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ドッペルゲンガーを探して  第二十五回

 浩市が退職届を提出したのはゴールデンウィーク前のことだった。体調が優れないことを浅田には口頭で伝え、たいした仕事も出来なかったことを浩市は詫びた。
「気にすんな。困ったことがあったら、いつでも相談にのる」
 そう言うと浅田は辞表を受け取った。
 浩市は黙って頭を下げた。
 数人の同僚には挨拶をして回る浩市に、これからの生活はどうするのか、どこか身を寄せるところはあるのかと、根ほり葉ほり聞いてきたのは、驚いたことに中田だった。彼女の態度の変わりように浩市は戸惑った。そして、質問に対しては、浩市自身も皆目見当がつかず、苦笑で応えることしかできなかった。
 中田の質問には曖昧な態度で切り抜けた浩市だったが、蒼から浴びせられる質問の嵐からは逃れることはできなかった。
 蒼には悪いと思ったが、黙って姿を消すつもりだった。しかし、どこで聞きつけたのか、浩市が辞めてから三日目に電話がかかってきた。
「なんで? なにかあったの? どうして急に? なんで私に黙って? 今、何をしているの? この先どうする気?」
 蒼の口から出るのは疑問符ばかりだった。
「おい、今ってまだ授業中じゃないか。切るぞ。学生は勉強に集中しろ。おれなんかに構っている暇はないはずだろ。もう切るぞ」
「なにそれ、どういう意味? ちょっと待って、やだ、切らないで」と言う、蒼の言葉が終わる前に浩市は電話を切った。
 しかし、一時間足らずのうちに蒼は浩市のアパートまでやってきた。家を知っている以上、引越しでもしない限り蒼から逃れることはできない。浩市は半ば諦めていた。今日は、駅からここまで自分の足で走って来たと見えて、蒼の息があがっている。
「なんで電話切るのよ。ほんと頭に来る。辞めたことも内緒にして。理由を教えてよ。なんで勝手に辞めるのよ」と、浩市に詰め寄った。
「時間が惜しくなった」
「なにそれ。私といるのが時間の無駄っていってるの」
「そうじゃない。人を探しているんだ……」
「女の人?」
 浩市はため息をつく。これまでのことを説明しなければ納得しないだろう。なにから話をしたものか迷った末、浩市は頭からシャツを脱ぎ、ジーンズのボタンを外した。
 蒼は浩市の唐突な行動にギョッとして、身を固くした。
 浩市は言った。「この傷をつけたヤツを探している」
 右脇腹を縦に走る傷痕を見て、蒼は気味悪そうに眉を寄せた。
「なにそれ。事故? 手術の跡とか?」蒼は指先でおそるおそる傷をなぞる。
「腎臓を盗られた」浩市が言った。
「とられる? とられるって……どういう意味?」
 意味を理解できずに目を白黒させる蒼に、浩市はマヤと出会ったときのことからかいつまんで話した。ただ、浩市がマヤを探し当て、今もマヤと会っていることだけは言わなかった。なぜマヤのことを隠したのかは、浩市自身にもわからなかった。なんと説明すれば良いのかわからないからだと浩市は自分に言い訳をした。
 蒼は黙って聞いていたが、浩市が話を終えてもまだ、半信半疑といった様子だった。突拍子もない事件の話など聞いて、すぐに理解できないのが当然だと浩市は思った。
しばらく黙っていた蒼が、口を開いた。
「探す必要なんて本当にあるの? このまま普通に生活してなにが悪いの」
「これまで何度もそんなふうに考えてはみた。もう忘れよう。事件のことも、以前の生活も……って。でも無理なんだ。頭ではわかっていても心のバランスがとれないんだ。重心の狂ったコマのようにふらふらして、あちこちにぶつかるんだ。あっちにガツン、こっちでガツン。そのたびに思い知らされる。やっぱり自分の残りの部分を忘れるなんてできはしないんだって」
「だからって……、どうして時間がないのよ」
 浩市はしばらく黙っていた。それは自分でも認めたくない事実だったからかもしれない。それでも浩市はゆっくりと言った。
「残り……、もう一方の腎臓がダメになりかけている」
 蒼は表情を曇らせた。
「それってドッペルゲンガー。自分のドッペルゲンガーを探してるってわけか」
 浩市は片頬を上げて少し笑った。なるほどドッペルゲンガーか、と心の中で繰り返した。
「でも、自分のドッペルゲンガーを見た人間は死んじゃうって」と、思わず口に出した蒼は、すぐにしまったという顔をした。
そ れでもよかった。まさに自分が探しているのは、自分の副体。もうひとりの自分だ。もし見つけられたら、そのときは死んでも構わないと浩市は思った。

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