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末延芳晴『慶應義塾文学科教授 永井荷風』に関する箚記

あこがれる教授に学べる大学に通う学生は羨ましい。今現在は措くとして、慶應義塾もマスプロ化して日吉キャンパスも整備中の頃は、ナントカ砂漠状態というか、大学本来の魅力をほとんど失っていたのではなかろうか。堀口大學ではないが、「お坊ちゃん学生の多い慶応の気風というか空気に馴染めなかった」ことなぞを回想しながら、末延芳晴『慶應義塾文学科教授 永井荷風』に目を通した。

森鴎外と上田敏の推輓で、30歳の荷風が慶應義塾大学部文学科の教授に抜擢され、文学科の大刷新が断行された。とともに荷風を編集主幹とする文芸誌「三田文学」が創刊された。島崎藤村や田山花袋、国木田独歩、徳田秋声、正宗白鳥などが健筆をふるい、自然主義文学の全盛を誇った「早稲田文学」に拮抗するかたちである。

その頃の荷風教授を囲む学生たちの様子の一端が、水上滝太郎の「永井荷風先生招待会」(「三田文学」1959.6)にビビットに綴られている。小泉信三など友人仲間が集う「例の会」で、ふだんのまま三田山上の洋館ヴィッカース・ホールに荷風教授を招き、「文学美術音楽演劇――あらゆる事について自分達の感激を述べ、先生の教を受け」るさまが心をうつ。「上下の隔てなく、文学を仲立ちとして自由に開かれた人間的関係性と『幸福』の時間」を荷風教授と享受した学生たちのなんと幸せなことか。このとき荷風に手渡した水上の「山の手の子」の原稿は、ほどなく「三田文学」に掲載され、ブレークした水上は「久保田万太郎に次ぐ大学生作家として認知」されることになった。さらに門下から佐藤春夫、堀口大学をはじめ、小島政二郎、邦枝完二、青柳瑞穂など多くの文学者を輩出した。

慶應義塾に通勤する道すがらのこと。荷風は「折々四谷の通で囚人馬車が五、六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見」て、「云うに云われない厭な心持」を抱く。「わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者と共に何も言わなかった」と、荷風は小品「花火」のなかで悔やんでいるが、ここに文学者たる「わたし」のみならず、なぜわざわざ「世の文学者と共に」と書き記しているのか。初読以来、何か含みがあるというか、無念さのようなものが込められているように感じたが、それを解く一つの手がかりを本書に教えられた。

それは「反自然主義文学機関雑誌の発行を議する初会合」の顛末である。この会合には、「『スバル』からは大逆事件の被告団の弁護士を務めるかたわら、小説や評論を書き、短歌を『スバル』に発表、『スバル』の編集人をも兼ねていた平出修が、『三田文学』からは永井荷風と同誌の発売元籾山書店の店主籾山庭後、『新思潮』からは和辻哲郎、『白樺』からは武者小路実篤、志賀直哉、正親町公和、里見弴らが出席」して、季刊誌創刊の話し合いがなされた。まさに「世の文学者と共に」と目論んだ、この計画は水泡に帰すのだが、その経緯について荷風や平出修らは何も書き残していない。

ただ、平出修『定本 平出修集』に収録の「反自然主義大同団結問題メモ」、伊藤整『日本文壇史 十四』(「反自然主義の人たち」)、高見順『対談 現代文壇史』(志賀直哉と高見順の対談「白樺派とその時代」)など「関連する資料を読み込んで初めて見えてきたこと」があると、著者は明かす。すなわち、「荷風は大逆事件の本質が『フレームアップ』であることを知り、その本質が言論・表現の自由という基本的人権に関わるものであることを見抜いた」。それゆえに、「世の文学者と共に」「強権的な国家権力の専横に対抗し、表現の自由を守るためには、反自然主義の擬装を凝らしたうえで、反政府的季刊文芸雑誌を発刊させ、文学的表現を通して国家と闘おうとしていたのではないだろうか」と、戯作者の仮面の裏にひそむ荷風の素顔を描くのである。

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