。

https://youtu.be/llnwSsBKEyk

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