見出し画像

正常性バイアスと向き合う

「救急車!救急車を呼んでください!!」

突然、日常空間から非日常な大声が飛んでくる。

「人が倒れているんです!電車止めてください!」
電車のドアが閉まりかけたとき、また別の人がホームへと身を乗り出し、必死で叫ぶ。

とある人は、車内の非常ボタンを連打している。

「駅員さん、こっちです!」

駅員さんが駆けつけ、倒れた人は車内からホームへと運び込まれていった。

わずか、2、3分のできごとだった。
私も何かできないかと様子をうかがったけれど、人が多くて何も見えない。

周囲の対応がはやすぎて、その後は電車の遅延もなく、すぐに日常へと戻った。

もし、私が近くにいたら、同じように対応できただろうか。

正直、自信はない。だから、みなの動きに圧倒されたし、すごいと思った。
こういうとき、すぐに動ける大人でありたいと思う。

前にも同じようなことがあった。

電車を待つために、駅のホームで並んでいたら、
近くのベンチに座っていた女性が突然嘔吐した。

隣に座っていた男性がティッシュとハンカチ、袋を取り出して女性に差し出す。「連れの人がいるのか、よかった」と思い、何もせずにそのまま近くにたたずんでいた。

慣れた手つきで吐しゃ物を片づけていく男性。「よくあることなんだ、大変だな」と思っていたら、駅員さんがやってくる。

「では、僕はこれで。スマホ、ここに置いておきますね」とだけ言い、男性はその場を去った。

連れじゃなかったのか、と衝撃を受ける。と、同時に何もしなかった自分を恥じる。男性の次に近くにいたのに。まるで、人でなしだ。

恥ずかしさと申し訳なさから、逃げるようにその場を離れた。

『正常性バイアス』

人は予期せぬできごとが起きたとき、「正常の範囲内だ」と思い込む仕組みが備わっているらしい。それを『正常性バイアス』という。

正常性バイアスのせいで、目の前で事故や事件が起こっていても、事態は深刻ではないと脳が判断してしまう。

周りにいる人が積極的に行動しないと、
行動するほどの事態ではないと思ってしまったり、
他にも行動していない人がいるのだから責任は分散されると考えてしまったりするようだ。

誰かが行動していれば救われることも、
誰も動かなくて救われない事態が起こりうる。

『正常性バイアス』という言葉は耳にしたことがあっても、その特性が自分の中にも備わっているとはなかなか想像しにくい。

実際、日常の瞬間に非日常が起こると、本当に動けない。

目の前で苦しんでいる人がいたとき、何もしなくて大丈夫だと判断した過去が自分にあることが、怖い。

体調不良者の近くに知人や身内、対応に慣れている人がいるとか、いないとかは関係ない。目の前で苦しんでいる人がいれば、迷わず行動に移していこうと改めて決意した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?