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チキチキ受精レース。

なんちゅうタイトルだ。

平日の大通公園を歩いていた。札幌中心部にあるこの大通公園は、いつもたくさんの人でにぎわっている。

日中にここを歩くと、おそらく保育園児なのだろうか、カートに乗って運ばれる子どもたちを見かけることがある。

子どもたちはおそらく3歳前後で、黄色や緑の帽子をかぶって、通行人にすっとぼけた愛らしい姿を見せてくれる。当然、周りには保育士さんがいて、子どもたちと一緒に遊んだり、手をひいて歩いている。


私はクソ田舎の出身であるから、この都会のど真ん中で育つ子どもってのは、将来どんな大人になるんだろう、とほんの少し心配な気持ちになる。


10人くらいの子どもたちが、やはりすっとぼけた愛らしい顔を私に向ける。ちょっと前の私なら、子どもといえど赤の他人であるし、会話も成立しないから、特にこちらから愛想もふりまかなかった。

が、ここ数年は私も大人になったのか、この次世代を担う愛のキッズをみると、なんとも形容しがたいのだが道端の猫でも見つめるような、愛しい気持ちにもなるもので。



う~む。愛くるしいなぁ。



と思ってすぐ、大通公園を歩きながら思ったのは、この子どもたちはつい3年前までは、受精卵だったのだ、ということでございます。


私も受精卵の出身だが、私が受精卵だったのは今から数えること32年前なので、そのときのことはもう、全然覚えていない。

歩いていると通行人の成人男性ともすれ違った。

この人も元受精卵の出身だ。


精子と卵子がめぐり逢い、みごとに受精してできるのが受精卵。私には受精卵だったときの記憶はないし、精子だったときの記憶もない。

当然、卵子だったころの記憶もない。
ないったらない。

これを書いていてなんだか不思議な気持ちになったのだが、元をたどれば私は精子と卵子という異なる2つの物質だったのか。

いまは1人の単体人間であるから、さかのぼると2つの物質にルーツを持つというのは、いささか不思議に思われる。


大通公園にいた子どもたちは、
ついこの間まで受精卵だった。

記憶はあるのかな。

しゃべれないからなぁ。



第38回宣伝会議賞のグランプリ作品は、

精子だった頃の運をもう一度。

である。


これは「LOTO6 / 宝くじ」についてのキャッチコピーであり、億を超える精子の中から選ばれた、たった一つの精子だった私たち、ということを思い出させてくれるみごとな表現だ。


精子だった頃の運をもう一度、か。


一番元気だったんだろうなぁ。



一番元気だった精子やつが受精して人間になってるんだから、そりゃ子どもたちも元気があり余って、ずわ~っと遊ぶよなぁ。


愛くるしいなぁ。


<あとがき>
死屍累々のしかばねを超えて、今の私がいるわけですなぁ。たしか精子には役割が割り振られていて、道を開けろ~!ってやつもいれば、サポート役に徹する、みたいなやつもいるんだとか。そう考えると、助け合いの精子、もとい精神は遺伝子レベルに組み込まれているのですなぁ。今日も最後までありがとうございました。

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