2020年映画TOP10

■2020年映画TOP10

■はじめに
2020年に鑑賞した映画の個人的なメモです。

2014年は35本を観賞。
2015年は41本を観賞。
2016年は62本を観賞。
2017年は82本を鑑賞。
2018年は61本を鑑賞。
2019年は74本を鑑賞。
2020年は63本を鑑賞。
※全て劇場で観た映画です。家で観た映画はカウントしてません。
※コロナ禍で映画館でリバイバル上映した映画も本数にカウントしました。
 (私がどれほど映画にお金を落としたかを記録する意味もあるかと思います)

新型コロナウィルスの影響で様々な映画が公開延期になった。
また、私自身が4月末から完全在宅勤務になった。
以前はレイトショーの開始時間に合わせて、それまで残業をするというライフスタイルではあった。そんな生活で日頃のストレスを発散していた。
だが、そんな日常は遠い日常となってしまった。
人の混雑を避けるために平日のみに限定して映画館へ足を運ぶというルールを自らで定め、その中で気になった映画、ストレス発散のための映画を観るにとどまることとなった。それでも折角、移動を伴い映画館へ足を運ぶのであれば、1日に可能な限り映画を観よう、という考えにシフト。そのため、普段はスルーしちゃうような興味が少しだけあるような映画や(映画の宣伝のため)ラジオで話題に出た映画なども鑑賞することとなった。
結果として、映画館での映画鑑賞本数は63本という結果となった。

■2020年映画TOP10一覧
①フォードvsフェラーリ
②TENET テネット
③透明人間
④1917 命をかけた伝令
⑤ジョン・F・ドノヴァンの死と生
⑥スキャンダル
⑦コリーニ事件
⑧ミッドサマー
⑨ディヴァイン・フューリー/使者
⑩ようこそ映画音響の世界へ

①フォードvsフェラーリ
個人的には文句なしに2020年No1映画であった。
結果的には、第92回アカデミー賞では4部門(作品、音響編集、録音、編集)にノミネートされ、アカデミー音響編集賞とアカデミー編集賞を受賞することになった。映画のショーレースには興味もないし、熱さは感じない。だが、映画内で繰り広げられるフォードvsフェラーリの社運をかけたカーレースへの興味と興奮は、今でも熱くうずいている。そういう体感が心に残り続ける映画であったといえる。
癖の強い性格のレーサーであり自動車整備士の男とシェルビー・アメリカン設立者で心臓に病を抱えてレースを引退した男。この二人が出会い、ル・マン24時間耐久レースに挑戦していく。
フォードが打ち出した次の自動車売買におけるマーケティング戦略は「ベビーブーム層」へのアプローチだった。「ル・マン耐久レースに勝利した車、強い車、速い車を市民は欲するのだ」といったプレゼンのシーンも面白い。(当時は、OHP(オーバーヘッドプロジェクター)を使いプレゼンしていたというシーンで、小学生時代にOHPが活躍していたよな、という感慨もあった)そして、フォード社はそのマーケ戦略に従い、当時ル・マン耐久レースで勝利を収めていたフェラーリの買収に動き出す。
だが、フェラーリ社は販売部門はフォード社に所属するが、レース部門はフェラーリでその舵を握るという回答だった。レースへの熱望と意欲、それがマーケ戦略の中心だったフォード社はその回答に満足せず、結果としてその買収商談は破談となる。そしてフォード社の自力でル・マン24時間耐久レースに勝利するための開発とレーサーの発掘に本格的に乗り出していく。その大きな会社の波に巻き込まれたのが、主人公の二人である。
その勝つための車作りやレーサーの発掘には、元レーサーのキャロル・シェルビー/マット・デイモンが抜擢され、そのレーサーにはケン・マイルズ/クリスチャン・ベールに声がかかる。フォード社の経営部門からの横柄な態度による強烈な横やりやプレッシャー、現場で指揮をしている人間のレースに賭ける情熱、そしてレースに勝つことに貪欲すぎて自身の生活の破滅と隣り合わせになりながら24時間耐久レースという死地に挑んでいくレーサー。その死地に向かうレーサーを見守る妻や息子。
当時のレースは安全性を度外視した速さを求めた車でレースをしていたらしい。いつ死んでもおかしくない状況はまさに毎日戦場に行くようなものである。第二次世界大戦終結後、イギリス軍を除隊しアメリカに移住したケン・マイルズという背景がその視線にみえる。そのような人物の時代背景から、当時のアメリカ自動車メーカーのマーケ戦略にまでの緻密な設定は、現代日本でも照らし合わすことができる。会社のマーケ戦略に振り回され、残業続きで体を壊すかもしれない、そして仕事にのめり込み精神異常となっていく夫。それを見守る妻と息子。そのような視線は現代に通じるものがある、という点は非常に心に響くものがある。
男と男の中でしかわかりあえない奇妙な関係を見守る妻の視線があるだけで、この作品の深みはまし、さらに息子との視線も組み合わせている点。それが、この映画をただのレース界という男だけの世界を描くだけにとどめていない。もちろん、キャロルとケンのレースに賭ける情熱、そして衝突のシーンの描き方も素晴らしい。
しかしながら、それ以上に素晴らしいと思ったのが、映画音響である。命を賭けたレースという迫真のシーンにあるのは、リアルな映画音響ーレーシング用にカスタマイズされたリアリティのあるエンジン音ーである。いや、エンジン音だけではなく、タイヤの擦れる音、ブレーキ音、車体がガタつく音。そしてその音響が鳴り響くレーサーの視界。レースシーンのエキサイティングさは極上のものであった。
アカデミー音響編集賞と獲得するにたる映画音響だったといえば、それまでである。だが、私が映画館で体感したエンジン音、ブレーキ音の数々は、その一つ一つの鼓動は、男たちが命をかけるに値する音であり、その至高の音響がこの映画をタダモノではない映画に昇華させていたのは間違いないだろう。
そしてラストの24時間耐久レースで繰り広げられるレースの中で最高速度に到達してからのヒューマンドラマに自然と熱い涙が溢れてくる。そんな映画体験がここにあった。

②TENET テネット
クリストファー・ノーラン発SFスパイ・アクション。
こんな画を描いたら、絶対に”映える”よね!!というシーンが盛りだくさんでまー楽しい。パンフレットを読んで、TENETはスパイ・アクション映画の文脈が含まれているという解説で私はかなりの部分で得心した。目まぐるしくシーンが切り替わる脚本とその映像美や音響美の波に飲み込まれていて、映画を観ていた際にはそのスパイ・アクションという本質が見えていなかったのは事実である。確かにインセプションも同じような構造であったことを思い出すなどした。
・エペラ劇場での特殊部隊による占拠:プルトニウムの情報を保持する重要人物の救出
・列車の路線上:拷問シーン
・時間逆行の設定の明示、弾丸の時間逆行:インド製の薬莢であることを突き止める
・武器商人と贋作オークション:武器商人、不倫、贋作、犯罪告発
・旅客機倉庫:潜入ミッションと回転ドア
・船上、武器商人との交渉:海上アクション
・プルトニウム強奪作戦:時間逆行カーアクション
・クライマックス:時間逆行挟撃作戦
上記におけるシーンはどれもこれも、
・魅せたいスパイ・アクション
・スパイ・アクションをド派手彩る、撮影したい映像
・時間逆行要素
が混在しており、それぞれに緻密な計算と意味がある。
「特殊部隊による占拠と閉鎖空間での秘密作戦ってスパイ・アクションの王道だよね」
「拷問シーンは必須だよなー」
「権力者(武器商人)と不倫(美女)と贋作オークションなんて、ロマンあふれるよね」
「旅客機を倉庫にまるまる突っ込ませたら、いい画が撮影できるでしょ」
「少人数での潜入アクションって魅力的だよね」
「海上アクションシーンも撮影したいよね、権力者って豪華なヨットを保持しているじゃん!」
「でも、ストーリーのメインはプルトニウムと世界救済なんだよな!」
「そして、今までに誰も観たことがないド派手でキャッチーなカーアクションはスパイ映画では必須要素なんだよ!」
そんなスパイ・アクション愛好者の声がこの映画から漏れ出てくるようでもある。
そしてその中に時間逆行という物理法則を逆手に取った映像演出を真正面からぶつけてくる。スパイ・アクションとSF要素の正面衝突。対衝突。その衝突のエントロピーの高さは尋常じゃない。もちろん、画面の派手さを演出するための要素として、”今までに誰も観たことがない映画体験”をする要素として、時間逆行は絶対に”勝てる”という算段もあったのだろう。描きたいスパイアクションシーンが先にあったわけでもなく、時間逆行というSF要素が先にあったわけでもなく、それぞれが平行的に考えられて、完璧に混在している。それがこの映画の美徳であると思う。この時間逆行のシーンのエモーシャルさを言葉にすることは難しいので割愛するが、この映画が”今までに誰も観たことがない映画体験”を提供したことは間違いない。

③透明人間
現代版にアレンジした透明人間を題材にしたホラー、サスペンス映画。
※ゆるいネタバレは含むため、まっさらな状態で観たい人は飛ばしてください。もしくは予告編映像をみてください。

透明人間と言われたら、顔を包帯で多い、サングラスや帽子で全身を隠した男が人々を襲う、といったような映画をイメージするだろう。その透明人間となってしまった原因は科学実験。科学者自身が生体実験をしていて、その成れの果てが透明人間である。そんな設定までも思い出されるかもしれない。
この透明人間の映画はその設定を下地にしながらも、現代版にリブートしている。
話は、恋人に束縛され、恋人への疑心暗鬼や恐怖心が深まっている主人公の女性が、その恋人の豪邸から逃亡するシーンから始まる。なんとか逃げ切ったが、その後に「恋人は手首を切って自殺した。彼から500万ドルの遺産があなたに残された」といった内容が女性の元に届けられる。
その大富豪をもつ恋人だった彼は、優秀な科学者であり、自殺をするような人ではない。自殺くらいならば偽装できるし、今も彼は私のことを見張っているはずだ。そんな強迫観念に襲われていく。恋人から逃げてきたが、行く先々で彼女は怪奇現象に襲われる。物理的な被害も受ける。だが、その目には何も映らず、まるで”透明人間”が襲っているかのような演出は、まさにホラー映画の王道である。だが周囲の人間は、彼女の言葉に全く耳を傾けることはなく、単なる錯乱状態にある、と一蹴されてしまう。その中で彼女は「彼が透明人間になって襲ってきている!」ということを確信し、その彼に立ち向かっていくのである。
DVをする男、それから逃げる女性、錯乱状態にある弱い女性に耳を傾けない家族や知人。そのような社会風刺的な側面とそこに一人で立ち向かおうとする強い女性のイメージ。ある種一般的なテーマではあるが、そこに未知なる”透明人間”というホラー要素を加えてくる。また、その”透明人間”は単なる科学実験による突然変異ではなく、天才科学者、物理学者といった目線がある”透明人間スーツ”(光学迷彩スーツ)を発明していた、ということがこの物語に更に一つのスパイスを与えている。これが現代版アレンジの透明人間である。過去の恐怖の象徴や超常現象の概念を現代科学で読み解き、映像化するという試みは見事に成功したと言える。弱い女性の精神的自立とSF要素というテーマはある種一般的ではあるが、ホラー映画という文脈とうまく調和されている。ラストシーンの爽快さも格別で、恐怖の象徴からの解放はホラー映画の美徳であると感じさせられた。

④1917 命をかけた伝令
第一次世界大戦のイギリス兵の1日を全編ワンカット風に撮影した渾身のワンカット映画。
ワンカット映画って魅力的なんだよね、というのは個人的にある。ワンカットという難しさ、一度失敗したら再度撮影し直す必要があるというプレッシャーとリスク、それらを飲み込んでワンカット映画に挑戦するという映画監督の心意気だけで少し酔ってしまう。私にはそういう気持ちがある。
ストーリーは単純。前線と通信が途絶えてしまったため、作戦中止という伝令を二人の若いイギリス兵(ウィルとトム)が受け取る。そして作戦地帯を走る物語である。前線には数千人もの兵士が戦っており、突撃の準備をしている。だが、敵軍の後退は罠であり、ここで前進したらイギリス軍は甚大な被害が出る。その数千人もの兵士の命を救うために、決死の思い出伝令に走るのである。そしてその前線にはトムの兄がいる。
全編ワンカット風といっても、その殆どがワンショット撮影されたものである。それをつなぎ合わせることにより、全編ワンカット風にみせることに挑戦した。正気の沙汰でないと企画である。だが、伝令に走る。時間が勝負。そのようなテーマからこそ、時間制限=ワンショット撮影によるスリリングさは完全にマッチしていた。挑戦するに値する価値といえるし、それは成功したともいえる。
個人的には、時間が勝負であることとワンショット撮影であることで、戦争モノのTPS(サードパーソン・シューティングゲーム)のプレイ動画を観ているような感覚にさせられた。かつて完全一人称視点で撮影された「ハードコア」(2015年)を鑑賞したが、これも挑戦的なPOV(ポイントオブビュー)撮影であると感じた。この際は、”まるでFPSのゲームをプレイしているよう”を視聴者に伝わるように、あえて意識して撮影されたのだろう。そういう製作者側の意図を感じはした。だが「1917 命をかけた伝令」はどこまでTPSゲームを意識して撮影されていたかは、映画を観ただけでは感じ取れなかった。けれども、個人的には伝令の途中で放棄された農場を訪れた主人公がミルクを飲むシーン。そこでミルクを飲むことで「”HP/疲労度/喉の乾き”が回復」といったゲーム字幕が出たような感覚があった。効果音も脳内で流れた。それが奇妙な映画体験として強く記憶に残っている。また、戦火の中心地で朽ちた市街に住んでいる赤ん坊を抱く女性と出会ったシーン。これも、このシーンはゲームにおけるサブイベントで飛ばしちゃう人も中にはいるでしょう。そんなゲーム的な感覚を感じた。映画を観ている以上に、誰かのゲームプレイ動画(しかも最速クリアプレイ)を観ている感覚もあり、その感想はこの映画のみで言えることだと感じた。中々に奇妙な映画体験だった。それと戦場の音響、様々な距離での銃撃音の重なりは映画館の音響で体感する価値があった。

⑤ジョン・F・ドノヴァンの死と生
グザヴィエ・ドラン監督との初邂逅の1作。
個人的には今年はグザヴィエ・ドラン監督映画の年であった。
私は今年、「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」の映画をきっかけにグザヴィエ・ドランの過去の監督作品を追いかけていた。アマゾンプライムビデオで配信している「胸騒ぎの恋人」「わたしはロランス」「トム・アット・ザ・ファーム」を視聴し、劇場では「マティアス&マキシム 」を鑑賞した。また、きっと今後のグザヴィエ・ドラン監督作品にも私は注目していくだろう。
グザヴィエ・ドラン監督の扱うテーマも興味深いものであるが「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」の映像に美しさは格別だった。どこがどのように美しかったか?どこのカットが印象深いか?というのは言葉にするのが難しい。一つ一つのカットが丁寧であり、画角、人物、衣装、照明、音楽が渾然となっていて、一つも欠点がない。非常に映像としての完成度が高い。表現が平凡であるが、言語化するには私の能力が足りない。

ここからは私の記憶を整理するために、物語のネタバレを含む。
以下、物語のあらすじ。
物語の冒頭は、主人公/若手俳優/ルパート・ターナーがインタビュアーにインタビューを受けるとこから始まり、その主人公/ターナーの過去を遡るシーンから始まる。
幼少期のターナーは大人気俳優/ジョン・F・ドノヴァンに憧れ、熱心に手紙を送っていた。そしてジョンとの文通関係が始まり、二人だけの秘密のやりとりが末永く行われることになる。そのような過去を巡りながら、さらにジョンが俳優業界でどのような人生を歩んできたかが映画内で語られる。それは手紙でのやりした内容を引用する文脈であり、ジョンの他人に打ち明けられない心境や心の吐露が密かな文通によって語られていた、という演出なのだろう。そしてジョンがなぜ自殺を選んでしまったか?という死の真相を読み解く物語に突入していくのである。
ジョンは人気俳優であったが、自らの性的指向である同性愛を隠して生活をしていた。当時の俳優業界ではLGBTはキャリアを積み上げる上でご法度であり、そのスキャンダルを狙う記者も多い。そんな中でジョンが同性愛者であることが発覚し、ほぼ決定していた主演の役を失ってしまう。誰にも明かせなかった彼の心境や状況が文通でターナーに伝えられる。
一方その頃、ターナーは母親にも学校の学友たちにも大人気俳優ジョン・F・ドノヴァンとの秘密の文通を隠していた。シングルマザーで育てられているターナーは元女優の母親に失望していた。また住み慣れて友人も多くいた土地からイギリス/ロンドンへの強引な引っ越しも快く思っていなかった。家庭環境がうまくいかない中、唯一の心の拠り所が文通相手のジョンであった。また、ジョンもターナーとのやりとりが心の拠り所であったに違いない。そんな折に、ひょんなことから学友や先生、母親にジョンとの文通がバレてしまい、手紙は奪われ、嘘をついているといじめられ、最終的には手紙を盗んだいじめっ子の家に不法侵入をして、警察署に送れられてしまう。
母との和解、幼いターナー少年の夢である俳優業への一歩を踏み出すことで少年の物語は上向きになっていが、一方スキャンダルで追い詰められたジョンは生と死の究極の選択を迫れれていったのである。
単に映画を観ただけでは、この映画はここまでだった。
だがしかし、私の言葉に出来ない映像への美意識の高さはどこからきているのか?が気になり、パンフレットを手にとってみたところ、この映画の解像度がさらに上がった。これもまた至高の映画体験だったと言える。

・グザヴィエ・ドラン監督は幼い頃に「タイタニック」(97年)の映画を観て、映画やカルチャーや性の目覚めを感じ、主演男優のレオナルド・デカプリオにファンレターを送ったことがある
・グザヴィエ・ドラン監督は、過去にシングルマザーの環境で育った母と子の確執がテーマとしており、母に対する失望を描いてきた
・グザヴィエ・ドラン監督作品テーマの多くは、少年時代の秘密、性の目覚め、そして同性愛がテーマとして描かれている

上記のようなことが語られていた。
この解説で「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」の解像度はぐんとあがった。グザヴィエ・ドラン監督の撮影に対する美意識の高さ、キャスティングの妙さ、そして過去作への興味が上昇した。その結果、2020年はグザヴィエ・ドラン作品群に魅了されていったといえる。
主人公ターナーの少年時代は、ジェイコブ・トレンブレイが演じた。私は「ルーム」(2015年)の映画が印象的であり、この少年の美しさやお芝居の柔和さに見惚れていた。
ジョン・F・ドノヴァン役には、キット・ハリントン。私は未視聴であるが「ゲーム・オブ・スローンズ」(2011年-19年)で大人気となった。
ターナー少年の母親/シングルマザー役には、ナタリー・ポートマン。
それぞれの俳優には意味があり、その意味を理解した俳優たちにある好演もこの映画の見どころの一つであると言える。(その意味もパンフレットで解説されている)
優れた映画には優れたパンフレットがあると、それは映画ファン冥利に尽きる、ということを改めて体感した。
また「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」のパンフレットデザイン担当は大島依提亜氏が担当していたのも記録しておく。どうやら調べると、氏は「ミッドサマー」「パターソン」「デッド・ドント・ダイ」「マティアス&マキシム 」などのポスターやパンフレットのデザインも担当しているらしい。今後はそういうところも注目していったら面白いかもしれない。(関係ないけど、今年「パターソン」を配信で視聴して、これもめちゃくちゃ良い映画だった)

⑥スキャンダル
女性たちによる権力に反抗する告発物語。
アメリカの人気TV局で実際に起きたスキャンダル事件。FOXニュースの創立者で元CEOのロジャー・エイルズのセクシャル・ハラスメントに対する女性職員たちに告発の裏側とその過程を描いた。原題は「Bombshell」らしい。その意味は、爆弾、衝撃ニュースのほか、セックスシンボルを意味する言葉となっている。
単に、女性たちが声をあげた→告発した→罪の問われた、そんな流れではない。
権力を持っているからこその権力者。映画の中のニュース番組の女性職員たちの行動などから読み取ると、ロジャー・エイルズは、職員たちのライバル関係を煽り、分断させ、孤立させ、常に争いが起こるように仕向けていたのだろう。つまり上昇志向の女性を煽ってきた。そして番組人事権や特別な裁量権を持った元CEO/ロジャー・エイルズに頼らざるを得ない環境を意図して作っていたのだろう。その邪悪さ、醜悪さはなんとも言葉にできない。女性職員を専用の執務室に一言で呼び出すことが可能である。そして特に若く無知な女性職員はそのことについて喜んでその部屋を訪れてしまう。それは他人を出し抜けるチャンスであり、人気番組の顔になるための一歩なのだから。
その部屋の中でロジャー・エイルズは「ただし、忠誠心をみせろ(But,I need to your loyal)」と若い女性に選択を迫る。賢いCEOは「忠誠心をみせろ」という言葉で女性が自ら行動をすることを予期し、期待し、屈服させていたのである。その場にて忠誠を断れば、もう人気番組にキャスティングされることはない。夢はついえてしまう。なんとも卑怯で卑劣なやり口である。劇中ではパワハラ、セクハラのオンパレードなのだが、この映画ではそれがさも日常であるかのようにフラットに描かれる。人の心を煽るような劇伴も過度な演出も少なかったように思える。この物語の本質は告発である。分断され、孤立させられた女性職員たちの声を一つ一つ集めていき、事実を集合し、結束する形で権力に逆らっていく過程を妙な緊張感で描かれていく。告発したところで組織は変わらないと感じ退社する者、告発する動きを察して元CEO側につきキャリアをあげようと考える者。様々な思惑が組織内に流れ始める中で各々が判断していくことになる。
この映画における最もヒリヒリする場面はそのような思惑が渦巻いているシーンのように感じた。
また、いわゆるニュースキャスターという職業上、”その性的なアピールをもってして女性が活躍していく場所”を推進しているTV業界の闇への目線も描いている。視聴者からは、女性が男性と同等に十分に活躍している、子供を育てながら立派な仕事している、人気もある、主婦が憧れる強い女性のイメージ、カリスマ性も知性もあり世の中に対して自らの意見を発信できる女性。TV業界ではきっとこのような女性像を意識して提供しているだろうし、彼女たちもそれを望んでいるように思える。そこで競争が激化することで「スキャンダル」のようなパワハラ・セクハラが発生しやすい環境になってしまう。権力者が男性である以上、このようなことが今後の女性活躍を推進している時代でも起こりうるのだろう。そのように感じてしまうし、それは止められないように思える。
それはさておき、そんな悲惨なTV業界で強く生きようとしている女性たちの美しさ、美しく画面に映し出され方が過剰ではなく、必要十分で。その派手さを出さないという意識も画面には反映されているように思えた。TV業界と同じく、映画業界も同じような構造になっているといえる。女優たちの美しさ、派手さ、画面映えのさじ加減はある程度は考えられた作品であり、そのため派手さが過剰でない点もこの映画の表現だったように感じた。

⑦コリーニ事件
ドイツの小説を映画化した社会派法廷サスペンス。
原作小説は刑事事件の弁護士。ドイツの歴史、法律の改定の要素を軸にして、法廷という舞台で物語の謎が解き明かされていく。
以下、Wikipediaよりストーリーのあらすじを抜粋。
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新米弁護士のカスパー・ライネンは、30年以上もの間、ドイツで模範的な市民として働いてきた67歳のイタリア人ファブリツィオ・コリーニが、経済界の大物を殺害した事件の裁判で彼の国選弁護人に任命される。その事件の被害者は、カスパーの少年時代の恩人ハンス・マイヤーだった。
そして裁判が始まるが、コリーニは頑なに動機を語ろうとしない。さらに遺族側には、カスパーが大学時代に刑法を教わった伝説的な刑事事件弁護士のリヒャルト・マッティンガーがつく。
こうした圧倒的に不利な状況の中でカスパーは弁護に苦しむ。やがて裁判が進むうちに、ハンス・マイヤーの過去やドイツ史上最大の司法スキャンダル、さらにドイツ刑法の大きな闇が浮かび上がってくる。
===
主人公の恩人が殺害された事件を扱い、その犯人の弁護人を任せられるという境遇。頑なに動機を語ろうとしない67歳のイタリア人。そして遺族側の弁護士には、これも大学時代の敏腕の恩師が担当することになる。これらの事情が物語を複雑化させていくが、なぜ恩人のハンス・マイヤーが殺されなければならなかったのか?その理由は一体何なのか?を追っていくうちに、過去の因縁と現在の法律が徐々に表面化されていくのである。
その真相はドイツの歴史、法改正の穴に鋭く刺さっていく。流石、刑事事件担当の弁護士が原作小説を執筆しているだけあって、その専門性のある視点に格別の味わいがある。

⑧ミッドサマー
アメリカ合衆国・スウェーデン合作のホラー映画。
原題は、スウェーデン語で夏至祭(ミィドソンマル)を意味する。
今年最も話題になったメジャーマイナー映画だったといえる。
もしくは、A24配給映画史上、最も話題となった映画になったといえる。
なぜこの映画が話題となったのか?というのは正直私には理解できない。
「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」や本作「ミッドサマー」のポスター等をデザインした大島依提亜氏はデザイン界隈では注目の人物となっており、そのデザイン界隈の女性たちが映画館に足を運んできた、といったようなことくらいしか想像できない。

それはさておき、物語のあらすじを簡単に整理しておく。
精神疾患があり、幼い頃に妹と両親を同時に亡くした心理学専攻の女子大生/ダニー。しかも妹が一家無理心中を起こしていたといった壮絶な過去を持っている。そのダニーが両親の代わりに依存しているダニーの恋人/文化人類学専攻/クリスチャン。クリスチャンには学友にスェーデンからの留学生がおり、その故郷へ旅行にしに行く計画をしていた。紆余曲折があってダニー、クリスチャンを含む5人でその留学生の故郷/ホルガ村を訪れるのである。また、クリスチャンは卒業論文のテーマに苦心していたおり、心のなかでは、このスエーデンのホルガ村と夏至祭を文化人類学における卒業論文のテーマとすることも考えていたのだろう。
ホルガ村は独自の文化を持っており、自然崇拝、精霊信仰的な独自の宗教感とそれに基づく文化感が映画内で飛び出してくる。一般の常識では理解できないものである。だが、この村では長年続く文化であり、それを不安げに見守る学生たちと視聴者たちの心境は次第に映画内でシンクロしていくのである。
そして衝撃の死生観にシーンに突入してく。村人は全員72歳になると、所定の崖から投身自殺をする文化がある。それが夏至祭の儀式の一つであり、それを目撃することで、村外部の人たちも、その人達にシンクロした視聴者たちも目を背けたくなるようなその光景に脳が混乱するのである。この心理的混乱の中で、さらに外部の人物たちが様々問題を起こしていく。外部の人間同士の関係や村人との関係に問題として噴出していき、それと並行して夏至祭の儀式が執り行われていく。この過程を視聴者たちは何もできずに、その一部始終を目撃することになる。中にはこの村を脱出を試みる人も現れるが、クリスチャンは卒業論文という目標がある以上、この村に残る選択をする。そしてクリスチャンはこの村の禁忌の秘密に触れようと無茶な行動に出てしまう。
一方、ダニーは夏至祭の儀式の中で行われる村の女性総出のメイポール・ダンスの大会に参加させらる。そしてそこで最後までダンスを踊り続け、村の今年のクイーンに選出されることになる。
そしてラストシーン。この村のクイーンとなり、期せずして狂気の文化の中心となってしまったダニー。そして禁忌を犯してしまった部外者であるクリスチャン。この二人の関係とダニーの選択がこの物語の終焉になる。

これだけ話題になった映画のため、各種のこの物語が示唆する点は調べればいくらでもでてくる。その説明は割愛した上で、個人的な感想を整理しておく。

第一印象として、この映画が白昼堂々と行われるホラー映画として一級品であるということ。オカルト映画、謎の村、謎の儀式、謎の文化、禁忌を犯した外部の人間の悲惨な末路。これらは大抵の場合には夜に執り行われる。スウェーデンの白昼夢という自然現象を逆手に取って、謎のオカルト文化を文字通り、白昼堂々と画面に演出してくる。この発想は素晴らしい。これに尽きる。そして謎の文化に対する美的センスや衣装の巧みさ。既存の映画の夜のオカルトアイテムは、暗い画面に一瞬だけ映るなどで視聴者に提供される。「ミッドサマー」は全てが白昼のもとにされされ、異文化の全貌が画面に表現されることになる。だが、その美的センスの良さは圧巻で、視聴者への興味と不安を倍増させるものに貢献している。
少し話が変わるが、過去にA24配給映画で「ウィッチ(原題:The Witch)」(2015)を観た。あらすじは、17世紀のニューイングランドを舞台に魔女への恐怖によって崩壊していく敬虔なキリスト教徒の家族を描いている。ざっくり言えば、魔女がこの家族をターゲットにし、家族を狂気へと導いていく映画である。この映画では、真夜中で事件が発生していく。だが、その陰影の巧みさや役者の美しさ、衣装と画面づくりの美的センスなどが絶品であり、その美的センスは視聴者の目や心を奪う仕上がりを魅せている。
個人的には真夜中の「ウィッチ」に対極の映画として白昼の「ミッドサマー」が美的センスに優れたホラー映画だと思った。そのどちらもオカルト現象/文化によって、狂気の中に叩き落される人たち/視聴者たちを描いている点で酷似していると感じた。
つまりホラーが「白昼で行われていること」「美的センスが鋭いこと」がこの映画の特徴であり、それこそが私が印象深い点だと感じたのである。
もちろん、人間心理的な側面で言えば、共依存からの脱却、自由への喜びというテーマも趣深い。また主人公たちが学生であり、知的な側面をもってこのオカルト文化に挑戦していくという点も優れていると思う。視聴者たちもある程度の知性が求められてもいるし、精神疾患を持って情緒不安定な視聴者も想定して制作されている。情緒不安定で他人に依存している視聴者はダニーに感情移入しやすいだろう。そしてある程度の知性や知的好奇心があれば、クリスチャンに感情移入しやすいだろう。それを男女で明確に分断しているのは監督の趣味の悪さ/良さを感じる。だが、そのような2つの視線を意識的に描いている点においては、優れた娯楽ホラー映画であるともいえるだろう。

⑨ディヴァイン・フューリー/使者
韓国キリスト教悪魔お祓いオカルトボクシング映画。
韓国映画、キリスト教、悪魔祓い、オカルト、総合格闘技。すごい組み合わせなのだけれど、オカルト映画としては一定の愉快さはあった。
特に気合をいれて視聴するというよりも、まー肩の力を抜いて楽しく視聴できる。
ストーリーについては公式HPから抜粋しておく。
===
総合格闘技の若き世界チャンピオン・ヨンフ。彼は幼少期に事故により父を亡くし、神への信仰を失ったまま成長した。ある日、ヨンフは右手に見覚えのない傷ができていることに気がつく。彼は傷について調べるうち、何かに導かれるかのようにバチカンから派遣されたエクソシストのアン神父に出会い、自身に正義の力が隠されていることを知る。一方、街にはびこる悪が密かに彼らの前に迫っていた…。
===
・総合格闘技使いのいい男が正義の力に目覚める
・ひょんなことからバチカンから派遣された悪魔祓いの神父出会う
・街にはびこる悪は歓楽街で怪しいクラブを経営する悪魔崇拝者だった
十数年前の日本の映画やドラマでありそうな設定でその古臭さは親しみ深い。いわゆる、イケメン俳優の肉体美を鑑賞しながら、バーやホストクラブを経営している悪のイケメンと対峙する。そこにオカルト要素/悪魔祓いを組み合わせつつ、夜の街、美女、イケメン、クラブミュージック、麻薬など若者たちに刺激的な要素で間を埋めていくことで、若者たちの興味・注目を集めていく。そんな映画文脈の香りもこの映画に感じるのである。(別にこの映画では美女などは出てこないのではあるが、そのような香りは感じることができる)
だが、この映画ではヒューマンドラマ部分も悪魔憑きとのやり取りもしっかりしている。亡くした父の面影をアン神父に見出していく展開。悪魔憑きとなった人間を祓う際の緊張感あるやりとり。そして姑息でずる賢い悪魔の手腕。個人的に一つ物足りない点があったとすれば、総合格闘技の若き世界チャンピオンという設定が、格闘技シーンにそれほど生かされていなかった点である。確かに悪魔との格闘シーンはあるにはあるのだが、その格闘シーンにはそれほど精彩さは感じられなかった。
それはそれとして、オカルト映画としての親しみ深さと愉快さは評価しても良いだろう。また、調べたところによると韓国でのキリスト教者の割合は27.6%もあるらしい。日本は1.5%だとされているので、韓国ではもっとキリスト教は親しみ深く、題材としてはポピュラーなのかもしれない。日本ではエクソシスト格闘技映画なんてやったらニッチなジャンルのように思えるが、韓国市場ではあるあるなのかもしれない。そのへんの感覚はよくわからないが、個人的にはこのニッチな設定は愉快であった。

⑩ようこそ映画音響の世界へ
映画視聴体験をアップグレードさせてくれたドキュメンタリー映画。
ハリウッドの映画音響の歴史やその各要素の重要性スポットをあてたドキュメンタリー映画。
「スター・ウォーズ」「地獄の黙示録」「ジュラシック・パーク」など有名なハリウッド映画の”映画音響”を担当したレジェンドたちのインタビューも含みつつ、過去のハリウッド映画の映像をはさみ、映画音響の歴史と要素を解説していく。

映画音響は以下の7つの要素で構成される。
■Voice(声)
 ①Production recording(ライブ録音)
  現場で録音する音、主に俳優のセリフや環境音など
 ②Dialogue Editing(ダイアログ編集)
  デジタル編集によって不要なノイズの除去や重要な音声の強調による効果
 ③ADR(アフレコ)
  現場で撮影して映像に対して、後からアフレコを行い最適化する
■Sound Ettects(効果音)
 ④SFX(特殊効果音)
  特殊撮影技術の一つ。実際にはない想像上の音を作り出す
 ⑤Foley(フォーリー)
  SE素材をお手製で作った音。
  足音、衣擦れ、風切り音など映像に合わせて様々な道具を使い、表現する
 ⑥Ambience(環境音)
  水、風、街での人々の声などを実際の現地で収録したものを集め映画に使用する
■Music(音楽)
 ⑦Music(劇伴)
  映画内で流れる各シーンに適した専用の映画音楽
  
もちろん映画の音響はすべて同時に録音・収録していないことくらいは知っている。そして、実録、アフレコ、ノイズ除去、SE、環境音、劇伴などの要素があり、それぞれを編集作業でつなぎ合わせていることは知っていた。むしろそれは私自身経験があることである。しかしながら、この映画内では、それぞれがどのような歴史や必要性から生まれて、どのように既存の映画に恩恵をもたらしてきたか?というのが語られていくのである。映画はもちろん画面や役者の芝居だけで表現するだけではなく、音響効果もその映像表現の一部でもあり、主役でもある。そのことを改めて意識させられたのがこの映画である。またそれぞれにはそれぞれの技術者や専門家がおり、その人達の存在に焦点を当てているのもよい。特に私は映画館の音響で映画を観ることが好きであり、そこでしか味わえいない映画体験を数々してきた。また、IMAXもまた映像の美しさ以上に音響装置の素晴らしさを体感している。この映画を発端にして、映画音響表現への注目度が私自身の中で変革され、映画音響表現の素晴らしい映画をキャッチアップできるようになったといえる。
「ようこそ映画音響の世界へ」鑑賞以後、その映画音響の素晴らしさに気づけたアニメ映画をここで2作品をあげておく。
○劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン
 まず冒頭の港町での演説シーンが鮮烈な音響で表現されていた。
 港町特有の波と風の音。そして街で開催されているお祭の旗がはためく音や海鳥の鳴き声。街の喧騒。それぞれが混在となっていて、極上の映画音響が表現されていた。
 それとラスト周辺の雨の中でのシーン。雨の音、その中で走る靴音、そして視聴者の感情を揺さぶる効果的な劇伴。この強弱のバランスの良さは一品で、絶妙だった。
 京都アニメーションは”画が素晴らしい"、"作画表現がすごい”などと称賛されることが多いだろう。だが、それに劣らず、音響表現の奥深さや繊細さも極上であることは常に評価点として言及し続けていかなければならないだろう。
 
○どうにかなる日々
 特にSound Ettectsの表現が挑戦的で素晴らしかった。
 各場面でのSound Ettectsへこだわりと、Sound Ettectsで表現できることを最大限に活用しようとする監督や制作陣の意欲をビンビンに感じられた作品であった。この作品を劇場で鑑賞できたことは、人生の喜びだったといえる。そしてそれを語り継いでいきたい程度には、この映画の映画音響は他の追随を許さない素晴らしさがあったと感じた。
 その理由は2点ある。
 1点目は各画面に採用されているSEは決して繰り返しがないという点。例えば、真夏の昼間の場面を表現するためのセミの声は、既存の作品でも多く採用されてきた。「どうにかなる日々」は単なる「ミンミンミン」というセミの声を永遠に同じリズムで繰り返すことをしていない。そう繰り返しがない音へのこだわりを意識的にしていたのだろう。また場面転換のたびにセミの声もバリエーションも変えて、”場面転換”の表現をその音でしていた。そのような繊細な音へのこだわりが全ての場面で行われていたのである。例えば、登場人物たちの靴音へのこだわりは始終感じることができる。
 2点目。SEにおける時間経過表現への配慮。例えば、朝食を作るためにフライパンで食材を熱するシーン。ここでは単に「ジュウジュウ」といった食材が焼ける音を繰り返していない。繰り返さないだけではなく、食材に徐々に熱が入れられていく過程が表現される。焼けて、油がはねて、そして食材から水分が抜けていく。この過程を音で表現している。「どうにかなる日々」の画面内での時間経過は実際の時間経過と同じような感覚で過ぎていく。映画内で流れる時間に”嘘”を排除し、登場人物たちの”日常の時間”を意識的に表現している、といえるだろう。そのため、音にも同等な”時間経過”の特徴を付与している。この”音”という表現に”時間経過”を付与する表現はまさに革命的であり、物語への没入感を増強する要素となっていた。私の中ではこの表現はエポックメイキングな音響表現であると感じたのである。
また、声優たちのお芝居もその”日常の時間”に合わせたテンポであり、より自然な日常を表現するのに大きく貢献していた。劇伴の入り方や強弱も極上であった。ADR、SFX、Foley、Ambience、Musicと各要素への細部のこだわりは全て「どうにかなる日々」の”日常の時間”を際立たせた。この統一感への情熱は他に類を見ない作品であった。
 
「ライブ録音」という要素がない分、アニメ映画は実写映画よりも如実に音響の要素が重要となってくるのだろう。そういうところも含めて、この「ようこそ映画音響の世界へ」は私の映画人生をより豊かなものにしてくれた映画だといえる。

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以下、個人的な感想メモ。
今年になって過去の「イップマン」シリーズを観て、劇場で「イップマン完結」を観た。「フォードvsフェラーリ」「1917」「スキャンダル」「コリー二事件」「屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ」「リチャードジュエル」「パヴァロッティ 太陽のテノール」「博士と狂人」など現実にある題材やテーマを元にした映画への興味は年々増えてきた気がする。「カラー・アウト・オブ・スペース 遭遇」の宇宙的恐怖の映像表現は趣深いものがあった。「狂武蔵」の70分以上におよぶワンシーン・ワンカット撮影、400人斬りシーンなどを盛り込んだアクション時代劇は狂気そのものだった。「ミッドナイトスワン」のなんとも言えない感じ。日本映画/小説の邪悪なものを感じたりもした。つまらないわけではなかったが。「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」は撮影過程のドラマ性もあいまった趣深さがあった。「ヘヴィ・トリップ/俺たち崖っぷち北欧メタル!」みたいな映画は毎年観たい。

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