2021年映画TOP10

■2021年映画TOP10

■はじめに
2021年に鑑賞した映画の個人的なメモです。
2014年は35本を観賞。2015年は41本を観賞。2016年は62本を観賞。
2017年は82本を鑑賞。2018年は61本を鑑賞。2019年は74本を鑑賞。
2020年は63本を鑑賞。
2021年は90本を鑑賞。
※全て劇場で観た映画です。家で観た映画はカウントしてません。

2021年は過去最高本数になってしまった。感染拡大の影響、日々のストレス、有給休暇消化ノルマといった要因が重なり、外出した日は可能な限り多くの映画を観て、QOLをあげようという心持ちがあったのだろう。そして感染状況が落ち着いてきたらは、ずっと公開を延期していた映画が次々に上映されたりして、そもそも映画の上映自体が渋滞していた、というのも一つの要因だろう。それ故に、視聴本数も多くなったと考察できる。
特に、アニメ映画は例年以上によく観たと思う。数を沢山観たが故に、感想というか自分の中であらすじを整理しながら、あのシーンが印象的だった、みたいな脳内整理をしていく。
そのためネタバレありきの感想メモになることをご了承頂きたい。

■2021年映画TOP10一覧
①ジェントルメン
②ラストナイト・イン・ソーホー
③コレクティブ 国家の嘘
④キャッシュトラック
⑤マリグナント 狂暴な悪夢
⑥死霊館 悪魔のせいなら、無罪。
⑦007 ノー・タイム・トゥ・ダイ
⑧クーリエ 最高機密の運び屋
⑨最後の決闘裁判
⑩音響ハウス Melody-Go-Round

①ジェントルメン
麻薬王引退をテーマにした犯罪映画。
私が観たい最高のクライム映画といった内容と、独特なシーン構成で満足してしまった。麻薬ビジネスを引退し、そのビジネスをごっそり売却しようとしていた男がいた。その麻薬王引退の噂をききつけた裏社会の人間たちの暗躍映画としては傑作の部類だった。なんてロマンあふれる設定なのだろう。舞台はイギリス。麻薬ビジネスをごっそり引き継ごうとするアメリカの大富豪に加えて、麻薬売買の大罪に加担している没落地方貴族、権力者の醜聞を集めるタブロイド紙の新聞記者、中国マフィアたちも麻薬ビジネス引継に横槍をいれてきて、その人物相関図は複雑になってゆく。
街のチンピラたちは麻薬に溺れ、ボクシングジムのチンピラたちはその時の快楽のために暴力をふるう。
そしてその数々の厄介な登場人物たちの行動に巻き込まれる、麻薬王の側近。
時系列や登場人物の視点、そのシーン構成は独特。映画が進む度に、物語の全体像や登場人物たちの関連図や裏工作が見えてくる。
監督・ガイ・リッチー×脚本・ガイ・リッチー×原案・ガイ・リッチー×製作・ガイ・リッチー。
私にとっては「コードネーム U.N.C.L.E.」で印象深い監督であった。そしてジェントルメンの映画でようやく彼の映画の特徴が身体に馴染んできたようにも思える。また、時系列の入れ替えや複数登場人物によるシーン構成の連続から、物語の全体像をだんだんと開示していく手法においては、個人的にめちゃ好みの演出をしている。複数の登場人物の視点から、ぼやけた全体像が整っていくのを上手く演出するのは技術がいるのだが、それを華麗に描けていると思えた。
物語は、麻薬王という立場の犯罪者だけではなく、没落貴族、中国マフィアという別の権力や文脈を持つ力を持つ者たちもいる。麻薬王や貴族のスキャンダルを追うタブロイド紙記者もある種の力を持っている。そして街のチンピラたちや格闘技ジムのゴロツキたちも直接的な暴力の力を持っている。
だが、彼らは権力や金を持つ者たちに対しては無力で、弱い立場となる。それぞれの登場人物が、自分の強みを発揮できる人間関係と弱みを利用される人間関係とが複雑に絡められている点がこの映画の美徳であった。この犯罪映画特有の金と暴力と権力の混沌さが、私好みである。

ネタバレを含むが、登場人物たちの関係を整理すると以下の関係性が成立しているように思える。
・麻薬王は、妻との生活を大切にするために、麻薬ビジネスの引退/引継を考えている
 (強み=麻薬ビジネスのビジネススキーム、弱み=妻)
・麻薬王のビジネスを引き継ぎたいアメリカの大富豪は、可能な限り安くビジネスを引き継ぎたい
 (強み=お金/悪巧みの知恵、弱み=お金)
・没落貴族は、お金がないため、麻薬王に麻薬栽培の場所を提供している
 そして娘が麻薬中毒者になって家に帰ってこない問題を抱えている
 (強み=貴族の権力/地位、弱み=お金、犯罪の共犯、娘のスキャンダル)
・タブロイド紙の記者は、醜聞を集め、犯罪者たちからお金を受け取るために暗躍する
 (強み=権力者たちの醜聞、弱み=お金)
・麻薬王の側近は、麻薬王、没落貴族、記者などから様々な難題を依頼される
 (強み=麻薬王の側近という地位と暴力性、弱み=権力者、麻薬王のスキャンダル)
・中国マフィアは、英国での麻薬ビジネス市場がほしく、別の英国貴族の後ろ盾を得ている
 (強み=強引な交渉力、弱み=英国でケツモチしている権力者、より強い悪を持つ者)
・街のチンピラたちは麻薬に溺れ、没落貴族の娘と麻薬中毒者になっている
 (強み=貴族の娘、弱み=権力、暴力)
・格闘技ジムのゴロツキたちは、権力者たちの言いなりになり、暴走し、麻薬栽培施設を襲撃する
 (強み=無謀さ、自身の肉体、数の暴力、弱み=権力、更に強い暴力、麻薬、お金)

このよう暴力、権力、お金、麻薬でつながった人物たちが、それぞれの思惑で行動していくのをみていると、人間の強さと弱さを同時にみることになり、その滑稽さと結末が極めて爽快である。暴力や権力で弱者をいたぶる者たちは、さらなる暴力によって蹂躙される。犯罪映画のそうした美徳を体現しているのも素晴らしかった。まるでジェイムズ・エルロイの小説かのような複数視点の構成に加えて、麻薬と権力と暴力と大金の坩堝に振り回される哀れな人間たちの図が最高にクールな映画であったともいえる。

②ラストナイト・イン・ソーホー
世にも珍しい美しすぎる傑作オカルト映画。

私は自称、エドガー・ライト監督ファンである。「ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ベイビー・ドライバー」のカメラ長回しによる演出と音楽との音ハメ演出。エドガー・ライト映画を語るうえで音楽は欠かせないだろう。そして「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-」や「ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!」などの蓋を開けてみれば超絶なオカルト映画。
本作は、オカルト映画センスを映画後半でぶち上げていく脚本力も特徴的であり、唯一無二感がある。
つまり音ハメ×オカルトというのは彼の得手であるし、観客もそれらの要素を望んでいるのだろう。
そういった「もう既に築き上げた実績に対する期待値」はあったと思う。その期待値を大きく上回ったのがラストナイト・イン・ソーホーであるといえる。エドガー・ライト監督作品は、主にボンクラな男たちのボンクラ日常という作風が多かった。「ベイビー・ドライバー」でそこから外れて、過去にトラウマを持つ裏稼業を請け負うヒーローを描いた。そして本作は、いままで男性目線で描いていた脚本から脱却し、主に二人の女性をメインに描いたサイコロジカルなホラーオカルト映画であった。

以下、あらすじや印象深いポイントを整理していく。
母の幽霊の声が聞こえ、精神的な不安定さを持つ田舎育ちのエロイーズ・ターナー(エリー)。エリーは祖母との生活が長く、その影響を受けて、60年代のファッションや音楽が好き。ファッションデザイナーを目指して、ロンドンに単身で上京することになる。そしてそのロンドンの下宿部屋のベッドで眠ると、夢の中で1960年代の華の都ロンドンの街の中に迷い込んでしまう。

ここで本作二人目の主人公/サンディが登場する。
サンディは華やかなロンドンの街で歌手に憧れ、歌手を目指している娘。サンディはダンスフロアで出会った若い歌手たちを取りまとめている男/ジャックに出会う。出会った瞬間に恋に落ち、仕事の斡旋をされつつも、オーディションを受けるように指示される。まるで田舎娘が憧れる都会でのロマンチックな恋愛を夢でみたエリーは、その夢の中の内容に次第に惹き込まれていき、サンディと気持ちを同調させていき、ジャックに恋をしていくことになる。
ストーリーの導入としても奇妙ではあるが、映画の展開は目まぐるしく移り変わっていく。だが、それは都会の時間の流れと同じようでもある。毎日の新鮮な出来事、高揚感、そして沸き立つ恋心。夢の中でみた色づいて見えた都会のロンドンは、今もロンドンの街に息づいており、夢の中と同じ場所、同じ景色が広がっている。
そのエリーとサンディの視点の切り替え、映像の融合、2人の女性が1人の男に恋をしていく過程の映像的な美しさは圧巻である。この都会で生きている意味というのをエリーはその現実の生活で感じ取り、実感し、前向きな行動を起こしていく。視聴者たちもエリーの気持ちに吸い込まれていき、ラブロマンスの世界へ突入していくのである。
このような映像的に迫力のある演出も相まって、視聴者たちへの引き込み方が本作の前半の特徴であり、監督の手腕によるものだろう。最高。そして60年代の音楽、レコード、音ハメによるダンスシーンなどを巧みに利用して、更に視聴者たちの心を煽っていく。
「ベイビー・ドライバー」では数々のmp3プレイヤーがでてきて、当時の音楽再生環境を想起させた小道具に心をくすぐられた。だが、今回はレコード盤とレコード再生機が登場し、その音楽再生媒体の差異/小道具の差異にグッときた。こういうやり口も、エドガー・ライト監督の得手であり、奇妙な快感がある。

だが、物語は単なるラブロマンスで終わるわけがなく、1960年代のロンドンで歌手を夢見る少女に訪れるのは、当時の過酷な現実である。サンディが恋をしたジャックは、サンディのような娘たちに次々に声をかけ、「おれが口を利いたら、スター歌手にしてあげる」といった甘い言葉で誘惑し、ナイトクラブを訪れる金持ちたちの性の相手をさせるポン引きだったことが判明する。つまり、ジャックは夢見がちな少女に声をかけながら売春婦候補を見つけては歌手への夢やオーディションを餌にして、「売れるためには仕方ないこと」「みんなやっていること」「お前だけが特別ではない」ことを告げてくる。売春斡旋業者が出てくると、ラブロマンス映画は途端に、犯罪映画やミステリの色が濃くなっていく。だが、惚れた弱みと夢を諦めきれないサンディは次第に売春の沼にはまっていくのである。
そんなサンディの都会での残酷な現実を夢で見たエリーは、次第に精神が壊れていく。
そして、エリーの下宿の部屋は、まさにサンディが夜な夜な男たちを相手にしてきた部屋であることがわかっていく。エリーは夢の中で、なんどもなんども男たちに襲われる。それが繰り返し起こる。まるで無限の地獄にいるかのような感覚を持ったエリーは、もうこの宿で眠ることを身体と精神が拒否し始める。そんな中、夢の中で衝撃的な事件を目撃することになる。
痴情のもつれの延長で、サンディがジャックにナイフで斬られていく事件を目撃することになる。
サンディの死。
その衝撃的なシーンを目撃したエリーはパニックを起こす。もともと幽霊をみるという第六感めいた能力がある彼女は、夢と現実とが区別がつかなくなっていくのである。この設定の活かし方も最高にクールである。エリーが下宿部屋でみる、サンディの性を貪る数々の男たちの残像。そして、街ゆく人々も売春目的で近づく男たち/幽霊のように映っていったり、エリーがサンディに憧れ、サンディの格好を真似たら声をかけてきた男性にも恐怖を覚え、錯乱状態に陥っていく。精神的に不安定になるエリーではあるが、亡くなってしまったサンディには同情の念を抱いていたため、この殺人事件の解明に動き出す。

ここからホラー・サスペンス映画から犯罪捜査映画にシフトしていく。
もちろん、弱者が恐怖へ立ち向かっていく姿はホラー映画の文脈も含んでいるため、本作は様々なジャンルの文脈を踏みながら、視聴者たちをあの手この手で映画の世界へ引き込んでいく。しかも時代を超えた殺人事件の捜査である。ドライヴ感が半端ない。古いロンドンを良く知っていそうな老婆である下宿先のオーナーに「この部屋で、殺人事件が起きたでしょ。サンディという女性が死んだはずだ!」とサンディは訴えるが、
「この栄華を誇るロンドンの街で、人が死んでいない部屋なんてない」
みたいに下宿先のオーナーに返され、都会の現実を思い知らされる。
私はこのシーンがとても印象的に映った。都会での人の死の多さ、それが日常的に行われていること。消費と浪費。私自身の生活でも意識していなかったけれど、確かに人々が多く集まる場所には人が死んでいない場所などないのかも知れない。事故物件と心霊現象はホラー要素の文脈であり、それと都会の実生活という現実(消費/浪費)を融合してきた脚本は見事である。
そんなサイコロジカルな展開に加えて、こういう細かい設定とそれをダイレクトに視聴者たちに伝える映像の巧みさに抜群のセンスを感じる。

そしてこの映画の最終部分/仕掛けられた大オチに突入してく。
エリーのことをなにかと気にかけてくれた学校の同級生のジョンと一緒に、事件を捜査していく。定番の行動として、図書館で過去の新聞を読み漁るというシーケンスもよい。都会には沢山の謎の死が多いという事実は、都会での消費と浪費をさらに印象づけていく。だが、エリーの精神は数々の殺人事件を観ていくことで不安定になる一方で、その被害妄想などから、クラスメイトの女性に刃物を向けてしまう。とことん精神が追い込まれてしまったエリーは終いには、下宿部屋を出て、ファッションデザイナーになる夢をも捨てて、田舎に帰る決意をする。お金のないエリーは下宿先のオーナーになんとか先払いしていた家賃を返してもらうように交渉するが、そこで衝撃の真実がわかることになる。

エリーが夢で見たサンディはジャンクに殺されたのではなく、サンディがジャックを殺したこと。
そして、そのジャックを殺したサンディは、この下宿のオーナーの老婆であったこと。
この老婆/サンディは売春を持ちかける金持ちたちのことを嫌悪し、下宿部屋では、その男たちを殺害し続けていた事実が開示される。エリーが下宿部屋でみていた、サンディの性を貪る数々の男たちの残像は、サンディに殺された男たちの怨念であり、サンディへの恨みを持った幽霊たちであった。本当にこのシーンがエドガー・ライト監督の最も卓越されたオカルト表現/オカルトへの愛である、と感じた。エリーが幽霊をみるという能力と、まるでゾンビのようにサンディへの恨みを抱える男の幽霊たちの映像がこのシーンで完成した。だが、ここからの展開も個人的には印象深く映った。
エリーはサンディが男たちを殺し続けていた事実を知ったとしても、サンディへの同情の気持ちもあり、その感情の狭間にいた。しかしながら、エリーは自分もその男たちと同じように殺されそうな状況になったとしても、サンディの命は奪いたくない、という感情のほうが強くなる。サンディが生き抜いてきた1960年代の女性の現実を体験しているからこそ、自らの命が脅かされたとしても、サンディの心に寄り添う行動をしようとする。
単なるホラー映画、サイコパス映画であれば、大量殺人事件を起こした犯人のが非業の死を終えることで、視聴者の気持ちもスッキリして、円満解決となる。化け物たちが壮絶に主人公にやられるシーン、みんな好きだよね。
だが、そうではない。それはこの映画の美徳の一つであると思える。クライマックスに変化球をいれる遊び心がある。下宿は火事になり、殺人事件が起きていた部屋も火の手が回っていく。ゾンビ男/亡霊になった男たちは「あいつを殺せ!」と幽霊がみえるエリーに訴えかけてく。その怨念が幽霊たちをあの部屋に留まらせた理由であり、エリーが日常で目撃した残像の姿なのである。
しかしながら、エリーは1960年代の男性優位な社会に反抗するかのように、夢を見ながら都会にやってきた娘が騙され、利用される社会に抵抗するかのように、それらの現実に苦しんだサンディを救おうという思いを強く示すのである。まさに、ここで夢と現実が奇妙に交差している。だが、エリーのそうした思いも届かず、サンディは自らをあの部屋の中央に進んでいき、炎にのみ込まれていく。

ラブロマンス映画からホラー、サスペンス、ミステリ、犯罪映画の文脈を巧みにつなぎ合わせて、最終的にはエドガー・ライト監督特有のオカルト映画の要素を大オチで発揮しつつも、田舎娘の都会生活を通した成長譚を描ききる。その構造が大変に素晴らしい映画だった。
加えて、音楽との映像の融合、登場人物たちの心理の動き、映像美がスマートに映画表現として傑作であり、どの部分を切り取ってみても、卓越されたセンスと技術を感じる映画であるといえる。

③コレクティブ 国家の嘘
ルーマニアの公的医療の不正、汚職、悪政を暴くドキュメンタリー映画。

きっとどの国でも汚職や不正があって、それは医療などの公的な分野で起こっているのだろう。それではその不正はどのように暴かれて、不正を隠す側はどのような対応をし、その後、悪政が蔓延る世界はどうなるのか。この映画をみていると、その不正発覚からの一連の出来事と、その今がひどく現実的なこととして理解できるようになる。そして、ドキュメンタリー映画として秀逸なのは、この映画が2つの視点で描かれていることである。この多様な目線があることにより、現実の形が色々な角度から覗ける。悪政の大きさやその形状、醜悪さが、いびつさ、そしてその絶望的な現実が鮮明になっていく。

本映画の映画の背景は以下の通り。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
"2015年10月、ルーマニアのブカレストのナイトクラブ「コレクティブ」で火災が発生し、27人が死亡、180人が負傷した。その後数ヶ月で公立病院で適切な治療を受けられなかった負傷者37人がさらに亡くなった。これを原因とする大規模な抗議運動により当時の与党であった社会民主党は政権から退陣する。"

前半の視点。スポーツ紙の編集長。
「コレクティブ」というナイトクラブの火災が発生してから数カ月後経過してもその負傷者たちは相次いで亡くなっていった。この奇妙な事件を不審に思い、調査を進めていたスポーツ紙の編集長の動きを本映画の前半で追っていくことになる。この大きな事件を暴くきっかけとなったのが、病院関係者の内部告発によるものだった。ナイトクラブの火災で負傷を追った若者たちは、まともな医療を受けられず、次々と命を落としていった。その若者たちは重度の火傷をおい、その火傷から菌が感染し、感染症を引き起こして死亡していた。
火傷の治療においては専門的な知識が必要で、かつ、二次被害となる感染症を防ぐことは最重要な医療行為であることは想像できる。
内部告発者の声で、専門的な医療がまるで機能していないこと、その輪郭がみえてくる。火傷患者は誰一人治療されずに、感染症で死亡している実情が医師の口から語れるのである。
そして、それ以上に衝撃的な事実がわかってくる。
『病院で様々な場面で利用される消毒液の濃度が、表示内容よりも薄められている』
ここから事件はさらに大きな波となっていく。編集長が消毒液を生産している製薬会社の社長に突撃取材をかけるが、まるで取り合ってくれない。そしてこの製薬会社の消毒液は、国内の様々な病院で利用されており、その影響度は計り知れないこともわかってくる。製薬会社と病院の医院長/理事長たちの関係も明るみになっていき、それを編集長が次々と暴いていく。だが、そんな取材を続けている中で、製薬会社の社長は謎の自動車事故で死亡して、消毒液濃度と数値の問題は暗礁に乗り上げてしまうのである。
これがこの世界の真実であり、ルーマニアという国で起こったことであることを改めて意識せざるを得ない。
それと並行して、市民たちはこの事実に怒り狂い、大規模な抗議運動を行っていく。
説明を迫られた当時与党であった社会民主党の保健大臣は、
「火傷治療の医療体制はしっかりしている。安全である。詳細は調査中である」
といった内容しか言葉にせず、具体的な説明もしないままに、誠実な対応とは言えない回答ばかりすることになる。この不誠実な対応をする政府とのやりとりに、暗澹たる気持ちになる。
ついには、社会民主党は政権から退陣し、暫定政権が発足し、新しい保険大臣が誕生することになる。

後半の視点。与党政権退陣後の、新保健大臣。
このドキュメンタリー映画の素晴らしいところに、暫定政権側にアプローチし、この映画の内容を説明したうえで、直接大臣室までカメラを潜入させたところである。最も近い視点で新保健大臣とこの事件を映し出すことで、ジャーナリズムと政治の両面でこの事件を捉えることができる。暫定政権とはいえ、このドキュメンタリー映画の撮影の許可を決断をしたひとも、この映画同様に評価するべきだと思える。
本作のパンフレットの解説によると、この新保険大臣は金融の専門家であり、元来は政治家ではない。金融の専門家であるが、慈善事業家であり、ヨーロッパ諸国からがんの治療薬を密輸する集団を作り、その薬が入手できない患者たちのためのネットワークを27歳で設立したらしい。政治家ではない、政界からの影響を受けない外部の畑の大臣だったことがこの取材を許可してくれた要因だった、と監督は語っていた。
正義感あふれる新保険大臣は、早速この問題の調査を開始する。
だが、さらなる政治的な腐敗の海に飛び込むことになる。
製薬会社と病院による巨大な腐敗関係をおっていくと、この病院の院長たち、理事長たちは相当な金持ち層であることがわかってくる。ルーマニアはどうやら、医者や病院理事長の資格はお金さえあれば、手に入れる資格であり、その制度は崩壊し、腐敗がはびこっていた。過去の与党政権とその腐敗により、なかなか調査は進まない。政治家たちの圧力もあるし、政界にいなかった単なる金融の専門家である新大臣が手を出せる領域ではない。
それでも市民からは「この事件を明らかにせよ!早急に対策をせよ!」という激しい声が会見で飛んでくる。この狭間で明らかに衰弱していく新大臣をもカメラは捉えているのも印象的だった。
金持ちの理事長たち/一部のエリート層は、お金で理事長の座につき、政治的な癒着関係を保持し、ルーマニア以外の諸外国の病院まで経営している。それは製薬会社との汚職まで発展し、莫大な富を生んでいる。その病院に関わる医者たちもお金優先の病院を経営運営の方針に従い、まともな医療体制や専門治療ができる医師を用意していない。そして基準値よりも濃度が薄まった消毒液を購入し、癒着による利益を貪っている。その結果として、その裕福層のさらなる富と政治的な腐敗により、若者たちの命が失われていた事実に直面してしまうのである。
これがルーマニアで暴かれた事件と汚職の全貌である。
前政権で説明されていた「火傷治療の医療体制はしっかりしている、消毒液の濃度は基準値である、問題は起こっていない」などという言葉は全くの嘘である。
つまり、国家が国民に嘘をつき、一部の金持ち層/癒着関係のお友達/エリート層に嫌疑/不利益とならないように対応をしていたことになる。そして国家の真実として
「火傷治療の専門家は足らず、国内で同規模の火災が発生した場合は国内ではまともな治療は受けられない」
「消毒液の濃度は基準値を下回っており、病院と製薬会社の癒着が確認された」
「各病院の理事長たちは政治的に腐敗しており、今もその腐敗は続いている」
ということが映画内で新大臣の視点からみえてくるわけである。この映画のラストシーンも実に印象的であり、救いようがなかった。
与党政権の退陣で、暫定政権に切り切り替わっていたが、ついに選挙の時期がやってきた。不正、汚職、悪政は新大臣やジャーナリストたちの手によって暴かれていったが、最終的には低い投票率で、前与党政権が再度与党として支持を得てしまう結果となる。そしてそのままこのドキュメンタリー映画は幕を閉じる。

ポピュリストたちが政権を握り、権力者たちは市民に嘘を付き、基準値の数値を有耶無耶にし、自由な報道を苛烈に攻撃しながら、自らの利益のために国家と癒着し、制度を悪用し、自由と平等を掲げるリベラルな価値観を破壊し、捻じ曲げながら、社会構造から排除していく。関係者は謎の事故死をするし、若者たちの命は見捨てられて、公的な医療は機能せずに、そのリスクは市民全員が請け負うことになる。
パンフレットの解説によると、この事件に関わっていた、本来責任を追うべき政治家、医者、病院理事長たちの中には、当時よりも高い地位につき、事件に関する仕事を評価されて、大統領から勲章を授与された人もいるらしい。このドキュメンタリー映画の続編、それは今のこの世の中である。

④キャッシュトラック
ガイ・リッチー×ジェイソン・ステイサムによる銀行強盗クライム映画。

今年は、個人的には「ジェントルメン」と合わせてガイ・リッチー監督作品がヒットした。傑作。ガイ・リッチー監督らしい時系列をシャッフルにした映画ではある。だが、その時系列のシャッフル性は、個人的には成功していると思えるし、そのドラマ性とジェイソン・ステイサムの相性は抜群であった。
以下、各シーンにおけるあらすじを整理しておく。

(襲撃)
映画冒頭から現金輸送車の襲撃シーンから始める。
統率がされた動きで複数の男たちが、現金輸送車を足止めし、襲撃し、計画を実行していく。カメラは輸送車両の内部からその状況を映しており、襲撃者たちが突発的に人を撃ったり、誰かが来たことをトランシーバーで会話をしているが、外の状況は全く見えてこない。そして現金が次々に運び出されていく。銀行強盗系クライム映画としては最高でパーフェクトで、大興奮間違いない前奏。

悪霊
ジェイソン・ステイサムは、通称“H”と呼ばれて、とある警備会社に就職した。謎の実力、謎の存在感を醸し出すジェイソン・ステイサムの全能感はエンタメ性が抜群。この全能感、ワクワク感。このステイサムに対する「絶対に凄腕なのだろうな!」という信頼感も楽しめる。これは時系列をシャッフルした効能である。この時点ではステイサムが何者なのかがわからないのである。そして警備員の仕事内容、現金を集積する建物内の構造、セキュリティ状態、警備員たちの同僚のキャラクター性が丁寧な描写で開示されていく。この前半パートはアクションシーンはなく、ある種退屈な描写のように思えるが、後半パートに向けての序章となっている。
そして事件が発生する。
Hが仕事に出かけたら、警備会社の仲間と襲われ、襲撃者の言われるがままに現金輸送者のお金をトラックの荷台に投げ込むステイサム。そこから悪霊/ステイサムの堂々としたアクションシーンがおっぱじまる。まるで無駄がない動きで、襲撃者を冷酷に射殺していくステイサム、うーん、最高。そして今度はチャイナタウンでHも乗り合わせる現金輸送車が襲われる。だが、Hをひと目見た襲撃者たちは”まるで悪霊でもみたように”現金も奪わずに一目散に逃げてしまう。これもステイサム=謎の全能感を演出している。もはやステイサム=凄腕の傭兵という枠組みを飛び越えて、悪霊扱いされるのがめちゃ楽しい。

しらみつぶし
ここで時系列は過去に遡り、5ヶ月前のHが登場する。H=ステイサムがここでギャングを束ねるボスであったことがわかる。息子/ダギーとの時間を楽しんでいたら、部下から電話がかかってきて、「現金輸送車がゲートから出て、右か左のどちらに教えて欲しい。そこから10分ほどが現場だ」という依頼を受けることになる。
そしてその現金輸送車を襲撃する計画は、冒頭の襲撃シーンにつながっていき、そこで息子が銃撃にさらされ、殺されるのを目撃する。Hも事件に巻き込まれて、撃たれて、生死をさまよい、病院で目を覚ますのである。そして息子を撃った犯人探しを開始する。
ギャングの力でしらみつぶしに犯人探しを始めるが、まるでみつからない。最終的には、警備会社の内部情報漏えいを疑い、ジェイソン・ステイサム自身が潜入して、直接犯人探しをし始めることになる。ここで時系列として、悪霊のシーンに接続される。謎の男/ジェイソン・ステイサムが凄腕の拳銃使いというだけではなく、マフィアのボスであることで、更に箔がつく感じ。嫌いではない。

野獣ども
今度は、現金輸送車の襲撃者たちの目線に切り替わる。アフガニスタンへ出兵した退役軍人たちがお金もなく、酒を飲んでたむろしている。訓練された退役軍人たちは強盗を計画、実行するが、それでは儲けが確定せず、不満が募る。そして警備会社の仲間と協力して、現金を直接に奪う現金輸送車襲撃計画を実行していくことになる。
野獣どもが街で胎動し始めるシーケンスを、非常にスマートに演出していく。そしてこの野獣どもが冒頭の現金輸送者襲撃を実行するのである。そこから更に事態は転がり、ブラックフライデーに現金輸送車の集荷の車庫を狙う計画を立案していく。時系列と視点を切り替えながらのガイ・リッチー監督の特徴がよく出ており、多数の視点を描くことにより、主役であるステイサムのエンタメ性を丁寧に浮き彫りにしていく。最終的には、この野獣ども正義のジェイソン・ステイサムに粛清を受けることになるのである。
あー、こういう演出がバッチリとハマっている。

肝臓 肺 脾臓 心臓
本作の最大のクライムアクションシーンに突入してく。
「現金輸送車の車庫を襲撃する計画を黙ってみていろ」と同僚から言い渡されるH。「見返りは、お前の命だ」と俺たちの最強ジェイソン・ステイサム様が言われるシーンも悶絶級に面白い。
そして、野郎どもたちの視点も織り交ぜながら映画は進行していく。統制された軍人たちによる綿密な準備、作戦計画風景を適度に挿入しながらも、その計画がリアルタイムに実行に移されているという演出が格別にクール。計画の立案と実行が交互に映画内で映し出され、次に何が起こるかを視聴者は知っている状態でこのラストシーンに突入していくのである。この視点と時系列の入れ替えが天才的なセンスであり、快楽度が半端ない。
そこでこの襲撃計画の例外的な存在としてのH/ジェイソン・ステイサム様の活躍が華を開いていく。襲撃者とHの両方の視点があるからこそ、そのエンタメ性が倍々ゲームで加速していく。そして現金集積所で発生する銃撃の乱戦が、この映画の最大の見所となる。火力の高さ、防御の厚さ、襲撃者、警備員、Hの乱戦具合も素晴らしい。超至近距離で完全防弾装備をしている襲撃者を倒していくステイサム様、最高にかっこいい。ステイサムもめちゃくちゃ負傷するし、撃たれる。この死闘感もすげぇいい。重火器をこんなにも屋内の至近距離で撃ち合う映画はなかなかに観られない。反撃を食らったHは床に倒れ、襲撃者たちにはまんまと逃げられてしまう。警察、SWATなどの裏をかき、逃走経路の準備も万端な襲撃犯たちは仲間を失いながらも、現金を運び出すことに成功する。最後に生き抜いた、Hの息子/ダギーを殺した犯人は計画通りに警察を撒いて、セーフハウスに隠れこむのである。

ここでラストシーン。
現金を詰めたバッグに携帯電話をいれておいたHが、既にその部屋の片隅に座っていた。バスローブ姿で酒を飲み、ひと仕事を終えて安心していた犯人は悪霊に相対するのである。
「何が望みだ?金がほしいのか?」
そして「金はいらない、これを読め」とHが一言で返す。
それはダギーの死亡診断書であった。
「要するに、肝臓と肺と脾臓と、心臓」
「だから、なにしにきたんだ!」
「肝臓をよこせ!そして肺と、脾臓、ちなみに名前はダギーだ」
この流れで、息子のダギーが受けた銃弾と同じ箇所に銃撃していくH。

この復讐劇を完遂するシーンが最高にかっこよく演じれるのがジェイソン・ステイサムという俳優なんだな、と改めて理解した。そして、ガイ・リッチー監督が用意した最高の舞台、演出はこのシーンのためにあったのだと理解した。それがこの映画を私が好きな理由なのだと思う。

⑤マリグナント 狂暴な悪夢
オカルト・ホラー、連続殺人鬼スラッシャー、殺人鬼の過去を追うミステリ、奇抜なアクションを融合させた悪夢的狂気映画。

監督はジェームズ・ワン。あらすじは、謎の連続殺人鬼のガブリエルに襲われてから、不気味な夢を見るようになった主人公/マディソンは、次第に現実と悪夢が区別がつかなくなり、未曾有の恐怖に視聴者を巻き込んでいくホラー映画である。ただし、単なるホラー映画の枠組みにとらわれず、クラシックなホラー映画の文脈を踏襲しつつも、オカルティズム、連続殺人鬼、そしてその犯人の真相を探る犯罪捜査ミステリに加えて、最終的にはオカルトアクション映画として成立させる手腕は圧巻であった。ジェームズ・ワンは「死霊館」シリーズのホラー映画を手掛けつつも「ワイルド・スピード SKY MISSION」「アクアマン」などのアクション大作も監督している。
そのため、ホラー×アクションの要素はどちらも見どころが満点であり、それをつなぎ合わせるオカルティズムの要素が最高にクレイジーで、作品全体の構成力に唸らされる。

・DV男に暴力を振るわれて、2度の流産を経験しているマディソン
・連続殺人鬼の夢をみるようになるきっかけとその日々
・殺人鬼の奇妙な身体性とその異形な体躯
・次々に殺人鬼に襲われる医療関係者とその恨みの理由
・地下ツアーの人気ガイドをしていた女性/セレナが殺人鬼に襲われ、拘束された理由
・母親が異なる妹/シドニーも含めた家族との関係、そしてマディソンの出生の謎
・幼少期からマディソンはイマジナリーフレンドとして、謎の男/ガブリエルと会話をしていた
・電気系統に影響を与えるマディソンの奇妙な力
これらの理由が一つのオカルト設定の上で成立している。

それが開示された瞬間に、それまでの要素とそれを演出するカメラワークなどが繋がっていたことが、伝わる。この爽快感とオカルト要素の使い方は、一見の価値はあるかもしれない。個人的には、ガブリエルの真の正体が開示されてからのアクションシーンが必見。
警察vsバケモノのアクションシーンなんて、通常のオカルト、ホラー映画は大味になりがちだろう。殺人鬼が刃物をふるう、血が出て、警察が倒れる。そんな単純なカット割りによるアクションが主流だと思う。
だが、本作マリグナントは、怪物が軽快に銃撃を避け、奇妙な動きで警察たちの前で暴れまわる。このシーンはまさにこの映画の最も評価するべきシーンだろう。そして、この謎の恐怖/悪夢/怪物に立ち向かう、義理の姉妹たちというところも本作の重要なテーマになっている。この弱い立場の人間たちが恐怖に精神的に立ち向かっていく。このような姿を映すことがホラー映画の最高の快感である、と私は考えている。
ホラー×(オカルティズム)×アクション=義理の姉妹が狂暴な悪夢に立ち向かう!
そういう映画であるし、私の好きな要素で構築されている映画である。

⑥死霊館 悪魔のせいなら、無罪。
The Conjuring: The Devil Made Me Do It。「死霊館ユニバース」第8作目。

映画タイトルの和訳がクソダサで、予告編をみたときは視聴意欲はなくなっていた。しかしながら、映画本編はこれまで死霊館シリーズとはまた変わった角度から攻めてきたので、このシリーズへの期待感や信頼感を新たに感じた1作となった。したがって、映画視聴後はこのタイトルも許せるくらいの快作であったとも思える。シリーズ8作目ではあるが「死霊館ユニバース」の時系列でいえば「死霊館 エンフィールド事件」の次の時間軸である。

1977年「死霊館 エンフィールド事件」(死霊館ユニバース3作目)
1981年「死霊館 悪魔のせいなら、無罪。」(死霊館ユニバース8作目)

ちなみに「死霊館ユニバース」でのマイ・フェイバリット映画はエンフィールド事件である。本作は、時系列と物語の展開はエンフィールド事件を継承している。
シリーズの主役は、ウォーレン夫妻。現実に実在する2人であり、エンフィールド事件も事実をベースにして映画化された。2人は心霊研究家であり、夫のエドはカトリック教会が唯一公認した非聖職者の悪魔研究家。妻のロレインも透視や霊視能力を持っている。この2人がエンフィールド事件で見事に悪霊と戦い、事件を解決に導いていった。
どちらといえば、エンフィールド事件はホラー映画の文脈で構成されており、純粋なホラー映画であった。死霊館ユニバース3作目から8作目に渡り、様々なホラー角度でホラー映画をやり尽くしてきたといえる。だが、本作第8作目はタイトルの和訳の通り、舞台の一つは裁判である。

本作の物語は、既に心霊研究家として有名になっていたウォーレン夫妻が悪魔祓いの依頼を受けているところからはじまる。11歳の子供/デヴィッド・グラツェルが悪魔に取り憑かれており、そのお祓いに乗りだすウォーレン夫妻。カトリックの司祭たちと共に数日間続く儀式をするが、悪魔のパワーは想像以上に強く、だんだんとウォーレン夫妻は傷つき、精神的にも疲弊し、圧倒されていく。そんな中、デヴィットの姉の恋人/ジョンソンが「この子を放せ!僕に乗り移れ!」と必死の形相でデヴィットを押さえつける。そして、少年からは超常現象は次第に消えていき、悪魔祓いは成功したかのように見えた。

しかしながら、その数カ月後に衝撃的な事件が起こる。
1981年、アメリカ コネチカット州ブルックフィールド。
デヴィット少年を救った青年/ジョンソンがその家主を22度、刃物で刺して殺害した。青年は、悪魔に取り憑かれていたことを理由にその殺人事件の”無罪”を主張しはじめる。証言台での被告人の供述は「ぜんぶ、悪魔のせい」と発言。法廷に神が存在するなら、悪魔も存在する。その被告人の言葉を証明するためには、悪魔の存在を証明する必要がある。
その依頼を請け負ったのがウォーレン夫妻となる。

ウォーレン夫妻は警察側と協力をしながら、悪魔憑き/悪魔の存在の証明に奔走していくことになる。ここからは単なるホラー映画が一転して、ディテクティブ/探偵映画の文脈が混ざっていく。警察と連携し、足で調査を行い、怪しい事件の調査、情報提供者との接触、有識者への相談などを通して、悪魔憑きの全容を解明していくストーリー展開は、まさに探偵小説のように進んでいく。しかも夫妻でそのミッションに挑戦するため、自然と二人組のバディムービーとしての文脈も重なる。その上で、前シリーズまでは妻のロレインの透視能力や霊能能力は恐怖を掻き立てるためのホラーブースト装置として機能していた。だが、本作ではその透視能力は、捜査能力として大いに力を発揮するのである。この設定が本作で最も驚愕した点であるし、設定の活かし方で私の信頼度がMAXになってしまった。
ウォーレン夫妻の調査から、不審な死を遂げている人の地域性、何らかの儀式で使われた邪悪なアイテムなどの共通点が見えてくる。この事件を解明していくシーケンスは格別に楽しいが、一方で殺人事件の容疑者となったジョンソンは、一時的に拘束されている病棟で正気を失いつつあり、悪魔がその生命を狙っていく。スリリングさの緊張が途切れないままの映画構成も良い。ジョンソンの恋人であるデビーはジョンソンを心配し、ウォーレン夫妻とは異なる視点で、2人の関係性が語られる点も、作品の奥行きを広めている。そして、ついにウォーレン夫妻は事件の核心に触れる場所、人物と相対する。
そこでこの事件の全貌が明らかになる。オカルト信仰者/悪魔崇拝者が悪魔召喚の儀式を行い、その儀式の条件に合った人物たちがターゲットとなり、悪魔に命が捧げられていたことが判明するのである。それを止めるには儀式の祭壇を破壊することが必要であり、クライマックスではウォーレン夫妻vsオカルト信者という舞台が整うのである。ここでエンフィールド事件と同様な文脈で、悪魔(悪魔崇拝者)との闘争のテーマが成立する。前半のホラー映画はじわじわと探偵映画に移行し、真犯人との決着を通して、悪魔を証明する裁判としての特殊なリーガル映画にシフトしていく。悪魔崇拝者による悪魔召喚の儀式の物的証拠は入手した。さらに、それに基づく連続殺人の証拠をウォーレン夫妻は提示し、悪魔の証明に挑んでいくのである。
ここからは一部、パンフレットによる解説も含めて、整理する。
裁判の結果「非科学的な悪魔憑きの証明は前例がない」と判断されて、ジョンソンには実刑判決が下ることになる。だが、刺殺された家主はお酒を大量に飲んでいて、日常から暴れていたこともあり、弁護士は正当防衛だったと主張することになる。
結果としては、ジョンソンには故殺罪という判決が下る。だが、服役態度が良好であったため、5年後には釈放されることになる。デビーとジョンソンはその後、結婚をし、今も生きている。

「悪魔のせいなら、無罪。」というタイトルは、単に客を引き込むためのキャッチーなフレーズであり、その中身は無罪を勝ち取るために奔走する探偵映画であり、それを霊視能力で解決に導くオカルト映画であり、そのすべての元凶は悪魔召喚の儀式と、それを行った悪魔崇拝者であったというホラー映画なのである。タイトルのイメージとはかけ離れた、物語の構成力は抜群にキマっていた。そして人間が悪魔に立ち向かう勇姿とウォーレン夫妻の愛情にも注目するべきである。

⑦007/ノー・タイム・トゥ・ダイ
ダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドの最終章。

世界各地の風景を収めた映像美、アクションのスケール、世界の危機における秘密スパイ作戦。一つ一つが絶品であり、すべてがダニエル・クレイグ版ボンドへ捧げるための賛美映像になっている。そして、古い時代のボンド像と共にダニエル・クレイグ版ボンドは終幕し、新しい時代のボンド像/007像を誕生させようとした、試行錯誤を張り巡らせた意欲作。

特に印象的だったシーン。
・映画冒頭のノルウェー/大雪に閉ざされたコテージと湖での映像美、そして能面の男の美しさ
・イタリアの景観が良い旧市街でのバイク&車アクションシーン
 こんな、石が敷き詰められた路上でカーチェイスするのか!という驚き。ロケーションの勝利。
・007の称号を継承した女性エージェントの登場
・細菌兵器の開発とそれで世界を牛耳ろうとするテロリスト/サフィン/本作の悪役
 この脚本であれば、新型コロナウィルスが感染拡大しているときに、映画公開を躊躇われるな、と。
・MI6組織内での、007継承に関する会話のやりとり
・ジェームズ・ボンド、父になる
・ノルウエーの自然と中でのカーチェイスと森の中での攻防
・日本とロシアの政治的な複雑性がある領海にある島にある秘密基地/毒物兵器工場という設定
・秘密基地での潜入ミッションと日本風な屋内でのボンドとサフィンのやりとり
 あのダニエル・クレイグが畳の部屋で正座して土下座するシーン、何なの?って感じでめちゃ面白い
・イギリス海軍の駆逐艦が、アメリカ、ロシア、日本からの警告を無視して、島にミサイルを打ち込むラスト

新型コロナウィルスの流行と細菌兵器をテロリストが使用するという相性の悪さは印象深かった。例え、創作やエンタメ、大衆映画であっても、公開が躊躇われる映画であったのだろうと想像してしまう。きっとそのような配慮がされている一方で、日本とロシアという政治的な緊張が生まれている島にイギリス軍がミサイルを打ち込むラストシーンには、まるで政治的な考慮はされていない。(と思える)
ジェームズ・ボンドの終焉を日本への政治的な配慮のなさとエンタメ性をかけ合わせたハイブリットなラストで見守ることが出来た。それには妙な面白さがあったといえるし、それをこの日本という地で観れてよかったな、と純粋に思った。つまり、日本で本作を楽しむにあたり、そこらへんのバランスは妙に印象に残った映画となった。けれども、映画本編は007でしかない、世界を股にかけたスケジュール感のあるスパイ映画であったといえる。
イタリアの旧市街の景観の良さと、そこでのカーチェイスも見どころが満点であったし、ノルウエーの森の広大な自然さと積雪の静けさ、そこでの四輪駆動でのパワフルなカーチェイスも最高だった。ポリティカル・コレクトネスに考慮したかであろう、女性版ジャマイカ系俳優による007の登場。ボンドガール/美女との密会にコメディ要素を取り入れたり、ボンドは父親となり、短いながらも親子の愛情を演出させる。まるで旧時代のジェームズ・ボンドは死んだかのような試行錯誤をみられた後、ラストはミサイルの爆撃により、ダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドはその生涯を終える。
そうしたラストをみて、この映画は全てはダニエル・クレイグという旧時代のジェームズ・ボンドを終わらせた男に贈る賛美映像なのだと感じたのである。

⑧クーリエ 最高機密の運び屋
事実を元にした、キューバ危機において重要な情報を入手したイギリスのスパイ映画。

”クーリエ(英語: courier)は、本来は外交官業務の一環で、外交文書を本国と各国の大使館・公使館等の間、あるいは大使館・公使館相互間などで運搬する業務のこと。”
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

本作の主人公はMI6に協力したイギリス人電気技師/グレヴィル・ウィン。元々は諜報員と無縁な存在で、妻子との生活を穏やかに過ごしていたが、セールスマンとして頻繁に東欧を訪れていた。そこに目をつけたMI6は、ソ連側にいる内通者/オレグ・ペンコフスキーからの機密情報を運ぶ役目を素人に依頼することになる。
つまりそれは、まるでクーリエのように、機密情報を国を超えて運搬する運び屋となることを意味する。
本映画は、一般人がスパイ活動に協力し、生活が変わっていく過程を丁寧に、そして地味に描いている。スパイ映画ではあるが、壮絶な侵入ミッションをしたり、カーチェイスをしたり、アクションを繰り広げたりはしない。単なる仕事に対して真面目で、ビジネスの才覚のある男が、戦争を止めるという正義感のために、命の危険というリスクを背負い、日常生活の中で恐怖に怯えながら、運び屋をしていく。まるでジョン・ル・カレのスパイ小説のような映画である。だが、現実にいた諜報活動に携わった男の半生を描いていくため、この現実感と命の危機への緊張感はこの映画ならでは感がある。

この映画はただそれだけではなく、ソ連側の内通者側/オレグ・ペンコフスキーの視点も描かれている。裏切り者に対して厳しい処罰や粛清をするソ連側の強固な恐怖体制の様子を描きつつ、セールスマンとしてソ連を訪れてくるイギリス人を迎い入れ、表面上はビジネス上のやり取りをしている行動/証拠を重ねていく。その中で、グレヴィルは、オレグと長い時間一緒に過ごすことになる。ロシアでクラシックバレエを観劇したり、イギリス国内で工房を巡ったり、オレグ側の家族とも交流をしたりした。そして、グレヴィルもロシアでの仕事仲間として、自身の妻子にオレグの紹介をし、その関係は家族ぐるみの仲となっていく。2人の諜報員は独自の信頼関係や仲間意識を構築していく。このシーケンスは韓国/北朝鮮の工作員映画「工作 黒金星と呼ばれた男」と似ている部分がある。

そんな中で、米ソの冷戦状態は次第に緊張を強めていく。ニュース等で核武装競争がだんだんと現実味を帯びていき、世の中に混迷をもたらしていく。米ソの核戦争の幕開け。その足音がイギリスにも届いていたのである。妻子との生活があるグレヴィルは、そんな政治的な緊張状態にも関わらず、東欧へと仕事に出かける。それにより家庭の不和が発生し、その穏やかな生活はだんだんと崩れてゆく。

オレグ・ペンコフスキーは、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設している機密情報を入手。それらの機密情報をイギリス、そしてイギリスを通して米国へと伝えることに成功する。だが、冷戦の緊張状態中で、オレグは自由に外国へ出国することは出来ない。そしてソ連側/KGBも内通者の存在に感づいており、内通者である彼にその調査の手が伸びてゆく。冷戦、諜報活動、KGBの調査の手などスリリングな展開が続く中で、もはやオレグは国外へ逃走しなくてはその生命が危ない状況に陥っていくのである。
その状況を打破できる唯一の人物が、グレヴィル・ウィンであり、特別な友情関係にある仲間を救いに、決死の思いでソ連に渡るのである。
この決意のシーンがとても美しく、人間としての生きるエネルギーを感じることができる。戦争を止めること、友人を救うことが地続きに繋がっている。そのような人間味溢れる地味な行動がこうも人間を美しく映し出す。派手なアクションではなく、世界の平和はこうした諜報員、いや1人の人間の意思と行動で決まっていく。その事実が、この映画からたっぷりと伝わってくる。

だがしかし、話はそんなに簡単には終わらない。
ハッピーエンドとは程遠い現実が待っていた。
KGBはオレグの裏切りに気づいており、その行動は監視されており、そこに接触してきたグレヴィルは、最終的にはKGBに捕縛されてしまうのである。この映画は事実を元にしているため、現実とはこんなものだ、と突きつけられる。これはエンタメ映画ではない。
捕縛されたイギリス人諜報員は、拷問を受け、粗末な食事が出される極寒の独房に入れられる。
グレヴィルは「その機密情報の内容を知らない」ということで押し通す。このシーンもこの映画の一つの見どころである。
グレヴィル・ウィン役/主演/ベネディクト・カンバーバッチの有名作をあげれば、ドクター・ストレンジだろう。その彼がKGBの厳しい尋問や粗末な食事のため、やせ細ってしまった肉体、憔悴しきった表情をカメラの前で魅せつける。KGBの厳しさ、ソ連という恐ろしさ、悲壮感などの演出のために、これだけ身体を張っている。そこにこの映画の凄みを感じることが出来、その本気さとリアリティさが十二分に伝わる。かっこいいスパイアクションシーンがない代わりに、映像の凄みとして、ベネディクト・カンバーバッチがそのボロボロの肉体を魅せつける、という演出に私は感動してしまった。
映画の後半は、尋問のシーンが続くという地味な絵を俳優の肉体で補うという力技。だが、この2人がいなければ、世界は核戦争になっていたかも知れない。そうした思いを噛みしめることができるラストに仕上がっていたことが個人的にとても印象に残った。

⑨最後の決闘裁判
リドリー・スコット監督による、パリにおける最後の決闘裁判を描いた快作。

最も感動するのはラストの決闘裁判のシーン。二人の男が、互いの真実と命を賭けて、騎馬戦を行うアクションシーンが兎に角、最高で快作だった。当時の時代の騎馬戦のことを調べ尽くしたのだろうことが伺える映画で、まさにこのシーンを演出するためにどれだけの時間が使われたのか?を想像するだけでも興奮する。当時のパリ貴族たちの衣装から、甲冑や馬に装備させる具足の類。そして騎馬戦における戦法やその激しいぶつかり合う迫力のあるアクションが見どころ。また、騎馬戦をおえてからの、甲冑を着た騎士同士の近距離戦闘の泥臭さや戦いの所作の数々が、映像的な見得よりも、実践を踏襲した戦闘アクションシーンであるのが個人的にはすごく感動した。
全身に甲冑を着込んでいる兵士を近接戦闘で致命傷を与えるには甲冑の防御が薄い関節部分を短剣で狙う。それが当時の戦法のセオリーなのだろう。私も何かの本を読んで、そのような戦法があることを記憶していた。
そうした歴史的な情報を蓄積した上で、この決闘シーンが作られていることをその画面とアクションから浴びせられて、そうした映像感動体験を感じることができる映画である。
もちろん、この最後の決闘裁判シーンがこの映画の華ではある。
だが、その前のシーン構成もまた秀逸である。
この映画の視点は3視点あり、同じシーンをそれぞれの真実という形で描いていくという稀有な演出をしている。なんども同じシーンが登場するのであるが、カメラワークが変わっていたり、”それぞれの真実”に則った映像に仕上がっており、その工夫や演出は傑作である。

あらすじは以下のとおり。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
"
1386年、ノルマンディーの騎士ジャン・ド・カルージュの妻マルグリットは、従騎士で夫の親友でもあるジャック・ル・グリに強姦されたと訴える。カルージュはル・グリを重罪犯として処刑することを望むが、ル・グリは無罪を主張し、さらに領主のピエール伯もル・グリに肩入れしたため、彼を裁判で追い込むことは不可能だった。
そこでカルージュは国王シャルル6世に決闘での決着を直訴し、カルージュとル・グリは決闘裁判に臨む。
"

個人的に感じた所管を整理しておく。
▽ジャン・ド・カルージュの真実
騎士としての誇りや奢り、名誉への執着が強く、家庭よりも家柄へのこだわりで生きている男。そして結婚は持参金が目当てであったり、子孫繁栄が目的であったりという思考が読み取れる。妻が強姦されたことでジャック・ル・グリを訴えるが、それも男性的な社会における尊厳を守るためとも読み取れた。

▽ジャック・ル・グリの真実
ジャック・ル・グリの強姦シーンの演出が秀逸。その映像は、本人による”真実”を描いているため、「マルグリットが明確に拒否しているとはいえないのでは?彼女から誘った」とも思えるかのような映像として仕上がっている。この演出の妙さ。圧倒的。もちろん、マルグリットは明確に拒否をしているのだけれど、それはジャック・ル・グリにとっては真実ではないため、そのニュアンスが映像として表現されていたように感じた。そのように感じた理由は私もうまく言葉にできない。

▽マルグリット・ド・カルージュの真実
徹底的に、当時の女性の扱いを描いている。マルグリットの真実のシーンからラストの決闘裁判のシーンに突入している。そこまでに描かれるのが、これまでの二人の男のシーンでは描かれていなかった当時の女性には人権や自由がなかったという事実。強姦されるシーンもまた、明確にマルグリットが拒否を表現している上で、ジャック・ル・グリの真実のシーンとはまったく別の映像となっている。この演出だけでも、相当に脳内を揺さぶられるし、気持ちは悪くなる。だが、二人の男の名誉や奢り、色欲と権力に板挟みになりながらも、男性社会に生きる女性の視点を描く構成を考えた時点で、この映画の企画は成功したといえるだろう。

そして、いつしかマグリットの視点は観客の視点となり、最後の決闘裁判の結末を固唾を呑んで見守ることになるのである。

⑩音響ハウス Melody-Go-Round
音響ハウスという老舗録音スタジオのドキュメンタリー映画。

映画のHPからその内容の概要を簡潔に整理すると、以下のような映画である。
”多くのアーティストに愛され、名曲が生まれた録音スタジオを深るドキュメンタリー映画。1974年12月に東京・銀座に設立されたレコーディングスタジオ・音響ハウス。YMO時代からこのスタジオで試行錯誤を繰り返してきた坂本龍一をはじめ、松任谷由実、松任谷正隆、佐野元春ほか、多彩な顔触れが音響ハウスとの出会いや楽曲の誕生秘話を語る。”

このドキュメンタリー映画は、坂本龍一や松任谷由実など日本の著名なアーティストたちがこの音響ハウスの思い出を語っていくのがメインになっていく。だが、この映画はそれだけではない。音響ハウスで働く技術エンジニアの目線やハウスバンドのバンドマンなどのエピソードなども自身の言葉で披露される。いわゆる音楽製作における裏方の人間たちの語りを映画に挿入することで、この映画は未知の奥行きを生み出していく。そしてこのドキュメンタリー映画を通して、音響ハウスという録音スタジオに思い入れのあるアーティストたちがこの映画のメインテーマとなる楽曲「Melody-Go-Round」を作り上げていくシーンも各所に挿入される。
単なるドキュメンタリー映画だけではなく、技術エンジニアたちの視線、ハウスバンドマンたちの視線、そして楽曲制作過程を映し出していく映画になっており、それらの中心には音響ハウスという録音スタジオがある。
この楽曲制作過程と、音響ハウスの歴史を体感したら、その楽曲の”音響”の具合は気になってしまうものである。
そのため、私は本映画のパンフレットを購入し、その付属している主題歌CDを手に入れてしまった。私は本映画に出演しているアーティストたちのことは詳しくないのだけれど、この映画に触れてよかったとも思ったし、パンフレットに付属されている主題歌CDを無性に聴きたくなる瞬間がある。
そのくらいには、私にとって印象深い映画となった。

サイドエピソードとして、私はこの映画を2021年4月2日(金)の東京都写真美術館ホールで鑑賞した。
金曜日の午後という時間帯だったため、ほぼ音響関連の業界人で占められていたように思える。
私はこの日「YUI MAKINO LIVE CONCERT FIVE6THREE7 @ 東京・恵比寿ザ・ガーデンホール」のライブコンサートに参加予定だった。
そのため、牧野由依のライブコンサートの前に観たい映画を探していた。まだ新型コロナウィルスの感染状況は落ち着いてはいなかったが、せっかく外出するのであれば、映画の1本でも観ておこうか、みたいな気分でもあった。そこで探し当てたのが、恵比寿ザ・ガーデンホールに隣接されている東京都写真美術館ホールでこの「音響ハウス」の映画を観ることにした。
前述の通り、日本の著名なーティストではあるが、あまりに門外漢なため、私が楽しめるのか?というのは甚だ疑問ではあった。けれども、ものは試しということと、牧野由依のライブコンサートを楽しむ準備運動くらいにはなるだろう、という魂胆があった。
しかして、実際にこの映画を観たら、謎の興奮があったし、パンフレットまで購入するほどに印象深い映画となった。そして時は過ぎ、今年上映されたアニメ映画のエンドロールで「音響ハウス」の名前をみることになる。

「アイの歌声を聴かせて」
「映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」
どちらも音響や音楽が重要な要素となる映画である。

「アイの歌声を聴かせて」のエンディング、主題歌などの壮大なオーケストラスケールの音などはきっと「音響ハウス」という老舗録音スタジオで収録がされたのだろう。また「映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」は全編にわたりフィルムスコアリングをしていて、音響と劇伴の秀逸さが視聴者たちを引きつける。この映画の裏の肝になっている。この映画は、むしろ脚本以上にフィルムスコアリングに気を使っていたに違いない。オーケストラの音響の良さを活かすフィルムには「音響ハウス」を録音スタジオに選択するのが最適解。そういうことが業界内でも既知であるのだろう。本ドキュメンタリー映画を通して、そうした想像ができるようになった。この広がりに格別な、映画体験があった。
映画を観る上で「音響ハウス」という録音スタジオが使用していることで、制作陣たちの音響へのこだわりを感じることができるという点でも、本作品を観た意味があったのだろうと思えたのである。

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以下、個人的な感想メモ。
単館上映系映画のドキュメンタリー系映画もよく観た年になった。個人的には「東京クルド/TOKYO KURDS」「オキナワ サントス」などの移民と人権に関する映画は印象的だった。「SNS 少女たちの10日間」も衝撃的な映画であり、インターネット経由での出会いを狙う男性が大勢いることへの恐怖を体感した。
「JUNK HEAD」は常軌を逸したコマ撮り映画であり、ストーリーの設定やグロさ、異界感は「ドロヘドロ」みたいで個人的にとても楽しかった。
また、スリラー系映画としては「Swallow/スワロウ」「オールド」「RUN/ラン」あたりも良かった。
そして例年以上に豊作だったアニメ映画。
「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」
「映画大好きポンポさん」「劇場版 抱かれたい男1位に脅されています。~スペイン編~」
「劇場版マクロスΔ絶対LIVE!!!!!! 」
「竜とそばかすの姫」「アイの歌声を聴かせて」「漁港の肉子ちゃん」
「EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」
「岬のマヨイガ」「フラ・フラダンス」
あたりは個人的には良作だったと思えるし、存分にその楽しさを堪能した。

「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」は人生におけるマイ・フェイバリット映画になりそう。なる。
「映画大好きポンポさん」は、私の人生において同じような体験があるため、特別に印象深い。
「劇場版 抱かれたい男1位に脅されています。~スペイン編~」の情熱的なスペインらしい音楽と、速水奨の良さ。
「劇場版マクロスΔ絶対LIVE!!!!!! 」は、宇宙規模の恋愛×戦闘シーン×音楽というマクロスのテーマを正面から逃げずに取り組んだ力作。速水奨が最高にかっこいい。
「竜とそばかすの姫」は、主人公の実家付近の沈下橋を映すギミックがすげぇ良かった。
「アイの歌声を聴かせて」の田舎×SF要素の融合と、ミュージカル要素の脚本への落とし込みのエンタメ感が良かった。
「漁港の肉子ちゃん」の渡辺歩監督の良さが滲み出ていた。大竹しのぶのお芝居がすごい。
「EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」の名塚佳織という1つの時代の終焉、エウレカの終焉が楽しめる。宇宙スケジュールのSF映画×スパイ映画×ロードムービー×ガールミーツボーイ映画。
「岬のマヨイガ」「フラ・フラダンス」は、共に東日本大震災なしには語れない映画であり、このような映画がアニメとして後世に残る意味を考えさせられた。


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