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パニック障害だろう、と言われた

パニック障害だろう、と診断された。
と同時に、わからんけど、躁鬱の疑いもあるよ、と言われた。

最初のパニックから2週間、今は休んでいる。
全ての仕事をキャンセルさせていただいて、ずっと休んでいる。
わかる人にはわかる言い方で言うと、ゼルダの伝説・ティアーズオブザキングダムのコログの実を攻略なしで840個集めたところだ。
とんでもない暇人にしか成しえない偉業(暇業)である。
何もしないで休む、というのが、なかなかできない。思考が回ってしまう。
ボケっとゲームをする、くらいの、中途半歩に脳のCPUを割いてくれつつ疲労しすぎないくらいのタスクを無限に与え続けているのが、今は一番、結局休まるのだ。

パニックのピークは15分くらいってのが定説で、人によってはその間に気を失っちゃったりするらしい、が、福永の場合は1日中無限ループのように続いていた。きっといろんなことが人によるのだ。それは精神疾患に限った話ではない。

症状のコアについては今も思い出すのが怖いので、まだ書かない。
ちょっとトラウマみたいになっている。専門用語でいう予期不安。
じゃあ何を書くの?って話ではあるが、でも文章を書くのってそういえば好きなことなので、試しに書いてみる。今日はそういうnoteだ。
まだあんまり難しいことを考えるとすぐに脳が疲れてしまう。
ボワボワしてきて、全然考えられなくなるのだ。
そんな状態の時に福永がどんな文章を書くのか、気になった。
そんなことが気になるくらいには回復してきている、と考えても良い。

従ってここから先書く内容にもしかしたら配慮に欠けるものがあるかもしれない点を、あらかじめ断っておきたい。まだ広範を思いやる余力が…あまり感じられないのだ。もちろん何かを攻撃するようなことは決して書かないつもりだし、そういう気分でも全くないけれど、無自覚に人を不快な気持ちにさせてしまうことは往々にしてあるものだ。つまり、こう断っておかないと心配なのだ。

医者の見立てによると、ここ数年間単位とかで、軽躁状態だったのが鬱に振れたんじゃないか、ということだ。とはいえまだ2回受診しただけなので、はっきりとはわからない。これからしばらく通院して、結局は自分で発見していくことになるんだろうと予想している。

福永はパニクった当初、どうせカフェインの過剰摂取が原因だろうと思った。
1日に2本モンスターエナジー飲んでましたからね。別に増やしても減らしてもいないけれど。
なにしろ、そう思う方が楽だった。原因がはっきりしないのは怖かった。

なのに、医者が躁鬱とか言うので、えーーーどうすれば良いの?と、別の意味でパニックになりかけた。
まあでも、2週間も経って落ち着いてくると、軽躁状態が続いていた、それが今鬱に振れ始めている、というのが、わからんでもない気がしてきた。
医者は冷静で、福永は混乱していたのだ、と思う。

別になんのストレスもなかったのである。
1日のほとんどは作曲の仕事をしていたわけだが、作曲をするのが面白すぎたので、思い切り没頭していたにすぎない感覚だ。
それに、比較する必要はないけれど、福永より忙しい作家はいくらでもいる。(この発想は現在一切放棄している、多分体に良くないから)
ストレスが溜まって精神疾患になる、という、いわゆる想像しやすい構図とは、少なくとも自覚の上では、結構違った。
楽しかったから、やっていたのだ。
そしてその楽しさは、ごく正直に言えば自分のためである。
クライアントワークではあるんだけど、音楽の探究の面に関しては単に己の楽しみのためにやっていたのだ。

だから自分がパニクるっていうのは全然予想してなかった。
無自覚のストレスだから、溜まっているつもりもなく、だから解消しようともしてなかった。
まずはこの辺、自覚した方が良いんだろうな、と思っている。



自分で自分を偉かったな、と思っているのが、最初のパニックの日の、途中、ちょっと波が引いている瞬間を見計らって、その時抱えていた全ての仕事をお断りさせていただく旨の連絡を各社に送ったことだ。
その時は、ただでさえ呼吸もできないような感覚なのに、締切のことが頭にチラつくと(このままじゃ色々間に合わない…!)治るものも治らない気がして、というか、ほんの少しでも楽になりたくて、すがるような思いでたどたどしい文章で連絡を送っただけなのだが。

事前知識として、まあどうせホルモンバランスの乱れが見せる妄想だろう、と、頭のどこかでわかっていた。
わかっていたけど、実際にパニクってしまうともうそれが現実すぎて、ちょっと逃れられなかった。
逃れられないにしても「どうせ妄想」が手綱になったのは確かだ。
だからそのバランスを整えれば良いはずだ、と思って仕事をまず断ったのだ。

仁義を通すべきだ、と思っていたのもある。
無言で締め切りを飛ばすということは、したくない。

今思うと
「どうせ妄想」→だから改善策を見つける
とか
仁義を通す「べき」だ

みたいな、そういうものに絡め取られているせいで今現在、休息を取るって行為がものすっごい難しいことになっちゃっている、そんな自分の癖でもあるのだが(完璧主義的、というか)

少なくともあの瞬間はその性質があって助かった。
良いとか悪いとか、簡単には断罪できないし、しないほうがきっとよい。
角度と場面による。
得意と不得意がある。だから互いに手を取り合うのだ。
つるつるの球みたいに完璧なもの同士は、手を繋ぐことが難しいだろう。

同時に病院を予約した。
これも、なにか心に支えを用意するほかないと思ったからだ。
心がみせる妄想なのだとしたら、そこに一筋の希望を見出す必要がある。
薬を貰えばとりあえずいっときは楽になるはずだ、という信仰。
だから明後日の病院まではとにかく生き延びようぜ、という信仰を自分に棹刺してみたのだ。

今これも思うのだが、現状の改善というスキルは常に「一旦自己否定」から入り、その状況をより良くするために「悪いところを改善」していくわけなんだけど…

鬱ってると、その「状況判断」がすでに歪んでるので、今はなんと言うか…本当に何も考えない方が良いんだ、と思っている。
癖で、現状を分析し、原因を突き止め、改善しようとしてしまう。
もう、癖なのである。

けど、軽躁状態で、ちょっとエネルギーを前借りして使いすぎたのならば。
今はとにかく、脳にエネルギーを返却しなきゃだし。
だから今の脳を使って原因の究明と改善を考えちゃうとよろしくないのだ。
BPMをぐっと落とすのが肝要なのだろうと思う。



福永はどうやら信じられないほど人に恵まれていて、運が良い。

仕事を断らせて頂いた各社、みな口を揃えて「大丈夫です、仕事の方は任せてください」「これで信頼を失うなんてことはないですから、今はゆっくり休んでください」と言ってくれた。

情緒が変なことになっていたので号泣した。
そんな返事を書くのって、勇気のいることだと思う。
だって、仕事の途中、締め切り半ばで作家が降りて、全然大丈夫なはずはない。
代わりの作家を探さなきゃいけないし、締め切りももう迫っている。
「余分の仕事」「しわ寄せ」が増えるに決まっている。

にも関わらず「大丈夫です」と言ってくれる人たち。
そんな人達に囲まれて、福永は仕事をしていたのだ。
誰一人、変なことを言ってくる人がいなかった。
もしパニックの最中に変な言葉に触れていたら、と想像するとけっこう恐ろしい。

心から感謝を伝えたい。



福永が一人で休まらないのをおそらく危惧してくれて、仕事もそこそこにサボって、一緒にゲームをしてくれる友人たち。

現在福永の部屋はトリプルスクリーン仕様になっている。
彼らが福永のティアキン(ゲーム)に付き合ってくれている。

一日中ゲームをしていて気づくことが一つあって。

時間は無限だ、と思えば、時間は無限なのだ。

大人なら誰でも知っているように、そしてほとんどの子供たちだって気付いているように。(あるいはもしかしたら子供たちの方が詳しい)

時間とは時計の針のことではない。

主観的なものだ。伸び縮みする。
楽しい時間があっという間に過ぎたことのある人は多いだろう。

時間に追われている時、時間を節約している時。
時間はどんどん短くなる。

福永には時間がある、と思う時。時間はある。

今は福永には時間が無限にあり、1日が極めて長い。
友達がコンビニに行きたくなったら「一緒に行かね?」に着いていく余裕がある。
急いでご飯を作る必要もないし、朝のルーティンはどんなふうに時間をかけて行っても良い。
友達の1日が今日はどうだったか、ゆっくり聞く余裕がある。
これは、仕事の有無とは、実は無関係なのではないかと思い始めている。
時間が無限にある、と「思っていること」が大切なのだ。
締め切りに追われている、と「思っている」時にはできなかった。

まだ全然、うまく言葉にできないのだけれど。
ここ数年、アドレナリンが放出され続けていて、楽しくて、代わりにそういうことがまるっきり忘れ去られていたような気がする。

確かに福永は今、仕事ができなくなったから休んでいるけれど。
仕事ができるうちにだって、休んでも良いはずで。
仕事をしながら休んでも良いし、仕事自体を休んでも、本当に全く構わないと思う。もっともっと、自由で良い。
休んで、時間の流れる様をよーく観察してみても良いはずだ。

時間は作るものだ、と言う。
それは、時間を節約して、短いスパンで多くのことをこなして、どうにかして余暇を生成すること…..ではないような気が、今はしている。

時間を作るのは、時間を想うことなのかもしれない、と。
それは陳腐に言えば、暮らしを思うこと、と言えるかもしれない。
本当はもうちょっとドラマチックな言葉にしてみたいんだけれども。




これもまた、最近忘れていたこと。
食事になど全く興味がなかったのだが、で、今でも別に美食家とも言い難いのだが。
みんなでご飯を作って食べる。
これが本当に大切なのだ。多分もう、群れの動物としての原始性というか、ゲノムレベルの必要性であって、理由は考察するだけ無駄に近いのではないかと思っている。

そんな時間を切り詰めるくらいなら、仕事の方を疑った方が良い、とも言えるかもしれない。

福永がこうなってから、福永の周りで健康ブームの機運が高まっていて、というのも福永の周りは無頼な暮らしをする奴らばかりなので。

「福永がならなくても、誰かはなってたかもね」がスローガンになった。
優しい…。
健康というのは栄養成分の一つ一つに目鯨を立てることではなくて。
睡眠時間の1分1秒に根詰めて質を上げることでもなくて。
こうやって集まって、一緒にご飯を食べて、お話をすることなのだと思う。

もっと自由で、適当で、良いのだ。




みなさんにSNSなどで自慢しようと思っていたのにせかせかしていて忘れていたことの一つで、今年の頭ぐらいに実はルネサンス・リュートを買っていたのである。

この間、調子の良い日に神社のある公園までいって、リュートを弾いてみた。

すると、風の音や、日差しや、遊ぶ子供の声と溶け合って…

まだまだきちんと弾けるわけではないし、弾ける曲も1曲しかないのだが、自分が指からはじいているはずのリュートの音色が、全く外から耳に向かって訪ねてきているような感覚になった。

これまでも福永は、楽器を練習したり、良いと思う音を録ったり、素敵だと思う曲を作ることが、自分自身のためであるように思っていた。心の底からそう思っていたのだ。

けれど、なんというかもう、それとは大きく異なる次元で。
あの瞬間、本当に、自分自身を癒すためだけに演奏していた。

癒すために弾いたのは初めてだったかもしれない。
これまではずっと、もっと良くなるために弾いていたのだ。
明日もっと良くなりたくて、弾いていたのだ。

癒すための演奏は、ごく自然にBPMがゆっくりになった。
1音1音をゆっくり味わいたいからである。すぐにすぎてはもったいない。
つっかえても、失敗しても、そんなことはあんまり関係なくて。
なんというか、大体のことがどうでも良くなる、そういう瞬間があった。
音に集中している、みたいな、広がっている、とも言えるような。

太陽と風に包まれて。
どこかきっと無意識に、脚光と声援をバランスが悪くなるくらいに重視して、陽光と風音をバランスが悪くなるくらいに軽視していたのだ、という感覚になった。

元々そのあたり、アナーキーなほうだと自覚していたのだけれど。
思っているのと、本当に体験するのは全く異なると思った。

これがギターとなると、今はまだ、若干、過去の習慣が強過ぎて、今の自分には噛み合わないみたいだ。
指が、指の技術と習慣で、きちんと弾けてしまう。
これまでにいっぱい練習してきたから、だと思う。

リュートの元々に不完全な趣きと、福永の不完全な技術がマッチして、光や風と溶け合うという感覚を知ったのだ。

急がず、少しずつ、他の楽器でも、その感覚を得てみたい。
そんなふうに思った。



勝手にUPして申し訳ないのだが、この間家族ラインに届いたばあちゃんと母の手繋ぎ2ショットである。

「どちらも年寄りなので、互いに頼っている感じ?だよ笑」

というキャプションと共に届いた写真なのだが。

年寄りだろうが若者だろうが、大人だろうが子供だろうが…
それはもう、本当に本当に、みんな一緒のことなんじゃないかと思った。
誰もがみんな、互いに頼っている。

元々そういうふうには思っていた。思っていたけど、本当にそう思うようになった。

今福永は、周りの人に頼っている。頼らせてもらっている。
そんなつもりはなかったけど「今まで福永に頼らせてもらってたから!」なんて言ってくれる人もいる。泣いちゃうのでやめてほしい。
全然無意識でも、なんでも、自分は頼り頼られていて、それは老若男女みんなそうなのだろうと思った。

もちろん人と人にはうまくいかないこともたーーーくさんあるけれど、その輪っかと全くに無関係であることはないはずだ、と思った。
どんなに小さくても、少なくても、過多は全く関係ない。

歪だから、手を取り合うのだ。
得意なことを、得意な人がやれば良い。
苦手なことを、補い合えば良い。

お金を稼ぐのも、健康でいるのも、きっと人の手を取りたい時に取るためで、福永にはそれ以上はいらないように感じている。
それができない時は、人に頼れば良い。頼って良い。
今直ちに返す必要もない。できることを、できたらよい。

いつか頼られても良いように、今は福永は起きる時間だけ一定にしようと思っている。健康が必要だから。
そして、エネルギーを使いすぎないようにセーブしようとしている。

こんなふうに思えるのはもう、周りの人たちのおかげなのである。
会ってなくても、連絡なんてしてなくても。
居てくれるってだけで、福永には嬉しい。



焦るとぶりかえすから復帰するにしてもゆっくり復帰した方が良い、と言われた。
だから、試しにそうしてみるつもりでいる。
何週間でも、何ヶ月でも、何年でも。
覚悟のつもりで右手の爪を短く綺麗に切った。
長めの電車に乗る勇気が出たら、髪型も思い切ってショートにしてやろう、とか思っている。

復帰、とかいっても、本当に、まるっきり今の仕事に復帰できるかどうかもよくわからない。
それは福永だけで決めることでもない。
周りの人がどう判断するか、にも大きく依存するだろう。
自分自身も丁寧にフラットに考えた方が良いことなのだろう。
でも考えるのは、もう少しあとのことになるだろう。

福永は、なんだかんだで、33歳というわりかし早めの、でも良い感じに中途半端な段階でこういうターンを経験できたのは、よかったんじゃないかとも思っている。

きっといろんなことを、ゆっくり発見できる。そういうターン。

そんなふうに思えるのはどう考えても周りの人たちの優しさのおかげである。
ここのところ涙腺がアホになっているのでそういうことを考えるとすぐに泣けてくる。
映画を見ても、葬式に行っても泣けない。どうやったら泣けるのかしら?と思っていた仏頂面の自分が嘘のように、小さなことで涙が出る。
医者はそういう様子をみて医学的に鬱じゃね?と判断してくれたりしているが、自覚としては…なんか柔らかくなったような気分がある。

調子の悪い時にはなんだか理由もなく閉じ込められてしまうような恐怖に襲われたりもする。波がある。
理由がないのが、タチが悪い。理由がなければロジックは一切歯が立たない。

もしかしたら思っているよりも多くのことはハグをし合えば解決するんじゃないかと思っている。
ロジカルに解決できると思うのは、ちょっとした幻想なのだ。
少なくとも福永は、友人のハグで、どうしようもない不安が軽減されることを知った。

いつもみたいに丁寧に太字にして読みやすくするのは疲れそうなので、今日はここまで。
文章を書くという行為は…嘘のように時間がかかって草ァ!って感じだけど、今のところやってみてよかったと思っている。
けどまだ、量産しないでおこう…と思った。結構疲れる。

また発見があれば、あるいはなくても、ものの試しに書いてみたいな、と思っている。

いつもの「投げ銭コーナー」を設置するのはどうにも気が進まないので、それも今回はナシとさせていただきます。

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