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宗教と対話のリトリート

この文章は、2023年10月に富士聖地で開催された二泊三日のリトリートで感じたことを書いた文章です。

富士聖地でのリトリートは三回目となります。
今回は、宗教の違いを超えた「人間同士の繋がり」が大きなテーマでした。

参加者は、宗教組織を将来的に担うことを約束された人や、様々な経験を経た上で自分なりの「宗教心」を大切に人生を歩んでいる七名が集まりました。

内容としては、対話や祈りの時間をメインに置きながらも、共に料理をし、共に風呂に入り、同室で眠るという、人間同士の触れ合いをプログラムの中で大事にしました。


宗教に風通しを

自分が行っていたコミュニティ活動を通して実感するのは、同じ価値観の人間が集まり閉じられた環境にいると、価値観自体を根本的に問うとことが難しくなる、ということです。

このリトリートでは、多様な参加者が集ったことで、必ずしも価値観や前提知識を共有していない他者に対して、自分なりの宗教心について自分の言葉で語ることが自ずと求められました。

対話をする中で、それぞれの参加者が話す内容は、自ずと、誰にも伝わるような普遍性・透明性を帯びていきました。

具体的にいうと「神様」など信仰の対象の固有名詞で語ることが少なくなっていき、その人が持つ宗教心そのものがエッセンスとして語られていきました。

次期教主という立場の方と交流する時、たとえそのような立場に生を受けた方とはいえ、同じ、普通の人間なんだという認識で僕は接しています。

親子とはいえ、才能も性格も大きく異なることが当たり前であるように、血縁として継いだ教主に、教祖の能力をそのまま受け継ぐとは限りません。
ゆえに教主も自分なりの「神性」への繋がり方を求めている一人なのではないかと思っています。
霊的能力の有無を問わず、自らの「神性」につながり、他の人も真似したくなるような人格を高めていくことが、現代の宗教家として歩むべき道で、現代的な宗教への歩み寄り方として健全なアプローチなのではないかと僕は思います。

富士聖地はいつもあたたかく迎えてくれる


宗教組織も会社みたいだった

リトリートの前準備として、個人的に、参加者のうちの数名が所属している宗教組織の本拠地に伺わせていただきました。

宗教教団は教祖の教えをより多くの人に伝えるために必要とされた背景があります。

生まれながらにして、ゆくゆくは教団を背負う立場になる次期教主の参加者に、教団を背負う感覚について聞いてみると、家族経営のオーナー企業や、伝統文化や芸能やものづくりを担う宗家の人たちが組織を背負うことに似たような課題意識があるように感じました。

どの組織とも同じように、内側の職員や会員の幸せを願い、外側の社会へのインパクトを拡大させることが命題のようでした。
宗教教団と聞けば、どこか不可侵的な雰囲気が漂いますが、腹を割って話せば、教団の悩みは会社の悩みと大差はないのだと感じました。

そんな中で、古くから続く宗教組織の多くは、信者数が減衰傾向にあります。
その要因は、個人の自由意志の尊重、特に信仰の血縁相続についての是非をめぐる議論も無関係ではないと感じます。

生まれながらにして運命が決められているという状態は、現代社会においては不自由で不自然です。
日本も江戸時代までは血縁によって社会秩序を保ってきていましたが、近代化の流れで個人の自由意志がどんどん拡張されていく一方で、宗教組織の血縁相続者の信仰的自由はまだ取り残されているのが現状です。

古くからの宗教組織は、血縁の強い繋がりで守られてきたからこそ、「減衰する中でどう生きるか」という日本のあらゆる伝統的な組織が向き合ってきた課題に対して、今にして正面から向き合う番がようやく回ってきつつあるのかなと感じます。

今回も白光真宏会職員さんたちを交えた対話をさせていただいた


「神性」に繋がる道は人それぞれ

僕には十年以上育んできて今も大事にしている宗教心があり、その探究の過程で世界の構造や人の生きる道などを左脳的な理解をもとに一つずつ納得して、自分なりの人生の地図をつくってきました。
今回のリトリートでは、自分の宗教心について一時間半ほどのプレゼンという形でシェアさせていただく機会をもらいました。

宗教心のような繊細なものは、大事すぎて内に秘め過ぎていると、言葉にならない想いが肥大化して自分を呑み込んでいくような感覚がありました。
しかし、安心安全な場で、全力で放出させてもらうと、自分の中に抱えていたエネルギーの総量が見えて、「こんなものか」とそのエネルギーと分離して手触りを持って見極めることができるようになっていく感覚がありました。

シェアが終わってみると、自分の中で頑なに握りしめていたものの質感が変わる感じがあり、気がつくとみんなに「聞いてくれてありがとう」と言っていました。
終わった後の僕の姿を見て「“ちゅるん”としていた」と参加者の一人が言ってくれました。

そんな全力のシェアをさせてもらった結果、伝わったのは、意外にも内容ではなく姿勢でした。
僕は僕の中で整理された宗教心を「智慧」としてシェアしたつもりでしたが、受け取ってもらえたのは僕が発したエネルギーそのものでした。
「内容のことはわからない部分も多かったけど、健ちゃんがそれをいかに大事にしているかが伝わってきたし、その姿勢自体が好きだし、エネルギーが伝わってきた」と参加者の一人が言ってくれました。
どんな内容であっても、語る人の在り方こそが大事なんだと気付かされました。

他の参加者の宗教心も様々な形でリトリートの中でシェアされていきました。
ある人は祈りで、ある人は言動で、ある人は教義で、ある人はイメージで、ある人は覚悟で、ある人はハートで…。
それぞれの宗教心に触れた時に、僕が大事にしている、左脳による構造的理解も、自分の「神性」に繋がる一つの手段に過ぎないのだと理解しました。

自分の宗教心は大切ですが、同時に他者が大切にしている宗教心も大事にできるようになる感覚を持ちました。
自分が学んできたものが誇りを持って真実であると同時に、全ての人が内に秘めた宗教心もまた解像度や表現を変えた真実であると正面から受け止めらるようになりました。

宗教心に優劣はなく、ただそれぞれに真実がある。
それはバラバラに分離している状態でもなく、一つに統合されている状態でもなく、ただそこに愛としてあるという質感なんだな、と体感として感じることができました。
宇宙的な繋がり、自分の「内なる神性」への繋がりかたは人それぞれに違う。
その繋がり方こそが、私たちに与えられた個性と言えるものかもしれません。

日の出に向かってみんなで拝む


愛は多様な信仰を包み込む

参加者たちの宗教心をそれぞれがシェアしていく中で、全員が「内なる神性」への多様なアクセスを持っていることに確信を持つことができました。
一方でそれぞれの立場を超えて、私たちが一つの宗教心に統合される時に「愛」がその違いを包み込むことに、このリトリートを通して確信しました。

智慧の父性愛と慈悲の母性愛のジレンマを大元から包み込む「愛」。
男女愛、親子愛、兄弟愛、人類愛、宇宙愛を分け隔てることのない「愛」。
固有名詞では掴めない純粋なエネルギー状態の「愛」。

「愛」は言語にした途端にその質感が失われていく繊細さがあります。
同時に、全ての信仰を包み込む大きな包容力があります。
「愛」に色はなく透明で、だからこそ目に見えず、だからこそ皆に受けいれられます。
「愛」の透明性こそが、これまでの宗教的確執を超えていくのかもしれない、と思いました。

たとえ科学の発展により宗教の存在意義が根本から変わったとしても、各宗教の信仰は否定されるものではなく、風土に根ざした文化として、もしくはご縁で惹かれ合うものが集まる拠り所として残り続けるのではないかと思います。
血縁による半ば強制的な信仰よりも、個人が志向した自由意志の中で、自ら選び取る宗教であった方が今の社会にはフィットしているように思います。

自分の「内なる神性」が第一義であり、それを補完するものとしての外の宗教という位置づけになれば、宗教は専従である必要もなく、複数への信仰も許されるのかもしれません。
カジュアルに言えば、自分の世界観にあった教義や教祖の「推し活」みたいになるのかもしれません。
もしかしたら、系統が合う人たちが集まり、それぞれの宗教的世界観を補い合うことが次の形の宗教組織になっていくのかもしれません。

宗教を問わず、愛や平和は普遍的なテーマです。
しかし残念なことに、宗教間の関係性においては、総論賛成各論反対の立場から、競ったり争ったりしがちです。
混乱の時代には、宗教が創始者の教えに立ち戻るように、一人一人も自分の「神性」やそこに繋がる愛の質感へと還っていくことが大事なのかもしれません。

真理を追い求める「手段」にこだわるから、違いや矛盾が生まれます。
しかし、たどり着く先の真理の質感は同じであるはずです。
私たちが本当に求めている「エッセンス(核心)がなにか」ということに目覚めれば、愛に満ちた平和な世界がそこにあるのではないか。僕はこのリトリートを通じて確信に近いものを掴んだ気がします。

宗教の違いを超えた「人間同士の繋がり」の和が生まれた


二泊三日のリトリートでは色々なことについて対話をしました。
ここで書かせてもらっている気づきは参加者みんなで紡いできたものです。
この場を借りて、創発してくれたことに感謝します。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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