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神々と遊ぶリトリート

これは2023年8月に富士山麓にある白光真宏会・富士聖地にて開催された二回目となる「祈りと対話のリトリート」のレポートです。
この文章は藤代健介の他に共同ホストである木村素子さん・西園寺由佳さんと共に書き上げました。

富士聖地では二回目となるこの対話のリトリート。参加メンバーは新旧合わせて計12名の参加となった。
今回もホストを一緒にしているのは、日本文化の叡智をハートから伝える木村素子さん、白光真宏会の次期会長である西園寺由佳さんの二人だ。

二回目以上の参加者は、会津での若者向けサマーリトリートを主催する青木光太郎さん、祈りや瞑想を探求している森川結美子さん、キリスト教と禅、レイキ・クラニオセイクラルなどのヒーリングが交差するところで生きる上杉理絵さん、平和研究や地域活動を探求する澤正輝さんらが来てくれた。

初めての参加者は、前回参加が叶わなかった広島で平和活動を推進する住岡健太さん、いすみ市で農や身体性と向き合う日々を過ごしている寺社下茜さん、四万十で農的暮らしの中から神聖を体現しようとする後藤志果さん、人の気づきを自然から促していく学びや暮らしの土壌作りをしている福本理恵さん、葉山で子供向けの海山での自然学校を経営する今村直樹さんらをお招きした。

ゲストの里香さんを囲んで


様々な記憶を聖地に刻む

富士聖地は宗教的な場所でありながら、どんな宗派や流儀も受け入れてくれるような懐の深さがある。
日本の霊宝がある富士という土地、人々が祈り続けてきた聖地の記憶によって、私たちはそこにいるだけで自ずと清らかで安心した気持ちになれる。

リトリートの最初から最後までリラックスした様子のなかで開催された。
今回も、様々なフィールドで普段から祈りをこめた実践を行なっている人々が集まり、それぞれが体験している現実、直面している悩みについて語り合う中で、気付きや癒しが連鎖的に起こっていった。
対話に加えて、土地・神々・宇宙、そして自分の内なる神秘とつながるワークを交えながら対話が螺旋状に深まっていった。

これらの体験が、またこの富士聖地に新たな記憶として刻まれた。それらを駆け足で振り返ろう。

西園寺家の次女でありワールド・ピース・プレヤー・ソサエティ副理事長でもある里香さんをゲストとして迎え、白光真宏会の祈りに対して鏡的な役目を果たしている白光真宏会における科学的な側面について語ってくれた。
大事なものを震える声でシェアしてくれるその姿に、深いところで繋がれる雰囲気が全員に醸成された。

自分の内なる神秘に委ねるワークとして、茜さんが一つ一つのパーツを意識ながらダンスのように体を動かしていくボディワークを、上杉さんがレイキの世界観で自分の中で静かに呼吸しながら大地と繋がり天と繋がっていく時間をつくってくれた。

リトリートの最後には、今回も白光真宏会の職員の方々と対話の機会を設けさせてもらうことができた。
話の中で、職員さんから白光の語源についても言及があった。
白光とは純潔無礙なる澄み清まった光、人間の高い境地から発する光であり、その光を世界人類に、真に宏(ひろ)め、平和を実現しようという考えに基づいた組織であるということを創始者の五井昌久先生は当時即思いつきそれを書き留めたという事実を伝承してくれた。

日本各地から様々な個性と因縁を持った人々がこうして富士聖地に一定期間集まり、寝食を共にしながら、共に祈り、共に語ることの意味を体感するリトリートだった。
澤さんはリトリートの終盤に「日本全体が富士聖地のようでありますように」と終盤に言ってくれた言葉が、その質感を端的に現してくれた。

休憩時間にリラックスしながらキールタンを歌う


神々と遊ぶ夏休み

富士聖地から程近い陣馬の滝に向かうこともあった。これは、富士聖地でのリトリート初めての外のアクティビティとなった。
夏休み真っ盛りで子供やファミリーで賑わいを見せるマイナスイオンあふれる涼しさの中で、僕たちは一番大きな滝へと向かう。
そこでは参加者全員が滝の中に入り、滝行のようなことをした。遊びのような、修行のような、その感覚が今回の私たちにはピッタリだった。
なにかの氣が滝によって流された感じがした。
気がついたら、周囲の人々は散り散りになっていた。

夜には某所で護摩行を行った。
直樹さんが日頃から慣れている火おこしを、光太郎さんがヒマラヤ仕込みヒンズー密教直伝の護摩行を簡易的にだが執り行ってくれた。
護摩行は新月と満月の日に行うものらしい。
たまたまこの日は満月であり、たまたま椅子が参加者人数ピッタリの12脚揃っていた。そのたまたまが嬉しい。
事前に用意した供物をみんなでマントラを唱えながら共に火に焚べていく。
キャンプファイヤーとは違う神聖な雰囲気の中で、儀式として厳粛に、しかし遊び心がある中で執り行われていった。
僕は最後に拝んでいた手に青虫がよじ登ってきて、神様の悪戯心を感じた。

昼は水、夜は火!


叫び、赦す

リトリートの終盤では、私たちがこうしてここに集っている中で、受け取ってきた様々な感情を許し、解放するために、受け取った様々な感情を許し放出するワークを由佳さんリードの元で一部やってみることにした。
参加者は全員で祈りの丘へ向かい、そこで全力で一斉に私たちは愛であり、光であるということを自分の深い内側へと響きわたらしていくような言葉を叫び続けた。
言葉はそのまま自分の深い内側へと響き渡っていくような感覚があった。
 
志果さんは叫んだ後に「私は愛そのものなのだ」という言葉を丁寧に自分の中で何度も浸透させているようだった。
それは自分が愛そのものであること、光そのものであること、神そのものであることを自分の中で許していくための時間にも見えた。

叫びは外に響くと同時に内にも響いて魂を揺さぶる


大きな家族の中で

最後に「私たちは何者なのか?」という問いに対して、参加者それぞれが答えていった。

結美子さんは「この人たちがいるから世界は大丈夫」という人類讃歌のような質感を感じたとシェアしてくれた。
茜さんは「みんなが大好きだから、わたし生きる」と清々しく三回も宣言していた。
これらの嬉々とした生命力溢れる気づきのエネルギーは、そこにいる誰もを元気にさせてしまうものがある。

素子さんは、みんなが安心して存在し、お互いを応援しあい、幸せを祝福しあえる家族的な質感を感じると言っていた。
福本さんはそれに対して「このホームにまた帰ってきたいし、それを励みに頑張る」と言っていた。

私たちのことを枠組みとして、(拡張)家族というのか、一族(トライブ)というのか、民族というのか、そのあたりはわからない。
枠にラベルはつけずとも、その中身の質感をみんなで育みながら確認し合うことは大事なのだろうと思う。
一人一人が唯一無二の光を発しつつ、全体の中で溶け、混ざり合う中で、一人では到達できない変容が起こっていくような、質感・カルチャーに育っている感覚がある。

この場をホストするものとしては、参加する人々が安心しながら気づきを持って、自分の神聖と繋がり、世界をもう一段深く信頼できるようになるこの場を守って育んでいきたいとあらためて思うことになった。

ともすればシリアスになりがちな修行や祈りであるが、子どものような純真無垢な心、軽やかさや遊び心からこそ繋がれる領域がある、ということを思い出させてくれたリトリートであった。

対話は常に朗らかに

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