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球磨族と大和族の争い

古事記や日本書紀に度々登場する異文化族
熊襲(くまそ)が九州にいた事は事実

邪馬台国の下りで、西都原を想定したがこの読み方は「さいとばら」ではなく「さいとばる」 原をバルと発音する民族に着目する

以前沖縄旅行をした時、那覇の南に、南原海岸があって、そこを現地では「みーばるビーチ」と呼んでいた
南はミー、原はバル

東はハエ(太陽が生えてくるから)
西はイル(太陽が入っていくから)イリオモテとかもそう

この言語を話すのが球磨族で琉球王国の源流

その球磨族(後には熊襲=球磨曽於族)が2世紀頃には九州まで勢力を伸ばしていた

名残は熊本県、鹿児島県、大分県に地名として多く残る
宮崎県の西都原もしかり

これらの考察から、九州のヤマト族の軌跡が見える

朝鮮半島、対馬、壱岐を経由して、稲作文化を持つヤマト族が福岡県あたりに上陸
多分熊襲の影響が薄いエリアだったのだろう

そこを起点にムラを作り、国を作り、大勢力となって熊襲と争い始める

バルという地名は元々熊襲の領域を占領したという証になる

日本の記紀にも熊襲が非常に強かったことが書かれている

九州だけを言えば、平地はヤマトが農耕で開拓し、実り多い森や海・川は熊襲が狩猟対象として、両勢力は均衡していた

そこに、鉄鋼技術を持つ出雲のヤマトが乗り込んで出雲・九州のヤマトの連合軍で熊襲を南(島しょを含む)へ追いやった

出雲大和は九州・出雲を制圧し、素戔嗚、大国主が二代にわたり統治した

大国主の没後、後継者争いが起こり、九州ヤマトの一言主が出雲の建御名方を信州まで追いやり、再びヤマトが統一された(出雲に残る国譲り)

一言主の母親?祖母?が天照大神で、人目を避けて神事による意思決定を司り、あたかもヤマト(邪馬台国)の女王であるごとく、魏国の勅使の目に映ったのだろう

つづく?

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