勝山城久万高原町直瀬仲組にあるこの城祉は、戦国時代、久万大除城の支城として城主鳥越左門が築いたとされる城で、山の登り口には、数基の古い墓があります。また頂上を含めて、3つの曲輪が現存していて、各曲輪は一坊、二坊、三坊と呼ばれ、それぞれ小さな祠が祀られています。 鳥越左門は芸州の武士であったといわれ、天正二年笹ヶ峠合戦で討死したと古文書にはあります。城山の麓は「鳥越」と呼ばれていますが、おそらくここに鳥越左門の住居があったのではないかと思われます。 毎年、9月1日に仲組では
大野家二八代直里は通称を弥次郎、応永二五年(一四一八)に将車義持から伊予国における軍功によって、道後分の岡田北名田職を賜わり、また永享四年(一四三二)、大野宗家の人と見られる明正から、大田本郷及び久万を譲り受けています。「大州随筆」所収の文書にこのようにあります。 直里は後に細川満元の書状を受けて土佐に出陣し、討死しています。 檮原村史編纂資料「津野山異談続編」には、「予州河野の大軍檮原城に攻め来る」の項で、「餅打城(和田城)を守っていた前田道慶、突如襲い来た予州の河野軍
貞治三年、南朝年号では正平一九年(一三六四)の末、阿讃の細川頼之が伊予に侵入し、湯月城の河野通朝は周桑郡三芳町にある瀬田山に進んで防いだが敗れ、自害します。その子通堯は北条難波の恵良城にこもって細川勢を防ぎましたが抗しきれず、安芸国能美島に逃れ、更に九州に走って、南朝方に下り征西将軍懐良親王に従って筑紫にとどまっていました。 父を亡くした河野通堯は恵良城で元服したといわれています。 この時期の大野氏の動向を『予州河野家譜』に見ることができます。 正平二二年一二月に義詮将
天慶2年(939)藤原純友の乱において暴徒追補のため伊予国喜多郡に派遣された伊予大野氏の遠祖大伴吉良喜は、現在の大洲市宇津の大野に住み着くこととなり「大野」を名乗るようになります。詳しくは『伊予の「大野」はどこからきたの?』を参照下さい。 昔は移住すると、その地名を名字とする風習があったようです。例えば武田信玄や木曽義仲、足利尊氏なども先祖は源氏で移り住んだ土地の地名を名字としています。 宇津を流れる肱川とその支流小田川流域には大野から分家したとされる冨永・城戸(喜土)・
平岡氏の出自 久万大除城主大野三代を語るにおいて、荏原城主平岡氏の存在は欠くべからざるものです。なぜなら久万大除城主二代大野利直の正室は、平岡氏の出で三代大野直昌の母だからです。 平岡氏は戦国末期に道後湯築城の守護河野氏の執事を務めた一族ですが、歴史上その出自は不詳となっています。 ただ鎌倉時代から室町時代にかけて、所領とする地名をそのまま苗字として名乗ることが多かったことから、中予で「平岡」の地名を探してみると、伊予市と中山を結ぶ山道の峠に「平岡」という集落がありました
邪馬台国の存在については、日本史最大のミステリーとして、学者にとどまらずアマチュアも巻き込んでの論争がつづいています。 九州説、畿内説、四国説などさまざまですが、元を辿れば『魏志倭人伝』の記述をもとに推測されたもので、中国の歴史書、『三国志』の中の『魏書東夷伝倭人』の項によります。 そこで、そもそもこの『魏志倭人伝』がなぜ書かれたのかという原点に立てば、邪馬台国の存在が明らかになるのではないかと思い考察してみました。 倭人の国は、すでに前漢の頃からその存在が知られていた
第 九 席直治郎君御名代の亀丸は若くして、砲弾によって溺死してしまいました。 奥平久兵衛始め悪人どもは、 (片付いたり) と、悦んでいると、早朝に、 『御用あり、これにより罷り出ろ』 との御沙汰、久兵衛は、 (大砲の事についての呼び出しに違いない。例年御入国の際は空砲なのに、今回は弾を込めて打ったので、その相談だろう) と考え、安心して登城しますと、若侍供が間毎(まごと)間毎の固めに奔走しています。 久兵衛は、 (これは当然の事) なぜなら、 (直治郎君と共に乗り込
第八席国表の水野吉右衛門の家来市助は国を発ち、江戸表愛宕下隠岐様の邸にいます元老水野勘解由に直接会って密書を渡したい。ただ、江戸表の他の家来達に知られず勘解由に会う事は難しく、愛宕下近傍に宿を取って、毎日のように邸の模様を伺っています。 さて、市助は勘解由を前にも目通りしているので知ってはいますが、間が悪くなかなか会うことができません。とはいっても何の用もなく、抜け道でもないのに邸に入る訳にもいかず、すでに五六日日参しています。 今日も今日とて、御邸の表をぶらついていると
第七席ここ、江戸表の邸には脇坂五郎左衛門という人がいます。前々から国の奥平久兵衛の指示で、直次郎君を毒殺しようと、甥で医師の松本道斎に毒薬を調合させていました。 日柄もよく、脇坂の段取りでお囲みに於いてのお茶会が催されています。お茶というのは元は親密を旨として始めたものでございますが、今回は極めて危険なお茶会でございます。 直治郎君の御守役であるお局の菊の井さんは、当代の殿様に佐竹家から奥方が嫁がれた時のお付だった方で、今は御年寄を勤めています。その菊の井さんと脇坂に道斎
第六席さて、国表では何かと騒がしい事が起りました。 御出入り町人の山内源内はすでに領分を追放され、また、伊豫紙を半分取上げる事に就いても一揆が起こりました。 今はそれも静まって穏やかなようですが、どうもまだスッキリしません。 大道寺矢柄之助という城代家老は、 (悪人は誰か。見破って安泰としたい) と、思ったので、ある日殿様に会って、 「恐れながら御前、御身体の勝れない時にこの様な事を申し上げるのは、誠に恐れ入りますが、手前近頃、健忘という病に侵されまして、承りし事を忘れ
おらが村の天皇おらが村の天皇といえば、長慶天皇をイメージされる地方の方もたくさんいらっしゃるかもしれません。 それほど北は青森県三戸地方から、南は九州太宰府まで、長慶天皇にまつわる伝説が語り継がれる地域はたくさんあり、長慶天皇御陵地というのは全国に100以上あるといわれています。 そして私の生まれ故郷である久万高原町直瀬にも、長慶天皇の陵墓とされる石碑があります。 長慶天皇とは南北朝時代の南朝は二代の後村上天皇の代に、重鎮の北畠親房を失うとともに弱体化が著しく、さらに三代の
第五席小源太が本堂で休んでいますと、夜の九つ(午前零時)頃に須弥壇(仏像を安置する台)の前に、さながら身の丈八尺(約二・四㍍)余もあろうかという大きな古狸が、熊の胴服を着て現われ出まして、左右には子狸凡そ千匹がズラッと本堂に座っています。 後藤小源太が、 「やゃ」 と、驚いていますと、古狸が、 「これ小源太、汝はこの菩提山菩提寺に来て、何をしようとしている」 と問いますと、 「いや、汝がどの様な狸かは知らんが、今日、私がここに来たのは他でもない。汝らが妄(みだ)りに城下
第四席さて、小源太が伊豫国松山へ来て召抱えられ、三年目の事でございます。小源太が三平という家来を召し連れて道後の温泉場へ行き、松前屋喜平という家で入浴をし、酒を飲んでいると、容貌の好い婦人が二十歳位の女と廊下を通ったのを何気なく見て、 (あっ、飛騨高山の進藤先生の御新造と娘のお雪さんだ。はて、二人はここに何しに来たんだろう) と、思って手を拍つと、下女が来まして、 「お呼びになられましたか」 「今、この廊下を通ったお内儀さんと娘さんは、何処に泊っているか知っておるか」
第 三 席 さて、その子は犬の乳で育ったというので、伏太郎と名付けられましたが、中々どうして、この伏太郎の力は尋常ではなく、どんな夜中でも足音で直ぐに目を覚ましまして、暗闇の中でもはっきり物が見えるという、誠に不思議な人間なのでございます。 伏太郎が十二才の時に父親が大病に罹り、夜も寝ずに看病をしていて、 「父さん、僕はね。人から『母さんがいない』と、言われますが、母さんはどうされたの」 と、聞きますと、 「お前の母さんは、お前が生れて三日目に死んでしまった。それで
第 二 席 さて、互いに斬り合いとなり暫く戦い続けていたのですが、勝負がつかず、双方共に体が疲れてきて、一息付いた時、 「あいや暫(しばら)くお待ちを、拙者はこの菩提山菩提寺に通夜に参った者で、後藤小源太と申す浪人で御座る。貴殿は御城内の御方と御見受け致します。失礼ながら貴殿の腕前実に驚き入り申した。到底、我の及ぶところでは御座りませぬ」 「これはこれは、貴殿がこの寺で古狸を退治したという後藤殿で御座ったか。甚だ失礼を致し申した。拙者は奥平久兵衛と申して、当藩で剣道指南役を
口演 揚名桃李 書記 一穴庵貉 現代語訳 大野秀文 第 一 席 天智天皇の御代に生まれた狸に、多くの一族郎党が出きた頃、伊予の国の松山に義賢(よしかた)という大名がいました。 伊予の国の領主ですが、隣国の大名に攻められ、最早(もはや)落城かという時に、この古狸が現われて、一族郎党八百八狸を引率てこれを助けたというのが、この話の主意でごさいます。 これら狸が何匹いたかは記されていませんでしたので、数多くいたいう事で、八の字を使って『八百八狸』と題しました。 さて、