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オススメの社寺⑥ 気比神宮と常宮神社

今回は、北陸新幹線の延伸で注目の福井県敦賀市にある気比神宮けひじんぐう常宮神社じょうぐうじんじゃをオススメします。

都怒我阿羅斯等つぬがあらしと

 『日本書紀』第11代垂仁天皇の巻に、先代崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が当地にやってきて、それが角鹿つぬが(敦賀)の地名の由来となったことが記されます。

敦賀駅前では都怒我阿羅斯等が出迎えてくれます。 かつて朝鮮半島にあった任那みまな国(伽耶)の王とされます。ツノは兜でしたか(笑)
気比神宮境内摂社 角鹿神社
 由緒書き


仲哀天皇ちゅうあいてんのう神功皇后じんぐうこうごう

 次に『日本書紀』に当地が登場するのは仲哀天皇の巻です。「(仲哀天皇)2年1月11日、気長足姫尊おきながたらしひめのみこと(古事記は息長帯日売命)を皇后とされた。2月6日、敦賀においでになった。仮宮をたててお住いになった。これを笥飯宮けひのみやという。」

 

笥飯宮けひのみや

常宮神社じょうぐうじんじゃの由緒に「仲哀天皇2年2月に天皇皇后御同列にて百官を率いて敦賀に行幸あそばされ、笥飯けひ行宮あんぐうを此の地に営まれた」とあります。気比神宮けひじんぐうの方は、末社天利劒神社あめのとつるぎじんじゃの由緒に「仲哀天皇当宮に参拝、宝劒を奉納せられ云々」としますので、笥飯宮は気比神宮ではなく、常宮神社の地にあったと思われます。

社名の「常宮(元の読みは〝つねのみや〟)」は、神功皇后が 「つねに宮居みやいし 波風の静かなるなか 楽しや」 と言われた故事によるものだそうです。

鳥居 神功皇后は当地で応神天皇を出産されたと神社伝承にあり、地元では「お産のじょうぐうさん」と呼ばれているそうです。
東殿宮 日本武尊
 元気比神宮の中門 移築して現在は常宮神社の拝所
西殿宮 武内宿禰命
境内には川が流れ、小さな滝もあります
参拝記念に持ち帰っても良いそうです
ご朱印 国宝新羅(朝鮮)鐘とは、朝鮮出兵で大谷吉継が持ち帰り、豊臣秀吉の命で常宮神社に奉納されたもの。
常宮神社は道を挟んですぐ向かい側が海岸です

  

気比神宮けひじんぐう

 次に『日本書紀』に登場するのは、神功皇后の巻に、「武内宿禰たけのうちのすくねに命じて、太子(後の応神天皇)に従わせ、角鹿の笥飯大神けひのおおかみを参拝させられた」と記されます。『古事記』は仲哀天皇の段に、いわゆる「名換えの故事」を記します。そのことは後ほど書きます。

北陸道総鎮守 越前國一宮
延喜式名神大社 官幣大社
御祭神
伊奢沙別命いざさわけのみこと 仲哀天皇ちゅうあいてんのう 神功皇后じんぐうこうごう  応神天皇おうじんてんのう 日本武尊やまとたけるのみこと 玉姫命たまひめのみこと(神功皇后の妹)  武内宿禰命たけのうちのすくねのみこと

 元々は伊奢沙別命いざさわけのみことを祀る社でしたが、文武天皇大宝2年(702年)仲哀天皇と神功皇后を合祀。その後四柱を加え延喜式には7座と記されます。神功皇后は全国の八幡社と住吉社に、応神天皇は八幡社に祀られていますが、この七柱の神が揃って祀られるのは珍しいですね。

大鳥居(重文)
拝殿
回廊と由緒書き
土公
長命水
松尾芭蕉像
ご朱印


「名換え故事」の徹底解説


『古事記』仲哀天皇ちゅうあいてんのうの段に、気比大神けひのおおかみに関する故事が記されます。

 武内宿禰命たけのうちのすくねのみことは、太子(のちの応神天皇)をお連れして、(香坂王・忍熊王討伐の)けがれみそぎの為に近江と若狭の国を巡った。越前では敦賀に仮宮を造ってそこに太子をお迎えした。

 するとその地に鎮座する伊奢沙別大神いざさわけのおおかみが、太子の夢に現れて、「私のを、御子の御名前と取替えていただきたい」と言った。そこで太子は「お言葉のとおり換えましょう」と申した。 

 その神が「明日の朝、浜においでください。名換えの贈り物を献上いたします」と言った。そこで翌朝浜へ出向くと、鼻に傷を負ったイルカの大群が浜一杯に寄せていた。 太子は使者をやって神に「我に魚をくださったのですね」とおっしゃった。そして神の御名を御食大神みけのおおかみと申した。それで今もって気比大神けひのおおかみという。

古事記現代語訳 ※漢字は日本書紀表記に置き換えています


『日本書紀』にはこの故事は記されていませんが、応神天皇の巻に、

一説によれば、天皇が太子となられて越の国に行かれ、敦賀の笥飯大神をお参りされたが、そのとき、大神と太子とが、御名を互いに換えられた。それで大神を名付けて伊来紗別神いざさわけのかみといい、太子を誉田別尊ほむたわけのみことと名づけたといわれている。そうならば、大神の元の名を誉田別神、太子の元の御名を伊来紗別尊といったことになる。しかし、そういった記録はなく、まだあきらかではない。

日本書紀現代語訳

とあります。

 「そういった記録は無く、まだあきらかではない」にもかかわらず、あえてこの件に言及しているのは、『古事記』(712年)の記述に対して、『日本書紀』(720年)が注釈を加えたかのような珍しいパターンです。当時のエリートが寄ってしてもわからないわけですし、今に至るまでに何か新しい発見があったわけでもありませんから、なぜ『古事記』がこのように記したのかはわかりません。

 しかし、こうした謎の記述というのは、特定の歴史認識・思想に導こうとする者にとっては格好の切り口になります。

 そこで僭越ながら私が解説させていただきます。難しく考える必要はありません。前述の『古事記』の文章を少しだけいじってみます。


 するとその地に鎮座する伊奢沙別大神いざさわけのおおかみが、太子の夢に現れて、「私の【を、【御子が(私に)つけてくださる名】と取替えていただきたい」と言った。そこで太子は「お言葉のとおり換えましょう」と申した。 

 その神が「明日の朝、浜においでください。名換えの贈り物を献上いたします」と言った。そこで翌朝浜へ出向くと、鼻に傷を負ったイルカの大群が浜一杯に寄せていた。 太子は使者をやって神に「我に魚をくださったのですね」とおっしゃった。そして神の御名を御食大神みけのおおかみと申した。それで今もって気比大神けひのおおかみという。


 換えたのは【 】内の部分だけです。古代には、魚や菜など食物全般を「な」と呼んでいました。

 ご理解いただけましたか? この故事は「な」と「名」を交換して、伊奢沙別命が御食大神みけのおおかみ気比大神けひのおおかみと言われるようになった由来を記しているだけのことだと思います。以来、当地から絶えず献上品が朝廷に届けられ、それによって伊奢沙別大神を祀る気比神宮は神階高く、神封(神社に寄進された封戸ふこ)も増封を重ねますので、その理解で間違っていないと思います。

御食大神みけのおおかみ気比大神けひのおおかみと同義なのは、気比の「」は「」食べ物を表し、「比」は「御霊みたまを表すものだからです。

私 「太安萬侶おおのやすまろさま いかがでしょう?」
安萬侶 「Oh no!よくぞ誤りに気づいてくれた」

とおっしゃっていただきました(笑)

 








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