Sugar Salt #1
「ありがとうございました〜」
感情のこもっていない声で何人目とも分からないお客さんを見送る。
飲食店で二年も働いていれば、こうなる。
24歳、一人暮らしのフリーター。
このワードを耳にして、一体誰が興味を持つだろう。
こんな生活をしている自分に嫌気が刺すか?と聞かれれば当然答えは “Yes” だ。
かと言って、今更就活をする気も会社員として頑張っていく気もない。
会社員になったって給料は今とさほど変わらないし、責任を背負って精神をすり減らすくらいなら、多少給料が少なくともこのままフリーターとして生きていく方がよっぽど楽だ。
───なんて言い訳を俺は何歳まで続けるのだろうか。
いつかは向き合わないといけないと分かっていても、どうしても一歩踏み出す勇気が出ないのだ。
まだ大丈夫、なんて言い聞かせながらいつも目の前にある現実から目を逸らしてしまう。
…ダメだ、仕事場でこんなことを考えていたって仕方ない。
今は仕事に集中しよう。
俺は考えることをやめて、仕事に戻る。
確か洗い物が溜まっていたはずだ…。
しかしそこに一人の女の子が現れた。
「や、山下さん、おはようございます」
「おはよう、遠藤さん」
挨拶をしてきたのは遠藤さくらさん。
最近アルバイトで入ったばかりの大学生だ。
今の挨拶で分かるかもしれないが、少し人見知りの傾向があるらしい。
セクハラだと訴えられるので本人には言えないが、非常に可愛らしい子だと思う。
オーダーを取りに行って連絡先を聞かれているのをちょくちょく見かける。
「あの、今日もよろしくお願いしますっ」
「うん、よろしくね。オーダー取るのは慣れた?」
「早口のお客さんだと端末の操作が追い付かなくてパニックになっちゃいます…」
「あー、たまにいるよね。そういう時は最後にオーダーを復唱して他に聞き漏らしてるご注文はございましたか?みたいに確認するといいよ」
「なるほど…勉強になりますっ」
と、丁寧にメモを取る遠藤さん。
真面目な一面も好感が持てる。
“ピンポーン”
お客さんからの呼び出しを知らせるベルが鳴る。
「あ、私行ってきます」
「うん、お願いね」
幸い暇な時間帯だったので、何かあった時すぐ駆けつけられるようにお皿を洗いながら彼女の事を見守る。
遠藤さんはオーダー用の端末を手に持ってはいるが、オーダーを取っている様子は無い。そしてその表情は困惑しているように見えた。
お客さんの方を見ると、若い男性二人がにやけながら遠藤さんに話し掛けている。
なるほど、そういう事か。
俺は手を拭いて、彼女の元へ向かう。
「あの、ご注文は…」
「そんなことよりさ、連絡先教えてよ!」
「あ、それかここで一緒にご飯どう?」
「いや、そういうのは、困ります…」
男性二人が少しヤンチャな見た目なのもあるのか、遠藤さんは怯えているようにも見えた。
俺はそこに割って入った。
「あの、どうかなさいましたか?」
「や、山下さん…」
遠藤さんの目には涙が浮かんでいた。
よっぽど怖かったのだろう。
「はぁ?あんたの事は呼んでねーよ」
「そーそー、俺達は遠藤ちゃんに話し掛けてんの」
二人の鋭い視線が突き刺さる。
しかし僕はそれを無視して、遠藤さんへ笑顔を向けた。
「遠藤さん、店長がシフトのことで呼んでたから行っておいで」
「でも…」
「いいから、ほら」
遠藤さんの背中を押して無理やりバックヤードの方へと向かわせる。
すると遠藤さんは戸惑いながらも歩き出してくれた。
ふぅ、と一安心したのも束の間。
男性二人の表情は明らかに苛立っていた。
「お前、舐めてんの?」
「いや、そんなことは───」
ないです、と否定しようとしたがその瞬間顔面に冷たい何かを浴びせられた。
どうやらお冷を掛けられたらしい。
この時代にこんな事する奴がまだいたとは…。
「マジか…」
あまりの驚きについそう呟いてしまった。
「遠藤ちゃんと話せねぇならもういいわ。おい、行こうぜ」
「おう」
そう言って二人は店から出て行った。
俺はというとその場に立ち尽くしてしまっていた。
こんなことされる為に働いてるんじゃないんだけどな…。
イレギュラーな出来事だと分かっていてもそんな事を考えてしまう。
暇な時間帯とはいえ、他にもお客さんはいたからその人達の視線も全て俺に集中していた。
全てが哀れみの視線に思えて、惨めだった。
立ち尽くしていても仕方ないので、俺は濡れた床を拭くための雑巾を取りにバックヤードへと戻った。
「雑巾何処にあったかな…」
「山下さん!」
バックヤードの中を探索していると、遠藤さんと出くわした。
「おー、遠藤さん。怖かったね〜、大丈夫だった?」
気丈に振る舞ってそう言うと、何故か遠藤さんは驚いていた。
「私より山下さんが大丈夫じゃないです!」
彼女の視線の先は俺の髪に向けられていた。
「え?あぁ、お水掛けられちゃったんだよね」
笑いながら言うと、遠藤さんは更衣室の方へと走っていってしまった。
「あれ、何かまずかったかな」
しかし、遠藤さんはすぐに戻ってきた。
そしてその手には可愛らしい花柄のタオルが握られていた。
遠藤さんは再び目を潤わせながら俺の濡れた髪にぽんぽん、とタオルを当ててくれた。
「ごめんなさい、私のせいで…」
「遠藤さんは悪くないでしょ。あれはお客さんが悪いよ」
「でも私がハッキリと断ってたらこうはならなかったのに…」
真面目すぎるが故に、尾を引いているようだ。
どうしたものか…
「あー、大丈夫大丈夫。今日暑いでしょ?涼しくなってむしろラッキーみたいな?」
すると遠藤さんはクスッと笑って
「もうっ…嘘が下手なんですから…」
と言った。
この日初めて俺は、彼女の笑顔を見た。
初めて見るその笑顔が、シャッターを切ったかのように脳裏へと焼き付いていく。
あまりにも衝撃が強かったせいか、時が止まったのかと錯覚しかけた。
「…山下さん?」
上目遣いで僕を見つめる遠藤さん。
よく見るとクリクリとした可愛らしい目をしている。
「…遠藤さんって笑うんだ」
「っ…私、笑ってましたか…?」
何だ、自覚なかったのか。
「うん」
俺がそう告げると、彼女の顔は次第に赤くなっていった。
俺を見つめていたはずの目はすっかり下を向いてしまっていた。
「あの、そのぉ…恥ずかしいので忘れてください…」
「えー、笑顔でいられる職場って事なんだからいい事じゃない」
「うぅ…穴があったら入りたいです…」
あんなに可愛らしい笑顔を見れたなら、今日起きた嫌な事はチャラかな…。
────────────────────
その日の営業が終わり、更衣室で着替えていると隣で着替えを終えた齋藤優大が話しかけてきた。
「山下さん、この後飲みに行きません?」
「はぁ?急になんだよ」
「いいじゃないですかぁ、俺前から山下さんと飲んでみたかったんですよ」
確かにコイツは何故か俺のことを慕っている。
何を気に入ってるのかは知らないが、慕われるのは悪い気はしていなかった。
明日は確か…休みだったはずだ。
「大学は?」
優大は確か大学三年生だったっけ。
遠藤さんも三年だったよな…。
「明日は三限からなんです!」
まぁ、ここまで言ってくれてるし付き合うか…。
「はぁ…居酒屋でいいか?」
「よっしゃあ!」
しんと静まり返ったバックヤードに優大の声が響いた。
「ばか、うるさいよ」
軽く頭を叩くと優大は小さい声で“す、すいません”と謝った。
こいつ、時々素直すぎるんだよな…。
………
優大を連れて近くの居酒屋に入る。
個室のない所謂大衆居酒屋というやつで入店した瞬間に賑やかな雰囲気が俺達を包んだ。
案内された席に座る。
「いやー、山下さんと飲める日が来るとは」
お世辞でもなんでもなく、優大は本当に嬉しそうだった。
お酒がまだ入ってないせいか、照れくさかった。
「何飲む?」
「とりあえず生でしょ!!」
「イキり大学生かよ」
「お、俺は美味しいと思って頼んでますから!…本当っすよ!?」
必死なのがもう…。
「すいませーん、生ビールとレモンサワー1つ」
「女子すか?」
「ここ、優大の奢りな」
「わぁぁ!すいませんって!」
「酒はあんまり得意じゃないんだよ」
「それなのに飲みに付き合ってくれるなんて…一生付いていきます!」
「お前…人生楽しそうだな…」
表情や機嫌がコロコロ変わって本当に面白い。
見てる分には一生飽きなさそうだ。
「良い友達と、バイト先に最高の先輩がいますからね!」
これを素で言えてしまうのがこいつの何よりの長所だろう。
本人には言わないけど。
そんな会話をしている内に先程頼んだ生ビールとレモンサワーが届いた。
二人でジョッキを突き合わせる。
「乾杯」
「乾杯!!」
僕が一口だけ飲んだのに対して、優大は一気に飲み干した。
「すいませーん!生ビール一つ!」
「そんな飲み方してたらいつか身体壊すぞ」
「俺酒強いみたいなんですよね!」
「モテる男は飲める自慢しないぞ」
「え!マジすか!じゃあこれからは控えめにします!」
「そうしろ」
あまりにも真っ直ぐ受け止められたものだから思わず笑いながら言ってしまった。
素直すぎて心配になるレベルだ…。
「え?て事は山下さんもわざとレモンサワーを?」
「いや俺は本当にお酒が弱いし、そもそもなんでお前の前でそんなことするんだよ」
「あ、確かに…」
「こんな事言わせんなよ、アホ」
「さーせん…」
………
そんなこんなで飲み始めてから二時間が経過した。
酒が強いというのは本当だったらしい。
優大は俺よりもハイペースで飲み続けているというのに飲み始めた時からまるで変わっていないように見える。
しかし俺はというと、久しぶりに飲んだということもあり、かなり酔っ払ってしまっていた。
「あー…」
「だ、大丈夫ですか?」
優大の心配する声も殆ど上の空で聞いていた。
「おぉ、だいじょーぶだいじょーぶ」
「そろそろ帰りましょうか!すみません!お会計お願いします!」
酔っ払ってはいたが、歳下にお金を出させてはならないという事だけはハッキリ覚えていた。
優大は自分が誘ったのだからと言って聞かなかったが、無理やり支払いを済ませると深々と頭を下げた。
こういう所を見ると、つくづく良い同僚を持ったなと思う。
外に出ると、優大がこんな事を聞いてきた。
「山下さんは彼女とか作らないんですか?」
と
答えに迷うことはなかった。
「俺のことなんて誰も好きにならないよ」
自分の事は自分が良く分かっている。
性格も見た目も特別良くないし、大した貯金もないフリーターだ。
そんな奴を誰が好きになるだろうか。
「俺が女だったら絶対山下さんを好きになりますけどね」
ネガティブな言葉が頭を独占しかけたその時に、優大の放った言葉は一気にそれらを霧散させた。
「ははっ、何だよそれ」
「山下さんカッコイイし性格も良いじゃないですか!」
酔っ払っているせいで本気で言っているのか、はたまた冗談なのかは区別出来なかったが、元気付けようとしてくれていることだけは伝わった。
「ありがとな」
そんな言葉を交わして、俺達は解散した。
………
覚束無い足取りで歩く。
「少し飲み過ぎたな…」
帰り道の途中にある小さな公園に寄り、ベンチに腰掛ける。
何の気なしに空を見上げると、満月が夜空に浮かんでいた。
ふと思う。
いつから俺は、満月を見ても何も思わなくなったのだろう。
子供の頃はそれだけで特別に思えたのに。
満月だけじゃない。
色んなことへの興味が薄れていって、今ではやりたいと思うことも無くなった。
テレビ等で同じ年齢の芸能人を見ると、何故そんなに活き活きとした目をしていられるのか不思議に思うことがある。
それと同時に、何故自分はそうじゃないのかと。
つくづく、自分は悲しい人間なんだなと。
疲れ切った心で
生きるために働いているのか、
働くために生きているのか、
守るべきものもない、悲しい人生だ。
かと言って死ぬ勇気なんてあるわけもなく、明日も明後日も、こんな事を考えながら生きていくのだろう。
…帰ろう。
徐に立ち上がると、数メートル先にあるブランコに一人の女の子が座っている事に気が付いた。
こんな夜中に一人で大丈夫だろうか。
いや、近所に住んでいる子なのかもしれないし、そもそも俺には何の関係もない。
俺は一つ呼吸をして歩き出した。
しかし女の子の前を通りがかった時に聞こえてきたのは、すすり泣く声だった。
───思わず立ち止まってしまった。
話を聞こうとか、そんな事を思ったわけじゃない。
ただ通り過ぎる事が出来なかっただけだ。
しかし、立ち止まってしまった以上声を掛けた方がいいだろうか。
いや、こんな夜中に男から話し掛けられたら怖い思いをさせてしまうだけかもしれない。
それならとっとと歩き出した方がいいだろう。
幸い女の子は泣いているせいか、俺には気付いていない。
よっぽど深い悲しみの中にいるのだろう。
ここで俺は、見て見ぬふりをしていいのだろうか。
どうするべきかも、自分がどうしたいのかも分かっているのに、また面倒だからと目を逸らすのか?
気づけば俺は、女の子に声を掛けていた。
「あの、大丈夫ですか?」
突然の事に女の子はハッと顔を上げた。
「え、あ、ごめんなさい。うるさかったですよね」
「いや、そうじゃなくて。泣いてたので大丈夫かなって」
「大丈夫…ではないかもです」
見ず知らずの人にそこまで素直に言うということは、余程の事があったのかもしれない。
「話、聞いてもいいですか?」
「え…?」
客観的に見て気持ちの悪いことをしてるのは分かっている。
でも、この女の子を今一人にしてはいけない気がした。
「あー、まぁ、話すだけでもスッキリするかもしれないし。居ないものとしてもらっていいので」
俺が笑いながらそう言うと、彼女は戸惑いながらも話し出してくれた。
「…彼氏に浮気されちゃったんです」
“浮気”
そのワードに心が酷く乱された。
「そう、なんですね」
自分から話を聞いておきながら、上手く言葉が出なかった。
「しかも私と仲良かった友達と」
「…それは辛い、ですね」
蘇る記憶。
底なし沼へと引きずり込まれている気がした。
「彼を問い詰めたら、お酒の勢いだったって。もう絶対にしないって言われました。でも、信じられなくて…」
浮気する奴は、どうしてこうも自分勝手なのだろうか。
される側の事を考えれば、立ち止まることなんて簡単な筈なのに。
「まだ気持ちは彼に?」
彼女は少し黙った後、こくりと頷いた。
「あなたはどうしたいんですか?」
「…どうしたらいいのか、どうしたいのか、分からなくなっちゃいました」
力無く笑う彼女を見て、どうしようも無いほどに胸が締め付けられた。
「今日会ったばかりの人間に言われても腹が立つかもしれませんけど…別れた方がいいと思います」
「…ですよね」
「一回でも浮気する奴は絶対にまた繰り返しますから。今は辛いかもしれないですけど、あなたには絶対にもっと素敵な男性が現れると思います」
「そんな人、いますかね」
「絶対にいます。なんなら俺が紹介してあげますよ」
冗談交じりにそう言うと
「ふふっ、優しいですね」
彼女はようやく笑みを見せた。
俺に出来るのはこれくらいだろう。
「すみません、帰りますね」
「あっ、ありがとうございました!」
「いえ、こちらこそ」
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公園から十分程で部屋を借りているアパートに到着する。
いつ見ても、ボロいアパートだ。
部屋に入った途端、すぐに眠気に襲われた。
俺は服も着替えずにベッドへと倒れ込む。
薄れゆく意識の中で、
俺は“あの子”の事を思い浮かべた。
何故だか分からないが、今日をきっかけに何かが大きく変わるような気がした。
…いや、
「考えすぎ、か」
そして俺は、若干の気持ち悪さを覚えながら、意識を手放した。
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