総合型地域スポーツクラブが認めたい多様性

 どうも!上杉健太です。
 埼玉県富士見市の総合型地域スポーツクラブの代表をしたり、スポーツ推進審議会委員をしたりしながら、生涯スポーツ社会の実現を目指して活動しています。井上尚弥選手の試合、凄かったですね。

 さて今日は、『総合型地域スポーツクラブが認めたい多様性』というテーマでお話したいと思います。実はこのテーマに決めた時に、言葉選びを迷いました。「認める」なのか、「つくる」なのか。多様性を認めるというのは、実は結構簡単なことで、ただただ「色々な人がいていいよね」と思えばいいだけ。でもそれは実際には”認めていない”場合も多いような気がしていて、だったら自ら環境をつくらなければ多様性を認めたことにはならないのではないかと思うんですね。とはいえ、それはそれで”多様性を認める”のハードルとしては高すぎるような気がして、僕は迷ってしまったわけです。ひとまず現時点では『認めたい』を選択しましたが、それはただ”思う”だけの認めるではなくて、実際の行動を伴うものとして捉えていただければと思います。

 前置きが長くなってしまいましたが、総合型地域スポーツクラブがどのような多様性を認めて活動をしていくのか。お話していきたいと思います。


そもそも多様性って

 まず、『多様性』という言葉の定義から確認しておきましょう。

多様性(ダイバーシティ)とは、人種や性別、宗教、価値観など、さまざまな属性を持った人々が組織や集団において共存している状態を指します。また、個人の違いを認め合い、尊重し合うことも意味します。

Google AI作成

 色々な人のことを認め合い、尊重し合った結果として、色々な人が共存している状態。これが多様性。そういうことなのでしょう。逆の状態を考えてみると、「特定の属性の人しかいない」ということでしょうか。ちなみに、『多様性』の対義語は『画一性』だそうです。

 そう思うと、僕がやろうとしているのは、これまで何となくスポーツ界にあった『画一性』を総合型地域スポーツクラブで否定していって、その結果多様性が実現され、誰もがいつまでも自分に合ったスポーツを続けていけるようにしようとしている気がします。

 では今日は、僕が否定しようとしている、これまでスポーツに対して”何となく”感じて来た呪いのような画一性を挙げていって、それを総合型地域スポーツクラブでどのようにクリアしようとしているかをお話していこうかなと思います。ちなみに僕が言う『呪い』とは、「あるかないかよく分からないものなのに、あると思い込んで囚われてしまうもの」という意味です。常識とか、教育とかの中には、いくつかの”呪い”があると思っています。

 あ、でもスポーツ界にあるあらゆる”呪い”は、どんどん解決の方向性に進んでいると思います。例えば「練習中に水を飲む奴は上手くならない」などという呪いは、もはや誰も信じていませんよね。


勝利こそが最も優先すべきであるという価値観

 スポーツをして勝利を勝ち取る。これに最も大きな価値を置く人は多いでしょう。僕がまさにそういう少年・青年でした。今でも僕は、勝つことが好きです。これは、多くの人が理解する価値観だと思います。だから人は日本代表の試合などを見て、勝てば喜び、負ければ怒ったり落胆したりします。それで大きく購買活動に影響が出たりします。それだけ勝利と言うものが持つ価値は大きいです。

 しかし、それだけが価値ではないし、全くそう思わない人も多くいます。僕は10年間の総合型地域スポーツクラブキャリアの中で、それを学びました。多くの人は、勝っても負けても喜び、場合によっては勝負自体を嫌ったりします。もちろん、このような人にとっても、勝利は喜ばしいことだとは思いますが、その為に得る代償だったり、自分が勝者になる時に生まれてしまう敗者に思いを寄せたりすると、それが最も大きな価値だとは思えないのでしょう。それは僕もかなり理解できるようになりました。結局のところ勝ち負けというのは、相対的なものなんですよね。やり方次第では、どちらかは必ず勝って、どちらかは必ず負ける。トーナメント戦なんかの場合には、最終的に勝つのは優勝者(チーム)だけで、後の人達はみんな敗者になってしまう。勝利を目指すプロセスには誰にとっても非常に大きな価値があると思いますが、勝利自体に価値を置くと、非常に多くの”価値を享受できない人”を生み出すことになってしまい、社会全体として採用する価値観としては危ういと思うんですね。
 また、勝利を優先させようとして、”レギュラー”と”補欠”に分けるチームは多いと思いますが、これは普通に考えて、誰もが平等に持っているはずのスポーツをする権利を侵害していることになる可能性がありますから、そういった観点から見ても良くない状態です。

 だから総合型地域スポーツクラブは、”それだけじゃない”多様性を目指すんです。勝利を目指すことを含めた競技志向だったり、その場のスポーツ活動自体を楽しむエンジョイ志向だったり、健康の為にスポーツをやるという健康志向だったり、色々なスポーツの目的を認め、実際に活動を作ります。実際に活動を行う際は、これらの人を混ぜると上手くいきませんから、分けて行うわけですが、同じクラブ内にいることで共存を図るわけです。
 また、同じ総合型地域スポーツクラブ内に色々な価値観が共存していることで、ライフステージのどこかで価値観が変わった時に、すぐさま人々に対して、「こんなスポーツのやり方もあるよ」という選択肢を提示できます。これが生涯スポーツ社会の実現に繋がっていくんです。一つの価値観しか認めていないで、変わりゆく社会や自分の肉体と生涯付き合っていくのは困難です。総合型地域スポーツクラブは、色々な人を同時的に認めるということと、一人の人の価値観が移ろいゆくことを認める。この両方を実現していく存在なんです。


スポーツは学生がやるものという文化・価値観

 日本のスポーツは学校が中心となって育てられてきました。つまり、教育ツールとして活用されてきたということです。その為か、学生期間が終わるとスポーツをやめてしまう人は多くいます。それこそスポーツでの実績を利用して進学・就職をしようとしていた人からしたら、学生が終わったらスポーツは”用済み”になってしまうわけです。こんな風にダイレクトに思っていなくても、これに似た価値観を持っている人は多いと思います。実際に総合型地域スポーツクラブをやっていて、何人かの中学生から「内申点の為に県大会に出たい」と言った言葉を聞きました。

 こうして学生が終わってスポーツをやめた人も、健康リスクなどを気にしたり、仕事をリタイヤして時間を持て余すようになるとまたスポーツを始めたりするわけですが、その頃にはもう身体が非常に怪我をしやすい状態になっていたりして、結局スポーツによって身体を壊してスポーツができなくなる人もいたりします。全てはスポーツ・運動を全くやらなかった期間が長すぎるからだと僕には思えます。

 総合型地域スポーツクラブはこれを解決しようとします。まず、学校中心ではなく、地域でのスポーツ活動をベースにすることで、これまでブツ切りになっていてスポーツキャリアを一続きのものにしようとします。学校の卒業をスポーツの卒業に直結させない。学校を卒業しても当然のようにスポーツを続ける。そういうクラブを目指しているんです。僕の10年間の総合型地域スポーツクラブキャリアの中で、卒団式とか卒業式みたいなことをやったことがないのは、これが理由です。僕が思い描いているのは、会員たちが死ぬまでクラブでスポーツを楽しみ続けている姿なんです。

 とにかく人生は長い。80年とか90年間も生きるのに、たった最初の20年間くらいだけを”スポーツの期間”と決めてしまうのは非常に勿体ない。スポーツには実に色々な”味わい方”(競技志向もエンジョイ志向も、健康志向もあるし、種目だって無限のようにある)があるのに。


揃えなければならないという思い込み

 3つで最後にしようと思いますが、スポーツって何となく「揃える」とセットで考えられていることが多いなと思うんですね。例えばユニフォーム。チームスポーツの場合、チームメイトと対戦対手を区別する為に必要不可欠なものだと思うのですが、チームスポーツでもないし、そもそも試合をするようなこともないのに、クラブやチームでユニフォームや用具を揃えることを求められることって多いですよね。もちろん、それが嬉しい・楽しい・やる気が上がると考える人がいることも理解できます。ただよく考えると、別に強制されるものではないような場合も多いなと思うんですね。あ、ちなみに僕は、昔は結構みんなで共通のものを持ちたいと思っていましたが、今はどちらでもいいなというスタンスです。いずれにしても総合型地域スポーツクラブキャリアの中で、「これを買わなければなりません」と会員に対して強制をしたことは一度もありません。誤解のないように繰り返しますが、揃えるのが好きな人はいいんです。揃えれば。ただ、揃えなければならないということは実はあまりないかもしれないということです。

 あと、これは子どもに限定した話なのですが、スポーツの場面では挨拶や集合の仕方も揃えることを求められることって多いですよね。学校現場などがまさにそうなのかなと思いますが、みんなで声を揃えて挨拶をすることや、整列をすることがかなりの頻度で強制されているかと思います。これが軍隊教育のなごりなのかどうかは分かりませんが、危険を伴うプールの授業などではある程度効果的な手法のような気もしますが、多くの場合では必要なものではない可能性も高いと思っています。実は揃ってやる必要がないかもしれないということです。だって大人になったら、みんなで声を揃えて挨拶をすることなんてありませんよね?整列するなんてことは、よほど会場キャパの都合がある場合だけですよね?(※大人の場合も、危険が伴う現場などの場合は危機感を持たせる声出しや整列が必要になる) 僕の価値観としては、挨拶や集合などは、揃えてやるよりも、一人一人がやればいいと思っています。みんなで声を揃えるよりも、1対1で挨拶をする方がよほど必要な社会的スキルだし、集合についても、声が届くところにいるとか、顔が見える場所にいるとかがクリアされれば、決して並ぶ必要はなかったりしますよね。別に並んでもいいけど(;^_^A

 このあたりは、極めて個人の価値観によるところが大きい気がします。それこそ子どもの場合は、家庭や学校の先生の教育スタンスにも大きく左右されるでしょう。だからこそ、強制するよりは一人一人の考え方・価値観を尊重することが大事だと僕は思っています。僕はよほどのことがない限り服装についてとやかく言うつもりはないし、挨拶のやり直しみたいなこともほとんどしません。(※気が付いていない子を置き去りにしない意味でやり直しみたいなことをすることは超たまにある) これは総合型地域スポーツクラブとして具体的なコンテンツとか指導指針みたいな形にしているわけではありませんが、マインドとして持っているって感じのことです。揃えると何となく気持ちが良くなる気持ちは分かります。子どもが大きな声で揃って挨拶をすると、コーチ達も気持ちが良くなるのも分かります。でもそれが必ずしも必要な物かどうかはまったく違う話だし、中には”そういうこと”が苦痛で仕方がないという子もいることを、僕たちは知っていなければいけないでしょう。


 さてここまで書いて思ったことがあるので、最後にそれを書いて終わりにしようと思います。
 多様性と多数決って、相容れないなと言うことです。多数決って要するに少数派を排除して、多数派の意見に染めてしまおうという動きです。まぁ染めてしまおうは言い過ぎなのですが、でも要するに一つにしようということですよね。基本的には排除のマインドがそこにはあるんですよね。それが合理的な側面があるのは分かりますが、もしも多様性を追求するのであれば、少数派を切り捨ててしまう多数決というのは、絶対に採用してはならない手法ですよね。そこから派生して考えると、多数決がベースにある選挙による民主主義というのも、多様性を追求する時代には不向きなのかもしれません。口にするのは簡単だけど、実はすごく難しい。それが多様性なのかも。とにかく総合型地域スポーツクラブとしては、画一的にならないようにクラブづくりを進めていきたいなと思います。


 ということで今日は、『総合型地域スポーツクラブが認めたい多様性』というテーマでお話しました。今日のお話をまとめると、スポーツは勝利を目指してやるのもよし、そうでないのもよし。スポーツが学生がやるのもよし、その後もずっと続けるのもよし。スポーツは用具や挨拶などの諸々をみんなで揃えるのもよし、揃えずバラバラなのもよし。そういうお話でした(笑)

今回もお読みいただきありがとうございました!
ではまた!


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総合型地域スポーツクラブや筆者の挑戦のリアルな実態を曝け出しています。自ら体を張って行ってきた挑戦のプロセスや結果です! 総合型地域スポーツクラブをはじめ、地域スポーツクラブの運営や指導をしているかた、これからクラブを設立しようとしているかた、特に、スポーツをより多くの人に楽しんでもらいたいと思っているかたにぜひお読みいただきたいです!

総合型地域スポーツクラブのマネジメントをしている著者が、東京から長野県喬木村(人口6000人)へ移住して悪戦苦闘した軌跡や、総合型地域スポ…

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総合型地域スポーツのマネジメントを仕事としています。定期購読マガジンでは、総合型地域スポーツのマネジメントに関して突っ込んだ内容を毎日配信しています。ぜひご覧ください!https://note.com/kenta_manager/m/mf43d909efdb5