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同じ出来事でも「どう解釈したか」によって傷つくこともあれば、癒されることもあるということを利用した幸せになる方法

昭和の子ども達が、教育的指導と称した暴力を受けることがよくあったにもかかわらず、ほとんどが何も問題なく育っているのは、人は暴力そのものよりも、その暴力が意味するものによって傷つくからです(もちろん暴力の程度にもよりますが…)。

例えば、自分で希望して参加した格闘技の試合で殴られたり蹴られたりしても、ほとんどトラウマになることはありませんが、ちょっと押されたりしただけでも、それが信頼している養育者(例えば母親)からの存在そのものの否定(例えば「あなたは要らない子」という意味)と解釈されたならば、深い心の傷になります。

今の子ども達が、昭和の子ども達にとって日常的だった暴力に一度でも遭うと、心に深い傷を負うのは、それを彼らは「絶対にされてはならないこと」「存在そのものの否定」という意味に解釈するからです。

(もちろん暴力そのものにも身体的な悪影響がありますので、してはなりませんし、上記のように、その意味が重要ですから、言葉の暴力は身体的な暴力と同じくらいしてはいけません。)

そして、コミュニケーションにおいて、ある言動がどういう意味を持つかは、発信側の意図ではなく、受け取り側がどう解釈したかによって決定します。

例えば上記の「ちょっと押されただけ」において、押した側は「遊びのつもり」でも押された側が「存在そのものの否定」と解釈したならば、当然それは「存在そのものの否定」という意味となります。

しかも、その解釈がその出来事の後、時間が経ってから変化することもあり、それによって受け取り側にとっての意味が変化すると、その時初めて心の傷が生じることもあります。

「十数年後、何をされたかが分かったとき、心が壊れた(上記の例だと『あのときお母さんが私を押したのは、あなたは要らない子という意味だったんだ』と解釈し、ショックを受けた…、など)」

というパターンです。

しかし実は、これは逆のパターンもあって、

例えば「その当時は分からなかったけど、子どもの頃、お母さんは、私の為に大きな犠牲を払ってくれていて、しかも私の心の負担にならないように、それを隠していたんだ…」

というような解釈の変化によって、心の傷が癒されることもあります。

注目すべき点は、こういった後々解釈が変化するパターンのとき、出来事そのものは過去のことですので全く変化していないということです。

つまり人は全く同じ出来事に対する解釈の違いにより、心が傷ついたり、癒されたりするのです。

そして自動的・無意識的にしている解釈は、意識することにより自分で変えることもできます。

具体的には、何か思い出して嫌な気持ちになったとき、一度立ち止まって、

『私はどのような解釈をしたからこのような気持ちになったのだろうか?』

『その解釈は正しいのだろうか?』

『これまでに、この解釈に反するような出来事はなかっただろうか?』

『別の解釈としてどんなものが考えられるだろうか?』

『これまでに、この別の解釈を支持する出来事にはどんなことがあっただろうか?』

などなど…

を考えてみるのです。

そして、より気分が良くなる解釈を思いついて、それを受け入れることができたら、その新しい解釈を今後意識的に採用します。

(何度か意識的にその新しい解釈を採用すると、ちょうど車の運転等の「よく行う動作や操作」がいつのまにか無意識的・自動的に出来るようになるのと同じく、その解釈を意識しなくても出来るようになります。)

自分の解釈の方法を自己分析して、より幸せを感じられるものに変えていきましょう。


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