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男は加害者なのか?

ある日のこと。
商業施設に寄った帰り道、出口カウンターに立つ案内係(?)のおばさんが家族で来園していたお客さんに、「ありがとうございました〜」と言いながら手を引かれて歩く子どもに手を振ってそのままハイタッチしていた。
別に全然良いんだけど、それを見て自分が案内係の仕事をしていたとしたら、ハイタッチは絶対しないよなぁと、ふと思った。

案内係の小柄で気の良さそうなおばさんが躊躇わずに子どもとハイタッチしたのは、今までの半生で自分が他人に警戒された経験が少ないからじゃないかと想像してみた。
自分だったら、他人の子どもと触れ合うと親(特に父親)が嫌な顔をするんじゃないか、とか考えてしまう。なにか子どもに危害を加えようとしているかもしれないと警戒される気がして、触れることは躊躇してしまう。自分が加害側に見られるかもしれないという自覚の有無は男女差が大きいんじゃないだろうか。僕が自覚するようになったのは、いったいいつ頃からだっただろう。

小さい頃は、大人はみんな自分のことを好意的に思ってくれているとぼんやり感じていた。世界は自分を受け入れてくれるものだと信じていた。時が過ぎ、幼児は少年へと成長し、やがて青年へと変わっていく。僕がこの世界は自分のことを無条件で受け入れてくれるわけではないのだと気がついたのは、思春期を迎える時期だったと思う。
小学校の高学年の時、掃除の時間に下級生にちょっかいをかけられて箒を持ちながら追いかけ回したことがある。遊び半分悪ふざけ半分くらいの気持ちでいたのだが、それを見つけた先生に咎められて、冷たい目をしながら「今度は人を殺すなよ?」と忠告された。
中学に上がり、職業体験の実習でゴルフ場に行った時に作業そっちのけでダラダラしていたら、カエルみたいな顔をしたオッサンに問答無用で親と先生を呼び出されてゴルフ場でひとりだけ説教された。
駅のトイレに行こうとしたら出てくる男と同じ方向に避けてぶつかりそうになり、「殺すぞ!」と吐き捨てられたこともある。
バスの中で咳が止まらず繰り返していたら「うるせえよ!」と太ったババアに怒鳴られたこともあった。
それらのことを今でもよく憶えているのは、傷ついたよりもむしろ驚きが強かったからだと思う。今まで無条件で自分を受け入れてくれていた世界が、薄っすらと悪意を向けてきたような気がした。少年から青年へと成長するにつれて、粗相をしても悪戯をしても「仕方ないなぁ」と大目に見てくれる大人が減っていくことを感じていた。社会の不寛容さを認識するたびに、自分もいつまでも親の庇護下で暮らすことはできないのだと自覚する。世間の悪意に晒され始めて、冷たい社会を生き抜く術を身につけようと考え始めることが、自立への第一歩なのかもしれない。

思春期といえば性への関心を持ち始める年頃だ。
保健体育の授業では性的なことに興味を持つのは健全で自然なことですと教わるけど、性的は話を公に口に出すことは暗黙のタブーであると世間に出れば嫌でも気づく。思い返せば思春期の頃、タブーであるはずの性的欲求が内側で膨れ上がっていくことに、ある種の罪悪感が生まれていたような気がしないでもない。
性的欲求はアグレッションを伴い、魅力的な異性の身体を当人の意志に関わらず征服したいという願望が頭に浮かぶようになる。僕は実行に移す機会は全くなかったけど、自分の中に支配欲が芽生えることと自分が加害者側の立場に見られる自覚とは関係があるんじゃないだろうか。
大人は決して善ではなく、人間の本性もまた悪が宿っているのだと、自身の内心を通して知ることになる思春期に、無垢なる弱者から欲望を抱く加害者へと自分自身も周囲の目も変わっていくのかもしれない。
これが思春期の女子なら、加害欲が渦巻く社会を生き抜くために容姿を磨いて好かれる道を選ぶ子も多いのだろう。社会のルッキズム至上主義には憂いているが、これだけ容姿で差別される社会では個人がルッキズムに走るのは仕方がない。容姿を気にする行為はとても受動的で、他者評価に軸を置いている。なので身なりを気にすることが多い女性の方が、やはり受け身な立場にいる場合が多いのだと思う。

こちらの姿を見ると虫や小動物は一目散に逃げていくように、加害欲の有無に関わらず加害できる強さを備えていることが加害側の立場で見られることに繋がるのだと思う。いわば生殺与奪の権を握る者は加害者になり得るし、握られる者は被害者になり得る。
満員電車に乗れば、ほとんどの男性は痴漢被害に遭うことよりも痴漢冤罪の疑いをかけられることの方が心配だろう。自分は加害者側に見られる存在なのだと、男性なら誰しも無意識のうちに自覚している。
そんなことを考えていると、幸せってなんなんだろうと疑問に思う。強いことは幸せか? 警戒されることは快適か? しかし被害に遭うリスクを回避するためには、加害側の立場に見られようとも加害できる強さは必要だ。人生をもっとも快適に過ごせる属性はどれだろうか。

もっとも、生命というのは他の生命を加害しなければ命を繋いでいくことはできない。圧倒的な加害力でその輪廻から抜け出して、一方的な加害だけで生きるようになったのが人間だ。この地球上で最も残酷な加害者にも関わらず、自分たちだけは被害に遭いたくないと張った防衛ラインが法律や秩序なのだと思う。
エサを上げ忘れて死なせてしまったカブトムシや、捕まえて狭い虫カゴに閉じ込めたトンボやザリガニが動かなくなったことを思い出す。彼らに対する残酷な仕打ちを思い返せば、あるいはこれまで無数に食べてきた畜産動物や海鮮類、野菜や果実を思えば、被害者ヅラして生きることも善人ぶって生きることも他種や遠方への加害を想像していない根本的に間違えている感覚だと思う。

それでも、新たに生まれてくる子どもだけは、無条件の愛を与えてやりたいと思っていた。人間に生まれたから罪の意識を背負わなくてはいけないというのも理不尽だ。
保育園で働いていた頃、唯一の男性だからか子どもはよく僕に乱暴してきた。数分後にはすっかり忘れて甘えてくるから可愛くて素直に受け入れていたのだけど、他の先生からは「注意してください」とよく小言を貰っていたっけ。
自らの加害性を認識するのは思春期を過ぎてからでいい。それまでの季節を無償の愛を受けて育つことで、自らの加害性を正しく認識して生きる上で折り合いをつけられるようになるんじゃないだろうか。

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