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奇跡を起こすリトリートの必要条件

春分明けの3月22日から24日にかけて隠岐諸島・西ノ島にて二泊三日のリトリートを開催した。テーマは「巡礼と対話」。

今回で三回目となるリトリートを経て、自分なりにこれからも関わっていきたい場のテーマが自ずと浮かび上がってきた気がする。

巡礼と対話。
外なる自然や大いなる存在を感じ感謝と鎮魂の意を込めた巡礼。
内なる自分や仲間との相互作用により癒しや気づきを感じる対話。
一つの場に巡礼と対話が混ざり合い、補い合い、溶けていく。
内も外も分けるものではなく、ひとつ。

このリトリートでは今まで強く握っていたものを手放すことで奇跡が生まれた(ような気がする)。
奇跡とは、人間だけでは思い描けない偶然の連続が一つの物語として浮かび上がり、それが全体に対して確かな意味を持つことだと定義してみたい。その奇跡はこのリトリートで確かに起きた。

奇跡は自ら起こすものではなく、自ずと起きるものである。
奇跡は必ず起きるとは限らない。
しかし、奇跡が発生するための必要条件というものは存在しそうだ(十分条件はきっとない)。
奇跡に出会うには決めつけていたものを削いで待つ必要があったと思う。
今回は奇跡が起きるにあたり、このリトリートで自ら手放した三つのことを書いてみよう。


手放し一|商品として売ること

脱商品化するリトリート

奇跡のような質感をつくるためには脱サービス化する必要があったと思う。
お客さんに約束された価値あるサービスを提供するという意識から離れることがまず重要だった。

宿泊や食費などの実費を明示化してホストも含めて費用を平等に負担する。
巡礼や対話の場からもらったギフトについてはリトリートが終わったあとに「恩返し」と「恩送り」という二つの側面から参加者に委ねることにした。

先に価格と内容を明示することは安定した品質と価値を与えるかもしれない。しかし、リトリートの中でライブ感あるバイブスを活かしたアレンジをする余白は生まれにくい。
合理的で経済的なやりとりを越えたところに奇跡は待っている気がする。

大まかな流れに検討はつけておきつつ、その場で内容や場所は流動的に変化させる。
今回からオープンダイアログというフィンランド発の統合失調症向けの治療的介入の方法からリフレクティングというメソッドをアレンジして導入してみた。
その結果、ホスト側が感じていることやこれからの流れなどについて、対話の場でみんなに公開して相談しながら進めることができた。
途中からホストに限らず、参加者も運営側に入ってくるようなフィッシュボール形式へと自ずと変化し、場のダイナミズムが生まれたのもサービスを手放したゆえの恩恵だった。

流動化するプログラムの中で虹も起きる


手放し二|一人で主催すること

三人で背中を預け合う

今回は対話の場を三人でホールドすることに挑戦した。
三者三様のキャラクターはそれぞれに強みと弱みがあり、それが補い合いながらつくられる場には一人ではつくることのできなかった安心感と緊張感の絶妙なバランスをもたらされた。

父性的な役割のホストと母性的な役割のホストでは対照的な役割を担う。
大胆さと繊細さ、刺激と安心、気づきと癒やし、それぞれ相反する性質でありながらリトリートの場においてはどちらも重要である。

二人だけではそれぞれの性質の違いゆえに、それぞれの立場に固執して膠着状態になることもあるだろう。
風通しを良くしたり、場をほぐしたりしながら変化を与えるホストがいる三人組の構造に心地よさを感じた。

場をホールドする中で、三人とも「背中を預けられた」感覚を持った。
いつも自分一人で三役をやるところを、自分の自然体に近い部分で場に関われることに言葉にならない喜びを感じた。

三人で場をホールドすることで隙間から空気が流れて動きが生まれる
その動きが僕たちを予期しない方へと誘い奇跡へと導いてくれた。

隠岐諸島での別れの儀式が後ろ髪ひかれる思いを演出する


手放し三|分かっているリーダーであること

成熟した父性とは?

三人のうちの一人となった僕はより自分の父性的ロールにコミットすることができた。
そこでの気づきは成熟した父性とはパーフェクトに分かっている存在ではなかったということだ。

父性的で威厳のあるリーダーは居るだけで場に威圧感と緊張感を与え、あたかもそこに正解があるように思われるような存在感がある。
そこにホストという立場も相まって権威と権力が加わると、参加者からはどうにも歯が立たない存在となってしまう。

しかし、それは未熟な父性なのかもしれない。
人間、当たり前だが誰もが完璧ではない。

それなのに自分は分かっていて完璧な存在だと振る舞ってしまう在り方は、その裏にある否定されることへの恐怖や、その座から降りられなくなったエゴなどがあるだろう。

成熟した父性とは、強く逞しそうに振る舞う姿から、自分の未熟さを認め、反省する姿をオープンにすることにあると今は感じる。
強そうだった父性的リーダーが自分を否定することで、場にダイナミズムが生まれる。
成熟さとは、自分の特性のいきすぎた逆効果を恐れずに場に表現し、そして贄として捧げていくことなのだと感じた。

父性的なリーダーの贄は「自尊心」だろう。
これを捧げることができた時に、確かに場の中に命が宿ったことを感じる。

自分の弱さを贄として捧げることは一人で場をホールドしてはできない。
信頼できる仲間が隣にいてこそできる行為なのだと感じる。

僕は元来修行好きで、自己成長のニーズが高くコミットしてきた。
しかし、自己成長を目的化すると成長ができないというパラドックスを実感し成長する目的意識を捨てた。そしてイマココに満たされた感覚で居続けようとしている。

面白いことに、父性的ロールとして自分が率先して物事を動かすと、その速さと強さゆえに他者からネガティヴなフィードバックが起こる。
僕は結局そこで反省をして学ばさせることになる。成長は自分が意図しない形で全体がドライブするための副産物としてついてくるようになった。

リトリートのハイライトであった焼火神社


お陰様を尊重する

今回の旅が山陰地方だったのもなにかの縁かもしれないが、三つの手放すことには陰が関係している。

近代は光こそが正義であり闇は悪きものと見做されてきた。
闇は光で照らされるべきであり、全てを白日の元に晒すことが良しと思われてきた。

しかし、見えない陰を見えないままに尊重する在り方に奇跡が生まれる必要条件がある気がする。
自分が自分だと思っている範囲からは予定調和の結果しか生まれない。
周縁化された陰を光で照らすのではなく、陰のままに尊重して共存することが重要なのだろう。

サービスとしての約束された価値を手放し、対価という重要な要素を陰のままにホールドすること。
自分一人でホールドする時の掌握感を手放し、自分以外の存在の感性に委ねるように信頼すること。
自分の特性の逆効果が生まれる陰を恐れずに、あえてその逆効果のまま場に出ることを許容すること。

その全てが陰を陰のままに尊重する在り方である。
元来、日本は相対的に見れば陰の文化である。
日本の美意識を描いた陰翳礼讃にもあるように。お陰様(英語ではThanks to invisible forcesという意味合いも入っていると説明されるらしい)という美しい日本語にもあるように。

対話の拠点であるTAKUHI.を外から見る


役割として捧げる

今回を経て僕らがやろうとしているリトリートは、ある種のお役目みたいな感覚が生まれ始めている。
それはあくまで主観的な感覚があるだけで特に確信はない。
祈りや巡礼などをテーマに旅をする人たちは多かれ少なかれこのようなお役目を感じて動いているのだろう。その感覚が少しわかった気がした。

自己愛のために生きるのはもうつまらない。
それならばこのリトリートを経て、土地と人々に癒やしと気づきをもたらすような場を祈りを込めて続けていきたい。

出張料理人ソウダルアの直会ディナー


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