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「重度」という言い方

 大学の教職課程の特別支援教育の授業を担当するようになってか学んだことがたくさんあります。それは当然なことだとも言えます。それまでの私の背景は、主に運動障がいのお子さんで、コミュニケーションが難しいお子さんの支援でした。一方、特別支援教育の授業では、その他のいろいろな困難さについてやインクルージョンについても学生に伝えなければなりません。そこは私が新しく学ぶべき部分でした。また、学生のふとした疑問や質問から私が新たに学ぶタネをもらうこともとても多かったです。
 その新たな学びの部分のお話しです。

 「重度」という言い方は私の業界では日常的に使われていることばだと思います。私自身、自分の背景について「重度重複障がい児の学習の支援」と説明してきました。
 その一方で引っかかる部分がありました。「重度」と表現する場合、そのお子さんの可能性をもとても低く見積もっていることが多かったからです。重度だから「わからない」。重度だから「説明してもしょうがない」。重度だから「ことばがわからない」など。そういう思い込みが根強くあると考えています。
 それは私が子どもたちに感じていることとは相反するし、受け入れがたい思い込みだと思っていました。

 そんなときに、アメリカの学会が知的障がいの定義について大きくシフトしていたことを知ります。
 AAMR(アメリカ精神遅滞学会、現在はAAIDDアメリカ知的発達障害協会)第9版(1992)では、
  (1)精神遅滞の概念を広げること、
  (2)IQ値によって障害のレベルを分類することはやめること、
  (3)個人のニードを、適切なサポートのレベルに結びつけること、の3点を意図し、従来の「軽度」「中度」「重度」といった分類を止めて、支援の程度による分類を指向し始めました。即ち、
 一時的(intermittent)
  必要なときだけの支援
 限定的(limited)
  期間限定ではあるが、継続的な性格の支援
 長期的(extensive)
  少なくともある環境においては定期的に必要な支援
 全面的(pervasive)
  いろいろな環境で長期的に、しかも強力に行う必要がある支援

といった考え方になります。しかし、この1992年の大きなシフトは私たちの国の教育や支援には全く影響を与えなかったのだと思います。
 加えて「つ ま り、 障害 を個人 に 属 す る 固 定 的な 状態像 とせ ず 、個 人 と環 境 と の 相 互作用 の 中で 生 じ た 行動 の 一形 態 と捉 えよ う とす る の で あ る。 」(富山大学教育学部研究論集N0.5 15-26, 2002「精神 遅滞者 へ の 最適 な 「 支援」 的対応 を 目指 し て :A A M R に み る 新 しい) 障害観 ・支援観 に よ る 「 支援 ツ ール」 の 検討」高畑ら)とあるように、WHOが2001年に採択したICF(国際生活機能分類)の理念を先取りしていたものになっていることがわかります。
 ICFに関しては当時、どこの都立特別支援学校の経営方針にも「ICFの理念に則り」と校長の皆さんが書いたにも関わらず、具体的なアクションにはただのひとつもなかったと受け止めています。
 ですから曖昧とした思い込みを背景とした「重度」という言葉が残り続けていると思っています。
 しかし、私が子どもたちから学んだこととはまったく違っています。表面的な障がいの重さ(感覚や運動、コミュニケーションの制約)と内面の可能性や緻密さ、深さが全く異なると教えてもらいました。子どもたちに教えたもらった、子どもたちから学んだ気づきが確信へと変わっていく中で、私にとって「重度」という言い方は避けるべきものと考えるようになっています。「重度」=「可能性が少ない、可能性がない」という思い込みと切ることが難しいからです。
 ですから、私自身は「運動やコミュニケーションの制約が大きいお子さん」とちょっと長くなるのですが言い換えをして説明をすることにシフトしています。
 大学の授業でも思い込みと現実の間のギャップの存在については何度も何度もお話ししているつもりです。
 そして世界との大きな乖離を強く感じています。ひっでぇ遅れようだと。


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