見出し画像

恋するフラミンゴ。

「恋するフラミンゴ」って一体どういうことなのかしら? と思ってこの記事を開いた方はいらっしゃるかしら。

とても申し訳ないんだけど、この記事はタイトル先行の記事だ。内容やエピソードはない。申し訳ね。毎日文章をnoteに書いているわけだから、こういう日があっても怒られないと思う。


恋するフラミンゴって、なんだか気にならないだろうか。


フラミンゴは通常ピンク色だ。そして一本足で立っていて日本人が好む5音の響きを持っている。すなわち「フ・ラ・ミ・ン・ゴ」。


「恋するフラミンゴ」という言葉の響きからはなんだかかわいらしいエッセイが展開されるかのような期待感がある。何かをフラミンゴに見たてた話が展開するのか、あるいは本当にフラミンゴについての話が展開するのか。


ここで主張したいのは、ある文章が名詞で終わることの力強さだ。私たちが中学・高校年代で習った言い方で書くと「体言止め」である。


この記事のタイトルである「恋するフラミンゴ」も「フラミンゴ」という名詞で終わっている。体言止めの「体言」についての意味や解説は私にはできない。それからなぜこの体言止めが読み手の印象に残るのかも説明ができない。


でもたとえば、体言止めを使った文章とそうでない文章を比較すればよくわかる。

・彼の類稀なる文章の才能が、多くの読者を獲得させるに至るのであった

これよりも、

・彼の類稀なる文章の才能。多くの読者を獲得させるに至るのであった。

なんだか太字の部分が強調されているのがよくわかると思う。


説明はできないのだけども、文章が名詞で終わるという体言止めがなぜか印象に残る、ということは感覚的に理解できる。不思議だ。

ただ、20代前半のころ、私がコピーライターのアルバイトをしていたときに先輩コピーライターに口すっぱく言われたのは、


「イトーくん、体言止めは諸刃の剣だ」


体言止めは読者の印象に残る。なので闇雲につかわずに、本当に強調したいときだけに使用するのが好ましいと。

この助言が本当に正しいのかはわからないが、体言止めが諸刃の剣であるという考え方は今現在の私の根底にも脈々と流れている。

思わず体言止めをしたくなるところで立ち止まるようにするわけだ。これは本当に強調したいことだろうか? なんだか書き手が悦に浸っているかのような印象を持たれないだろうか? そういうことをすみずみまで考えてから体言止めを使うといい、という指導。

個人的には正しいと思う。


恋するフラミンゴ。


名詞で終わる体言止めの力強さを訴えたい記事だったんだと思う。

そういや井上陽水の曲の中に『とまどうペリカン』って曲があったなぁ。全く意味不明で好きだ。


<あとがき>
体言止めに関しては普段のエッセイではそれほど意識することはないのですが、仕事で文章を書くときにはかなり意識します。体言止めが多すぎる文章はどこかナルシスト的な何かを感じてしまい食中毒のような状態になってしまうのです。体言止めに関わらず、ナルチシズムを感じる文章はよくあって、その筆頭はこの私の毎日のエッセイだったりするんだよなぁ、と思ったりもします。今日も最後までありがとうございました。

【関連】コピーライターって憧れるよね

この記事が参加している募集

育児日記

美容ルーティーン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?