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35歳の人生観|愛に生きたいくず野郎

毎年の誕生日におこなう生存報告も兼ねた一年の振り返りを今年はnoteに書いてみたい。

2023年に35歳を迎えるひとりの人間の人生観の話。

2023年|大転換を遂げる10年のはじまり

2023年とはどういう年であろうか。
それを知るには時代を大局的に見る必要があるだろう。

未来を予測することに過去のループパターンから類推することが役立つ。
日本の歴史において80年ごとに決定的な事象をもって時代が大きく変わるレバレッジポイントというものが存在する。
一つ前は1945年の日本国敗戦から1951年のサンフランシスコ講和条約まで。
二つ前は1867年の王政復古の大号令(江戸幕府崩壊)から翌年の五カ所の誓文である。
これらは全て80年周期の陰極まる10年で起きたことだ。


時代のレバレッジポイントはこの10年で起きている

今回のパターンで言えば2023年から2032年がそれにあたる。
過去の時代の転換点では武士が廃れ、軍人が廃れた。今回はなにが廃れていくだろうか。
ライフスタイルやワークスタイルが抜本的に変わろうとしていると言われて久しいが時代の最終コーナーをいよいよ私たちはまわりつつある。

35歳|大人を自覚する年齢

個人的にアラフォーに突入する35歳はいよいよ若手では通用しない感覚がある。30歳頃はまだ若手としての甘えもあったがさすがにそうもいかなくなってきた。

35歳になるタイミングで自分のことを最低最悪のくず野郎だということがようやく自覚できた。その自覚がこれからの希望であり救いだ。

空海は19歳の時に自分を「最低最悪のくず野郎」だと自己批判して比叡山の草庵に籠る

僕の人生は中学生あたりから自覚上は順風満帆にこれたおかげもあって、自己尊厳が高く自分の在り方を全面的に肯定してきた節がある。
しかし、それは大きな誤りだった。生きているだけで人様に迷惑をかけている自分が一方でいるのだと気づいた。
自分に誠実に生きているつもりが、それは自分の弱さを棚上げして、他者への誠実さに欠ける搾取するような態度だった。

僕の内側には渇望と恐怖が渦巻いていた。
修行などを通して自分を探求し続けてきたけど、未熟な僕は内側の心に揉みくちゃにされて、外側の行動を無自覚的にくず野郎として生きてきた。
くず野郎であるという自覚することは、ようやく自分の至らなさに光が当たったのかもしれない。

マイプロ|自分の生きる意味を証明したい渇望

僕は男で物理的に子どもを産むことができない。ゆえに創造するということに対して生物的にコンプレックスを持っている。
生まれてきた意味を証明するために僕はCiftやNestoなどのマイプロをやり続けた。

僕を突き動かしていたエンジンは友人や社会、ひいては神さまに認められたいという極めて自己中心的な渇望だったのを感じる。
ソーシャルグッドな活動には人にチヤホヤされたいという渇望が本人にすら気づかない形でその裏に潜んでいる危険性がある。少なくとも僕自身はその自分中心さに自覚することができないでいた。

もっと突き詰めると、結局は現在の自分に満足していないだけだ。
現在に満足できていないので、未来へ満足する感覚を必死に求めていた。それが結果的に常に前のめりなmoreを求めるエンジンになっていた。
自分の深いところが癒やされた時に「イマココに満足するだけでいい」ということにパッと気づく体験が最近あった。救われた気がした。

最近の僕が母性的な癒しが父性的な気づきよりも先立って重要なのではないかと感じている理由はこの体験にある。
それはそのまま真理を求める仏教好きな僕が、救済を求めるキリスト教への思いを馳せることへと繋がっていくのだが、それはまた別のどこかで。

※追記|思いを馳せた文章を書きました


悟りとはイマココに全てがあることを感じることであり、過去に後悔することも、未来に期待することもなくなる状態なのだと体感した。
イマココにおいて繋がっている安心感の繋がりの中で生きていれば色々なことがどうでもよくなる。

過去と未来に捉われずに現在に安心していたい

愛に生きる状態とは悟りであろう。
イマココで愛に生きていればこのまま時が止まっていいとさえ思えるし、それはそのまま死んでもいいと感じることでもあるような気がする。
一瞬であり永遠の時間で生きる感覚かもしれない。

それでも時は自ずと流れるのだとしたら、そのフローに自然体で乗りながらただ生きてるだけでいいやという気分になる。
ならばせっかくだから時空間の中で自分の命をつかって、さらに世界を愛で満たすために生きようという気分になるものだ。
これが好循環を生み出すのかもしれない。

お金|自分だけは生き抜こうとする恐怖

自分の寂しさを愛で満たすことができても、生存防御本能として機能する恐怖はまた別の切り口の課題である。
現代において死と直接的に紐づく恐怖はお金にあるだろう。

一度も会社員として雇われたことがない人生の中で常にお金とは向き合ってきた。いかに仕事をつくるなりもらうなりして収入を生み出すかに苦心していた。
目的は自分の稼ぎで、手段として自分のできることをやろうとしていた節がある。自己中心的に他者からいかに搾取するかを考えてきた最低最悪っぷりだ。

Nestoがミニマル経営にシフトするに従って、僕の意識も変わりつつある。
Nestoはある時から自分たちが生き抜くために会員を増やすということを手放した。Nestoリズムについては人事は尽くしたので天命を待つみたいな気分になっている。
その分、支出管理を徹底的に行い現在の収入を超えない支出にすることに苦心した半年間を経て体制変更はほぼ完了した。

Nestoがパートタイムとなり僕の収入は再び安定しなくなった。
しかし、今回は別の稼ぎ口を見つけるのではなく違うあり方に挑戦している。
収入は期待と予想を手放し自ずと入ってくるものだけを受け入れることにした。
支出に頭を使ってコントロールしていくことで安心感を生み出していく努力をする。

自分の心がつくりだす恐怖と向かい合い、そのエンジンを止めていきたい
目の前の人に対して純粋な愛だけで触れ合うクオリティの時間で人生を過ごしたい。
それだけで生きていける世界線に移り変わりたい。

最近のコーチングやクラニオセイクラルなどの個人セッションに自ら固定的な価格を提示することはやめて、付け値制や喜捨制などいろいろ試しているがまだ試行錯誤中である。

お金はその場でエネルギー交換を終わらせてしまう。お金は信頼できない他者との価値交換をスムーズにするために生み出されたコンセプトだ。
短期的なやりとりの連続は緊張感を恒常化し、残念にも自分だけは生き残ろうとする自己愛へと繋がる。

この80年はお金がテーマになっているが、その前はいかに戦争に勝って自分だけが生き残るか、その前はいかに自分の身分を守って生き残るか、と対象を変えながらも結局は自己生存本能ゆえの行動であることは変わっていないのではないか。

もっと世界を信頼してみてダイブしてみたい。
エネルギーのループを少しづつ長く大きくしていきたい。
自分の想像も超えるような宇宙のダルマ(法)に沿って、与えたものが返ってくること世界に生きてみたい。
そして果てしない因果法則を自覚することで、自分の世界への信頼を増していくような正の循環の世界線で生きていきたい。
少なくとも、まだやってきてもない未来のゴーストに怖れることをやめたい。

ガンジーは死ぬ時まで富も財産も肩書も公職も持たず、司令官でも統治者でもなく、科学的な業績も芸術的な才能も持っていなかったのだ。

死ぬ時に持っていたガンジーの所持品


愛に生きたいくず野郎

自分がいかに最低最悪のくず野郎なのかを自覚できることは希望であり救いだ。
くず野郎が愛に生きたいという心持ちはプラスになるしか道がない。
自覚ができるということは分離して客観的に扱えるということである。

当たり前だけど、自分のバイブスが低い時はお金に対する恐怖も、自己表現するための渇望も続いていくだろう。
しかし、それを今後は扱うことができるようになることが少しずつ増えていくのではないか。

そもそもくず野郎でなにが悪いと思っている節がある。
人格を高めるより、人格を消していきたい。
近代的自我を手放すとはそういうことだろう。

時代が大きく変わる時は、今までの生き方を続けると生存レベルに危機が迫る時だ。
そうでもしないと人は変わらない。
エネルギーも食料も戦争も気候もそれが自分の生存の危機レベルまで近づくときに人は具体的に心持ちも行動も変わるだろう。

終わるのは自己中心的な金の時代であってほしい。
始まるのは全体調和の愛の時代であってほしい。
少なくとも僕がそれを望むならその世界観で生きていたい。

ガンジーが放っているバイブス

今日から35歳だ。
これが僕の現在における等身大の世界観。
たぶん10年後には恥ずかしい。
いや、来年には恥ずかしいかもしれない(実際、去年の自分の投稿が恥ずかしかった)。

それでも書いておこう。
自分のために定点観測として。
そして読んでなにかを感じてくれる誰かのために。


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