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オラどこさ行くだ

世界中を旅した人は夜中目が覚めたときそこが何処の夜だと思うだろうか?一瞬ここがコートジボワールか、サウジアラビアか、ホーチミンか、エクアドルか、ブエノスアイレスか、浜松市か、わからなくなるのではないだろうか。
自分自身にもそういうことがある。野宿した兵庫県たつの市か、静岡の橋の隅っこか、群馬の山奥か、住んでた小平のアパートか、大阪の友達んちか。
蛙の囁き、風のさざめき、みんな親戚みたいで、よほど気温や気候に大差ない限り、そこがどこであろうと目をつぶれば何処でもなくなってしまう。遠くは近くで、近くは遠い。
自然も都会ももはや大差ない。ルールは違うけどなんてこたない。ビルのゴルジュに身をよじってスーツ姿のサラリーマンが瀑布の飛沫に耐えながら渡渉を繰り返す。光化学スモッグの霧があがる。外苑通りを突進するイボイノシシとプリウスが正面衝突する。田んぼに地下鉄。台湾原産の杉が爪楊枝となり和歌山の商店街の隅にほっぽり捨てられる。先っぽは台湾の方を指してたりなんかして。
人にはただ認識の上での故郷が存在するだけで、血は、遺伝子は、どこから来たのかわからない。心の帰属するふるさとは、日本に生まれたから日本とは限らない。だからアフリカの民族音楽に血が滾るような興奮を覚える時がある。それは血が思い出してるという感じがする。帰るべき場所を見つけたとでも言おうか、はたまた懐かしさを感じているのか。帰る場所があるとするなら、行きべき場所があるとするなら、思ってなくても行くし、帰るつもりがなくても帰ってしまう。地に呼ばれる。血が読んでる。そんな気がする。

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