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「深く狭く」or「浅く広く」の終焉

コルク代表の佐渡島さんと、2ちゃんねる開設者のひろゆきさんの対談動画を観ました。



そのなかで面白かったのが、昨日の『基本的に(感性や思考の鋭い人ほど)自分の面白いと思うものと世間が面白いと思うものが違う』という話ともつながるところがあるんですが、


佐渡島さん、自分が面白いと思うものと世間が面白いと思うのは全然違うそうです。

しかし佐渡島さんは編集者なので、クリエイターの作品を世に届ける必要があります。

そこでひろゆきさんが『自分も、自分が面白いと思ったのはだいたいメジャーにならない(=世間と面白いに対する感覚がズレている)から、自分がコンテンツを作る側になったら絶対に失敗する自信ががある(=世に届けられない)』という話をしました。

それに対しての佐渡島さんの返答が面白かったのですが、そのひろゆきさんのコメントに対して『たとえ少数向けのコンテンツでも、その少数がインターネットを通じてつながり、盛り上がっていれば、いずれメジャーになる。世の中の多くの人は、実は自分がどんなコンテンツが好きかちゃんと理解していないから、「世で盛り上がっているコンテンツに触れること」に価値を感じて見てくれるようになる』という話をしていました。


『自分のやりたいことや好きなことが分からない』みたいな話と地続きなところだと思うんですが、人って、仕事だけじゃなくて、コンテンツに対しても『自分は何が好きなのかよくわかってない』状態なのではという佐渡島さんの考察です。

自分の価値基準がないから(良いのか悪いのかは一旦置いておいて)、面白いの基準を他者に委ねることになり、それが結局『周囲で流行っているものを自分も見る、読む』という行動につながります。


これを聞いて面白いなと思ったのは、コンテンツっていままでは基本的に『深く狭く』か『浅く広く』の二項対立だったと思います。

それが、上の佐渡島さんの理論で行くと、『深く狭く』→『深く狭くと浅く広くのグラデーション』みたいな順番の関係性になります。


これの良いところは、最初に『狭く深く』をいずれにしろ通らざるを得ないので、作り手側はかなり全力に近い状態(≒やりたいことをやれている状態)で、コンテンツを作ることができます。

その作り手の全力が範囲を気にすることなく、とりあえず深く気に入ってもらえれば、あとはその熱が外へ伝播していき、『広く浅く』の層にも届けることが可能になるということです。


ただ逆に、別に悪いところではないのですが、言いかえるとまずは深く刺さる受け手がある程度いないと次のステップに進めないので、結果的にすごく実力の差が如実に出るというか、言い訳のできない世界になったなと思います。

クリエイティブ業界は、よりシビアな世界になりつつあるなと...!


でもできる限り作り手のやりたいことに近い状態でスタートのブーストをかけられるというのは、それ自体はすごくいい世界なんじゃないかなとも思います。

コンテンツ戦国時代ですね!!!



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