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「なぜレースの写真を撮るのか」 vol.2

vol.1はこちら。

言いたいことがまとまっていないのは通常運転。
読みにくくて申し訳ないと思いながらも、自分の文章力・構成力のなさに愕然とする日々。
文芸コースに入りなおそうかしら。

それはいいとして。

どんな事を考えながら撮っているか。あえて言葉にするとvol.1のような感じ。まあ、今後目指すべき場所へのテーマ設定も、撮り方も、ずっと考え続けている。どんな物事、スポーツの世界にもジェンダー、社会・環境問題、空間と人間…など、何か背景にある様々な問題点や疑問に上がる事象は絶対にあるはずだし、光と影の部分、そのAMBIVALENT(英語表記にしてみた)な視点を常に持つことは大事。

とはいえ社会性が全てではないと思うし、スポーツの世界の写真は、そもそもそれが全面的に押し出されるものでもない。報道の部分が大部分を占め、それはキレイでカッコいいのだが、表現とはまたスタンスが違う。そのシーソーのバランスは常に均衡し、どちらが良いというわけではない。でも魅力を、クルマのカッコよさを…などと簡単にいうのはあまりにも浅はかに感じてしまうのはなぜだろう。

モータースポーツの世界で、自分は写真で何を表現していきたいのだろう。何を伝えたいのか、何を見せたいのか、このスポーツの、モータースポーツの何を。その意図は何か、深く深く潜らなければならない。

ここでは最近の自分の写真について書いていく。

※掲載写真の無断転載を禁じます。



ここ最近のライフワークとして創り続けている作品がある。昨年、一昨年と2年連続で展示をした「Planet」シリーズだ。

「The Planet '23」

以下、ステートメント・コメントの一部抜粋(改)。

ここでは「モータースポーツの儚さ」を掲げた。モータースポーツでは、死を連想させるような内容はタブーであり、「絶対に表現してはいけないこと」と認識されている節がある。ここでも直接的な表現は避け、サーキット全体を宇宙、クルマやドライバー・ライダーを惑星と見立て、地球から見える星の輝きの裏側にある、淡く消えやすい、ある種の尊さや愛しさから映し伝え出そうと試みた。暗い闇の背景から、クルマやバイク・ライダーの輪郭だけ浮かび上がり、まるで宇宙の中に浮かぶ惑星や流れ星、星雲のようなイメージに仕上げた。

レースはスタートの合図とともに観客という名の太陽を中心にサーキットを周回し、様々なことが起こりながらも順位を争い、チェッカーと同時に終わる。人もクルマも一日全開で走り切り、その瞬間は輝きを増している。それは星の一生のようで、どこか人間の一生の物語のようでもあるのではないか。宇宙の中の全てのもの、星も我々人間も、いつかは必ず終わりが来る。永遠だと思っていても形あるもの全てやがて消えていく存在である。ある意味、人間は生と死を切り離して考える典型的な生き物であり、死と隣り合わせとよく言われるモータースポーツでも、長く重大事故が発生していない現状では、身近な死をいつしか遠ざけるようになった。生と死はいつでも隣り合わせで、その極限状態であるからこそ、我々に感動を与えてくれている。
それを星や惑星に重ね合わせることで、儚さ・尊さ・愛しさを通して深い場所にある意味合いを伝えることができたらと考えている。

モータースポーツの写真の多くは、競技内容と魅力をより強く大衆に伝えるために、クルマと人の決定的瞬間を「カッコよく」切り取っている。そんな写真へのアンチテーゼも追求していきたい。

大学写真演習課題コメント(改)

レースは星の一生の様。
常に全力で輝き続けるレーシングマシンとドライバー・ライダーを、サーキットを宇宙、クルマやバイクは惑星や星雲に見立てた。

スピード感が排除され、数々のスポンサーも際立つことはない。普段有機物として存在するモノが、ある意味、無機質なモノに変容する。目の前の空間には独特な緊張感が漂い、静かに我々の前に現れる。そこに現れるメタファーは、生と死の狭間で聞こえる競技者の息づかいと鼓動であり、それはエンジン音や観客の応援と共に我々の身体を震えさせ続けてくれる。それは、儚く、とても愛おしい。



ここまでまとめて一つの作品として発表している人は見たことは無いが、1枚ではCAPAの流し撮りグランプリでも見た(気がする)。書いていて気付いたが、「アンチテーゼ」という言葉はここで使っていたんだな。この頃からやっぱり違和感は感じていたのだろう。

ちなみに、これは大学の写真演習テキスト課題に、タイトルは違えど同じコンセプトで提出した。白井先生の講評にて、「死≒宇宙」という結びつきについては注意深く考えていった方が良い、イメージに対して漠然とした印象などの講評はあったが比較的良い印象で、高い評価を頂いた。

競技車だけでなく、色々な動きものでやるのも面白いのではないか、とも。なので最近は街の中の「動くもの」を撮っている。

はとバスは自分でも何か良いと思っているんだけど。
飛行機はなんか違うのかもしれぬ。

無機質な造形美。
そうなると当初のコンセプトとは違ってくる。
どうまとめていこうか、どこで発表するか?
このシリーズは今も続けて悩んでいる。



最近では小説やエッセイからインスピレーションを受けた写真や、森山大道、中平卓馬に代表される「アレ・ブレ・ボケ」の1960年代PROVOKE的表現に傾倒している部分もあり、モノクロで撮影することが多くなった。いわゆる技術としての憧れである。あのような写真をかっこいいと素直に思うからだ。やはりモノクロが好きなのだ。なぜかは分からない。惹かれるものは多数ある。ことあるごとに、色を排除し白と黒だけで撮ってしまうのだ。

森山大道から派生をし、猪瀬光にも行き着く。
あの世界観を、今は目指している。
果てしなく遠いが…




写真クラブで展示をした手紙シリーズはその流れを汲む。去年出展した「Fiscoへの手紙」がシリーズ第1作。昨年の写真展はWebカメラマン記事にも取り上げられ、自分の写真も展示写真の一部として紹介された。ありがたい限りである。

昔の富士スピードウェイに行ってみたい
昔のレースを観に行きたい

そんな想いから
昔のFISCOを訪ねる旅に出た

30度バンク、パドックトンネル跡…
今も残る数少ない遺構
あの時代のレースを体感したかった
あの時代の富士に行きたかった

変わりゆく富士スピードウェイ

「あの頃」の富士へ 手紙を書きました

キャプションより




今年出展した『菅生物語』もそうだ。柳田國男、そして森山大道の『遠野物語』からインスピレーションを受け、ほとんど一日で撮りあげ創り上げた。岩手県遠野の地における妖怪の伝説と、SUGO開催のレースでよく言われる魔物の存在が結びつき、同じ東北の山奥という地も相まって作品自体のコンセプトはすぐに出来た。

『菅生物語』(2023)

この写真はすべて
陸前国のスポーツランドSUGOにて写しき

自分もまた一意専心をも加減せず
感じたるままを写し撮りき

思うに菅生には
様々なレースの物語
なお数百件あるならん
我々はより多くを見たることを切望す

国内のレース場にして
菅生よりさらに物深き所には
また無数の魔物の伝説あるべし
願わくはこれを視て
モーターレーシングを広く伝播せしめよ

これら写真のごときは極々一端のみ

キャプションより

キャプションはオマージュだ。

まあ、これがモータースポーツの写真なのかといったら、人によって色々な見方があり、評価は分かれる事は容易に想像出来る。このような写真をモータースポーツの写真展などで見た事はなく(もしかしたらあるのかもしれないが)、これもその類のものなのか、批判もある事は想定済み。今回の背景には「魔物」の存在が見えてくるもの、ではあるが、果たしてそれが表現として上手く意味付けられているか、適切かどうかは写真のセレクトも含めて、まだ考察の余地はある。

2024 Focal 写真展 展示風景


このシリーズはそもそも一枚一枚をじっくりと凝視し観てもらうようなものではなく、全体で一つの作品だ。もっと埋めればよかったとも思う。組写真と言ったことはあるが、色々な意味での便宜上であり、本質的には違う。

『菅生物語』はまだ完成には至っていない。今回はある種、まだ完成されていない物語全体の作品のダイジェスト版ともいえる。村田町を含めた街並みや人々の暮らし、祭りなども撮れたらいい。それが菅生物語の完成系だ。魔物コンセプトから外れるかもしれないが、ドキュメンタリー形式でまとめても良いだろうとも思っている。

今回もこのような展示としたが、ここは個展の集まりというコンセプトだし、他のメンバーの作品との差異を設けたインパクト狙いもあるが、こうした写真作品もあっていいだろう。同じような「かっこいい」写真ばかり並ぶよりかは、ね。

『いい写真ばかり並べたらいい写真集ができるかっていうとそうじゃない。それって音楽でいうとベスト盤みたいなもの。ベスト盤で面白くないじゃない?』

あの方

ちなみに、これは誰の言葉かは、調べれば出てくる。
展示はまた違うって言われると思うけど。


最近頭に浮かんだ来年の展示プランがある。これもあるモノのオマージュであるが、おそらく写真展への批判的意味合いを感じる人もいるだろうし、何か沸々と疑問点が湧き出る人も出たり、様々な意見が出るだろう。

まあ、それもまた面白い。
どうなるか見てみよう。



思いのほか長くなった。
vol.3にいこう。

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