妻にはずっと黙っていよう。
私がnoteをはじめたのは2022年の6月。
私が音声配信をはじめたのは2022年の12月。
いまこれを書いているのは2024年3月。
スタートからまだ2年は経過していない。
妻は知らない。
私がこうして毎日noteでエッセイを書いていることを妻は知らない。私が定期的に音声配信をしていることを妻は知らない。
おそらく妻は、私が大の文章好きだということを知らない。私がおしゃべりすることを大好きなのは知っているとは思うけど、音声配信で全国の顔も知らない人と話していることを妻は知らない。
妻は知らない。
私が札幌市から依頼されて少なくはない人数の前で「文章とはなんぞや」と講釈を垂れていることを知らない。
妻は知らない。
私がこのnoteを毎日書いているのは、将来産まれてくるであろう我が子に、私の思想を残し伝えるためだということを妻は知らない。
妻は知らない。
私が音声配信をしているのは、私の肉声を閉じ込めておくためで、私がこの世界からいなくなってからも家族が寂しくないようにしておくためだということを妻は知らない。
全世界の夫婦がそうだと思うのだけど、奥さんというものは旦那さんに興味がない。奥さんにとっての旦那さんというのは道端の石コロくらいの存在と大差ない。私がどんな仕事をしているのか、どんな気苦労があるのかを妻は知らない。興味がない。「今日の仕事はどうだった?」と聞かれることもない。
でも毎日楽しいよ。
…
昨夜、家でサカナクションの『ルーキー』を聴いていた。私と同じ、北海道の出身者で構成されたサカナクション。
『ルーキー』の歌詞は、
サカナクションのこの曲を知ってる人なら「あぁ、あの曲ね」となるものだが、この曲を聴くたび、思わず声を漏らして胸がワナナク歌詞がある。それは、
街は花びら さよならの風。
くそ〜書けない。この歌詞は書けない。
頭の中にある国語辞典のどこをひらいたってこの歌詞は書けない。思い浮かばない。「街は花びら さよならの風」はどうやっても思い浮かぶものではない。
と、いう話を妻にしてみる。
「ねぇねぇこの曲の『街は花びら さよならの風』って、どうやっても書けないよね。思い浮かばないよね。すごいよね」
そう聞くと、妻は言う。
「たしかに思い浮かばないと思うけど、それが旦那になんの関係があるの? 別に旦那は作詞をしているわけでもないし、詩人でも文筆家でもないのに」
あ、そっか。妻は私が大の文章好きであることを知らない。誰かが素晴らしい詩や文章を書き、それを傍観者として見るたびに悔しい気持ちになっていることを妻は知らない。
いつか妻がこのnoteを知る瞬間がくるだろうか。もしも読まれたならどうなるだろうか。
仮にすでに妻がこのnoteの存在を知っていたとする。それでも気付かないふりをして、私のやりたいようにやらせてくれているとしたら。それはそれでとても素晴らしい。妻ならやりかねない。
私がこの世から消えたあと、書きためてきたエッセイたちの存在に気づいたとして妻は読むだろうか。おそらく読まないと思う。結婚生活を送り始めて、妻に対しての気持ちをこのnoteにつまびらかに書くことは避けてきた。そういうのは手紙にでも書いておけばいい。
だから、
妻にはずっと黙っていよう。
終わりのときが来るまで黙っていよう。
街は花びら、さよならの風。
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