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かもしれなかった

すごく間が空いてしまった🥲
最初noteの話があったとき、「書きたいことなんていくらでもある!」と息巻いていたのだけど、
実際始めてみると、私が考えているのは、記憶、言葉、ケアについてなど、おんなじことばかりで、それらについてはずっとまとまらず、なんにも書けないのでした(そのうち書きたい)。

おんなじことについて考え続けていること、
それは今日の私が昨日の(あるいはさらに過去の)私と同じ人物であることの証左であるなあと思う。ずーっと続く思考こそ、自己同一性、アイデンティティ……

最近はめずらしく、馴染みのないところへ行くことが多かった。
あまり知らない街で、なんだかいつもとちがう人たちを見るなどしていると、別の私・パラレルワールドのことを考えてしまう。
私が吉祥寺も三鷹も捨て去って、東京23区やらその他のどこかで一人で(あるいは誰かと)暮らしていたとしたら……その私は毎日この街を歩いただろうし、この駅を使ってどこかへ向かっていただろう、など。エスカレーターの左側にぼけーっと立っている私の右手を、パラレルワールドの私が通り過ぎていくのを思ったりする(エスカレーターは歩いちゃだめ)。
そう考え始めると、すぐそばにいる他人についても、彼や彼女はもしかしたら私だったのかも、なんて思う。

『梅切らぬバカ』という映画を見ました。
ドランクドラゴン塚地が演じるおそらく自閉症の男と、その母親との話で、母は彼をグループホームに入れる決意をする。そのホームの付近では入居者に対する差別のまなざしが強まっていて、ホーム廃止のデモなんかが繰り広げられている。
たまたま健常である人が、たまたまそうでない人を差別する。そういうのってつくづく愚かなことだなと思う。
どんなことについても、自分が当事者であったかもしれない、って思いたい。そう思える余裕を持ち続けたい。

生きていると「かもしれなかった」ことがどんどん増えていく。
その回避や取りこぼしの蓄積によって、たまたま今の私であるんだなと思うと、何やら軽やかな気持ちが湧いたりする。すべては偶然の繰り返しで、因果とかそんなのって結構弱いのかも。
32歳になって、そのような具合に過ごしていました。
あらたな1年もよろしくね!

この前馬力行けてよかったな~
かなり使い勝手のよい、ナイスなお店なのでは…、と思ったけどとねはどうでしたか。また遊ぼうね。下北も行こう!公園でワインも飲もう!

わかば

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