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2024年映画鑑賞記録その1(ネタバレあり)

1月1日
新宿シネマカリテにて、ギャスパー・ノエ監督『VORTEX ヴォルテックス』(2022年)とアキ・カウリスマキ監督『枯れ葉』(2023年)を鑑賞。
Amazonプライムにて、土井裕泰監督『花束みたいな恋をした』(2021年)を鑑賞。

新宿シネマカリテにて
新宿シネマカリテにて

感想

 『枯れ葉』鑑賞後に映画館のロビーで「私、こういう何も起こらない映画って好きなのよね、けっこう」と興奮気味に話す女性を見かけた。この発言はとても興味深いと思うので、少し考えてみたい。何も起こってないはずはないし、かと言って「何も起こらない映画」と言いたくなる気持ちはわからないではない。「何も起こらない映画」のレビューには、しばしば「淡々としている」と書いてあることがあると思う。この「淡々としている」という感想を誘引する作品の雰囲気はどこから立ち上っているのだろうか。『VORTEX ヴォルテックス』(以下ヴォルテックス)と『枯れ葉』は、共に「淡々としている」とは思われるが、私の印象としては前者はロダンくらいマッチョで、後者はジャコメッティくらいガリガリだ。この蓋作品から「淡々としている」のグラデーションを探ってみたいと思う。

VORTEX ヴォルテックス

 先に告白すると、私は『ヴォルテックス』の前半部で居眠りをしてしまった。孫のキキがテーブルをドンドンと叩いて鬱陶しいというシーンあたりで目が覚めてきたように思う。前半部をどれだけ寝ぼけて見てしまったのかはわからないが、見ていて気になったことを挙げながら考えてみたい。
 まず、冒頭でスタンダードサイズかスクエアサイズで映像が流れ、歌のシーンが入って、夫婦の会話があって、その後夫婦が寝ているベッドの、真上からのカットで、上部中央から真下に黒い線が引かれることで二分割画面になったように思う。二分割画面では二つのカメラによって、主に夫婦それぞれが捉えられている。家の中で別々に行動している2人をそれぞれ捉えているため、どちらを見ればいいのか迷ってしまう。また、2人の会話だけでなく部屋にはラジオがかかっていて、情報が非常に多い。聖徳太子並みの処理速度が要求される混沌さである。二分割画面で各々行動している夫婦の孤独感というか個人主義的側面が強調されている。しかし、私が見逃した間に登場していた息子の存在のおかげで、家族の関係性が見えてくる。すると、一見、個人主義の表現かと思われた二分割画面は、夫婦の各々に内在した互いの存在が透けて見える装置に変わる。明確に画面を二分割している黒い線が細胞膜のような半透性の線となり、夫婦が互いに互いを思っている部分が見えてくる。
 キネ旬で真魚八重子氏が書かれていた、認知症の妻も常にボケているわけではなくて、映画評論家の夫の原稿をトイレに流した時は、ボケたふりをして浮気に対する憎しみを晴らそうとしたという解釈は面白い。ボケるということが身の回りの環境を認識できなくなるということとすれば、二分割の線はボケの線とも考えられる。ボケたふりをするということは、二分割の線を越境しているとも捉えられるわけで、どれが本当のボケでどれがボケたふりなのかはわからないが、わからないが故にパノプティコンのように常に越境行為が行われているように感じるのかもしれない。ガスをつけっぱなしにする自殺行為もボケたふりだろうし、繰り返し見たらもっとわかることがあるかもしれない。
 俳優としてのダリオ・アルジェントは、笑っちゃうぐらいによかった。つっかえながら話す感じの生っぽさや怒鳴り方やシルエットも素晴らしい。倒れるところのぶっきらぼうさはやはり俳優ではないからなのか、気になったとしたらそこぐらいだった。ただあの下手な倒れ方は、葬式のシーンで流れるスライドショーが、医者だったはずの妻の医者らしい姿よりも女優フランソワーズ・ルブランの過去の写真みたいなもので構成されていたような、メタ的な演出かもしれないとも思う。
 フランソワーズ・ルブランは素晴らしいと思った。あごなどに手を当てる芝居がボケてしまって現状をうまく把握できていない、不穏な状態の認知症患者っぽくてリアルだった。横になって寝ている時に口に手を持っていっている様子も、おばあさんだけど赤ちゃん返りしているようなボケた感じが出ていた。かと言ってボケていない明晰な瞬間との演じ分けもシームレスでスムーズで全くわからなかった。素晴らしかったと思う。夫が亡くなった後の狂気も訳がわからなくなって完全にイカれた芝居をしているかというと、隣人に対した時の不安げな表情には生命を感じるし、『死刑に至る病』の阿部サダヲのようなイっちゃってるような感じではない。狂っていたとしてもボケていたとしても、正気と首の皮一つ繋がっているように見える。だからこそ、最後のガスを付けるときは数少ないボケていない明晰な瞬間だったのではないかと思うのである。あのシーンが意識が明晰な瞬間だったと思いたいのは、片方が黒く潰れた二分割画面の中で、その行為が行われると、ボケたのが辛いから死んだというよりも夫のことを想っての自殺のように見えるからである。この映画は死に向かっていく話であるけれど、崇高で美しいものに感じられたのは、フランソワーズ・ルブランの聡明な演技の賜物だろうと思う。
 ついでに、最初はなんのことかわからなかった、黒味がサブリミナルのようにチラチラする演出は、電球が切れる前のチラチラする感じを表現しているのだろうか、などと考えた。
 『ヴォルテックス』のマッチョさは、画面を二分割してしまうという無骨さもさることながら、二つのカメラと別々の会話と別々の行為と部屋で流れるラジオなどという一度に与えられる情報量の多さによるファットな印象とそれをギュッと絞っているフィットネス具合に起因している。

枯れ葉

 では、『枯れ葉』のガリガリはどうかというと、アキ・カウリスマキ監督特有の質素さに起因していると思う。登場人物が貧しい労働者であり、煌びやかな感じは一切ない。衣装はかっこいいけれど、高価さは演出されていない。このガリガリ感を他の人はどういう風に言っているのだろうか。貧乏労働者の恋愛という作品のテーマとしても、無表情でセリフもあまり多くない演出も片岡鶴太郎ばりのガリガリ感があると思う。
 女性観客が言った「何も起こらない」という件については、ここではっきりと言っておきたいことがある。この映画は途中で登場人物が交通事故に遭う。何も起こっていないはずはないのである。生死を彷徨うのだから、相当なことが起こっている。にもかかわらず、「何も起こらない」という印象が与えられるのは、主人公が基本ローテンションでノーリアクションに見えるからである。今のところの私は、ラストシーンのウインクのカタルシスを作るための禁欲として、無表情でローテンションで、という演出なのではないかと思っている。もちろん、アキ・カウリスマキの伝家の宝刀的な演出法だと思うが、それがウインクで解決されたのはかっこよかった。また、ローテンションとノーリアクションにウクライナ侵攻を伝えるラジオの音声が乗っかると、怒りと悲しみの表情に見えてくる。だからこその控えめなウインクでの解決なのだ。怒りと悲しみを引き受けながら、それでも目の前の人を祝福するためにするウインクはとても美しい。
 ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』を初デートで観にいくシーンがあるが、ローテンションとノーリアクションだと、初デートで観る映画の選択をミスったという演出に見えるが、映画がどうだったかは置いておいて、デートは成功だったという話になると、観客の私たちの予想が当たるか外れるかという決着をできるだけ保留する演出になっている。これをオフビートというのかもしれない。
 また、ローテンションとノーリアクションに加えてノーアクションというのもこの作品にはある。マノエル・ド・オリヴェイラ監督なども似たような演出をするが、その演出では、演出が施されているということを前面に出すことになる。これは、赤坂太輔の「上演の映画」の議論に近いと思うが、この作品の恋物語は作り物であり、リアリティを売りにしているわけではないことも面白いことであると思う。登場人物2人の恋が作り物であること、それを観客が楽しむことは、恋愛リアリティショーを見るのとは異なる質の恋の駆け引きの楽しみ方である。
 音楽が楽しかった。

淡々としている

 上記の二つの作品は淡々としていると言われることがあるが、おそらく淡々としている部分が異なる。『ヴォルテックス』が淡々としているのは、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』が淡々としているのと近いだろうか。舞台がほとんど変わらず、家の中での生活をカメラで記録したかのような映像で、風景が変わり映えしない。そのことを淡々としていると言っているのだ。人が死ぬのに淡々とすることがあるか。『ゴドーを待ちながら』とか『しあわせな日々』とかベケット的な淡々としている、かもしれない。
 『枯れ葉』が淡々としているのは、ローテンション、ノーリアクション、ノーアクションである。特に、その中でもノーリアクションが淡々さを助長しているだろうと考える。あるべき反応がないから流れてしまうのである。ツッコミが入らないとボケもスベってしまうように。
 カメラで撮影した映像として、変わり映えがしないことで淡々としているのか、それとも役者の表情など芝居が淡々としているのか、どうやら淡々としているベクトルは少なくとも二つはあるようだ。

追記

 元旦に映画館で映画を観る人は多いようだ。新宿シネマカリテに初めて来たと話しているお客さんもいた。

花束みたいな恋をした

 遅ればせながら初鑑賞。ナレーションが多いなと思ったが、坂元裕二のテキストは遊びがあって楽しいから悩ましいところか。別れのシーンはファミレスの外で抱き合うところをピークとして、運びが確実だった。確実に感動する。オフで若い男女の会話を聞きながら、自分たちの過去と重ねて泣く菅田将暉と有村架純の顔はいつまでも見ていたい。

シベリア文太の快盗くいしん坊

 私が助監督と編集で関わった映画『シベリア文太の快盗くいしん坊』が昨年12月2日より2週間限定で上映しておりました。追加上映が決まりました。ぜひ観にいらしてください。
日時
1月5日13時〜
1月10日14時〜
1月11日14時〜
場所:横浜シネマノヴェチェント
料金:1600円

助監督と編集で関わった映画

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