空のブッダ・底のキリスト
最近は仏教に縁が深かったが、キリスト教と比較することで僕なりに両者に対する気づきが起きたことをここに書いておきたい。
あらかじめ断っておくが、僕は仏教もキリスト教も宗徒ではないし、宗教に関しては素人である。
本筋の方からすれば部分的解釈による妄言になるであろうが(部分的解釈すら間違っていることもあろう)僕個人の気づきであるということをもって許しを得たい。
宗教というより開祖であるブッダ(釈迦)とキリスト(イエス)の生涯を通した型の違い、そこから派生している在り方などを比較しながらみていきたい。
僕はブッダ的な在り方にどうしても寄ってしまうことが多く、キリスト的な在り方の大切さを最近は日々身に染みて感じている。
空のブッダ
まず釈迦(ブッダ)の一生をみてみよう。
釈迦の一生は恵まれたものだったと言えるだろう。
元々が王族の生まれで何不自由ない生活をしていく。しかし誰もが羨むような暮らしの中でもそこに「苦」があることを見出した。
それゆえに出家をして真の悟りを経て、根源的な苦を取り除く境地に至った。
釈迦は80歳までの入滅まで、内側の精神に安心を持って生涯を平穏に終えた(と思う)。さらに、釈迦の外側の環境も王族を含むあらゆる人々から愛され信頼され尊敬された。
そのなかで、釈迦は「この世は空である」という教えを説き続けた。
衆生が色の世界で迷っている時、釈迦は慈悲の心で救いあげ、智慧の光で安心への道を照らした。
大事なのは釈迦自身は空という究極的なメタ世界の中に存在し続けられていたということである。
常に微笑みを絶やさずに光そのものになるブッダがそこにいた。
底のキリスト
次にイエス(キリスト)の一生を見てみよう。
イエスの一生は悲劇的だったと言えるだろう。
イエスはその生涯の中で既存の宗教団体からも政治団体かも迫害を受けていた。
精神的にも肉体的にも苦しみと共に底にいた(と思う)。
その在り方がキリスト教の贖罪の精神(人間が生まれながらに罪深い存在であるから神への赦しを求めること)へとつながる。
主観的な苦と共に愛の中で生きた男であった。
神から愛されていると信じることで苦の中にいたとしても正気を保つことができる。
僕にとっては信仰というものがはじめて腑に落ちた感覚があった。
鳥のブッダ・蟻のキリスト
釈迦とイエスの一生を見てきたが対称的でありどちらも極端な生涯だった。
違う見方をすれば、ブッダは空を飛ぶ鳥であり、キリストは地を這う蟻とも言えるかもしれない。
ブッダは空(くう)という空(そら)を飛ぶ鳥のようなものであろう。
真理と共にあり、常に平静な客観的な心で大局観を見ている。
宇宙と繋がる法(ダルマ)と共にあり、全ての事象を縁起と因果のマトリックスで捉えメタ思考の世界で生きている。
全ての事象は取るに足らないことで、空から見れば大海に生まれる一つの波に過ぎない。
対称的にキリストは地を這う蟻に見えてくる。
蟻は地上から世界を主観的に見るからこそ全体が把握できない。
ゆえに目の前の事象に揺さぶられ自分が溺れたり、迷ってしまう。
途方もない世界に対してあまりにちっぽけな自分の無力感を嘆く。
暗い谷底で溺れ迷いながらも神の愛と共に在ろうとする生き方が人々の道標となる。
愛のブッダ・恋のキリスト
悟った釈迦が与える愛は、空の中から慈悲深く調和が取れているあたたかい愛。そこには智慧へと優しく導く無限の器に包まれるような自立的で大きな愛がある。
苦とともにあるイエスが与える愛は、底の下から愛情深く犠牲的で献身的な愛。それは神に対してバランスを崩すような依存的で正気を失うような恋と呼べるかもしれない。
最近、愛と恋はどちらも必要なのだと思うようになった。
本当に窮困している人に慈悲深い教えは届かないこともあるだろう。
根本から自分を救ってくれる真理よりも目の前の痛みをとることが最優先事項なのだ。
そんな時は、一緒にどん底まで降りてただ共にいて愛を与え続けるということが人を癒し立ち直らせるのだと感じる。
マザーテレサは目の前の人が自分にとっていかに大事な存在であるかを愛と共に伝え続けた。
あるエピソードで自殺を考えていた人がハウスを訪れたところ「私はマザーに愛されているから死ぬわけにはいかない」とマザーテレサと五分話しただけで元気に帰っていったというエピソードがあるという。
自己犠牲的で献身的な愛は偉大だ。人は誰かに丸ごと愛されることで命が治癒されていくのだ。
僕は元々、一新教であり天なる父を擁するキリスト教に父性を感じ、空という無限の母体からの与えられる慈悲に仏教への母性を感じていた。
これが人間視点で見てみると、神に恋するキリスト教には依存的に甘えようとする母性を感じ、空を愛する仏教には真理の道を歩もうとする父性を感じるという逆転現象が個人的には面白い。
統合された親鸞上人
ここで親鸞上人の生涯をみるのが面白い視座を与えてくれる。
こうしてまとめると親鸞の生涯はブッダとキリストのハイブリッドのようにみえる。
親鸞は比叡山のエリート僧侶であったにも関わらず、その地位を捨て戒律を破り自身を悪人と定義しながら苦と共に人生を歩むことになる。
人間の本性が罪深いことを認め、阿弥陀仏に救済を求めるというのは贖罪の考え方に近く、このnoteでの文脈では阿弥陀仏に恋していると言えるだろう。
仏教の阿弥陀仏が一神教的に扱われることも特徴だ(他の仏の存在も認めているので正確には一神教ではない)。
人々は智慧の前に慈悲を、その前に癒やしを求めている。
浄土真宗が日本の宗教史においてこれほど重要な地位をしめたのかがわかる気がする。
自立でも依存でもなく共存
ここまでブッダとキリスト、そして親鸞の生涯を見てきた。
僕はあらためて客観的な空であることと、主観的な底であることは両方が大事であろうと感じる。
客観的な空とは天なる父であり父性的な力である。メタ的な視点から世界を構造的に見る智慧は力そのものだろう。
主観的な底とは大地なる母である母性的な愛である。同じ目線で自分に親身に寄り添うコンパッションは愛そのものだろう。
これは今の社会の中でどこでも共通してみられる構造的な型だ。
例えば組織論では、垂直型のトップダウンと水平型のボトムアップの是非が日頃から問われるわけだが、世界的ファシリテーターのアダム・カヘンは変容型としてどちらも循環させることが重要であると言っている。
もしくは家庭の中での夫と妻の子供に対して期待される役割もこれに近い。偉大で立派な父親と優しくて親身な母親は子供にとってブッダとキリストなのかもしれない。そしてそれが仲慎ましく共存していることバイブスが教育上とても大切なのだろう。
自立でも依存でもなく共存。
空も底も、愛も恋も、鳥も蟻も、どっちも大事。
自分の中での全体性を、社会の中での全体性を育んでいきたい。
まあ、この文章自体がメタ視点による構造化であり(それゆえに質感を失っていることには自覚してたいが)、僕はやっぱりどちらかと言えばブッダ寄りなわけですが。
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