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「流れに従って生きる」⑧ー再独立編ーACT66:大どんでん返し

私の携帯電話に佐藤様から突然の電話が入りました。

江原氏からの話を聞いての電話だろうと思い、私はすぐに「もしもし白鳥です。お世話様です」と電話を取りました。

佐藤さま「ちょっといいかな...」と意味深な言葉から話し始めました。

私「今回は、せっかくお知り合いになったのに申し訳ございません。」

佐藤さま「今日、江原さんから電話があっていろいろと事情を聞きました。近いうち会って直接お話をしたいのだが・・。」

私「あ・・はい。構いませんが・・。」

佐藤さまからのご要望を無理に断る理由もないので、私は流れに従ってお会いすることにしました。 

佐藤さまは鋭い勘の持ち主であることは薄々感じていました。
江原氏の茶番劇電話も、会社の本当の様子も見抜いているのでは・・と感じていました。

 そして、私が仙台を離れる2週間くらい前にファミレスで佐藤さんと会いました。

 
佐藤さまからの質問


佐藤さんからは、

○ 本当に結婚するために岩手に戻るのか?そうは見えないということ。

○ 木の香の家に家づくりをお願いしていたつもりはなく、白鳥君にお願いしていたつもりであったこと。

○ 設計中、なにか奥歯に物が挟まった感じで私が話を進めていたこと。

 
など、いろいろ聞かれました。

 佐藤さんにはウソを言っても通じないことは分かっていたので正直な事情を話しました。
 設計段階で言いたいことを言えず、奥歯に物が挟まった状態だったのは、江原氏が自由設計を認めなかったことが要因でした。
 プランの発想は色々ありましたが、展示場と「同じ形」でないとダメだと強く制約を受けていたのです。

江原氏の狙いは、同じ形の住宅を大量生産することで回転を上げ、効率よく利益をあげるという机上の計算でした。お客様が、その枠からはみ出すような要望を言い出すと、いろいろと問題点を並べて結局は展示場と同じ形の枠に納めようとするのです。まさに大量消費を目指すハウスメーカーの考え方でした。

 
 佐藤さんは、私の今後について質問されました。

私「岩手で彼女の実家の家をとりあえず建てます。それ以降は決まっていません。」と説明しました。

そうすると、佐藤さんは「仙台でも建てられるか?」と聞いてきました。

私は「もちろん出来ます。やらせていただけるであれば、今までのプランとは比べ物にならないような納得いく住宅を提案します。」と正直に話しました。

そして、佐藤さんとのその後の話し合いで、㈱木の香の家との「契約の当日」に「契約白紙」を申し入れることが決まりました。

 

新たな流れ


 また1つ「流れ」に乗ってきた予感がしました。
きちんと進めば、細々と春までは食べていける。
その間に春からの仕事を探すという明るい流れが見えてきたのです。

 「先の仕事が見える」、「しばらく経済的に食べていける」・・ということが「当たり前のこと」ではなく、「うれしいこと」「精神的に安定できること」という強い感覚を受けました。

 

契約日当日

 契約の日、江原氏は判子と契約書を用意して、私の親代わりになったような口調で「このたびは白鳥がご迷惑をおかけする形に・・云々」と流暢に言葉を並べました。

しかし、佐藤さまからは「最後まで担当者が同じだと思っていたので、話が違うのであれば、この話は白紙にしてください。」という旨が伝えられました。


お金に執着心の強い江原氏です。

得意の論理展開で何とか契約に持ち込もうと食い下がりましたが、そんな、若輩者の会話テクニックなど佐藤さまには通じませんでした。

 佐藤さまが会社を立ち去ったあと、当然ですが江原氏は契約不成立の責任を私のせいにしました。
 そして、お詫び料として佐藤さんが置いていった封筒の中身を見て「たった1万円かよ!」とケチをつけていました。最後の最後まで醜態を目にし、江原氏と別れて本当に良かったと思わされました。

 そして佐藤さまには、わざわざ「契約白紙」という面白くない手続きのためにご夫婦で事務所までご足労していただいたことに、ありがたくも非常に申し訳なく思いました(><)

 

江原氏の描いたイメージとは真逆に進む展開


 退社の条件の1つだった「佐藤さまの契約まで、白鳥の方から一切の電話をしないこと」は一応守りました。

 佐藤さまの契約までの道筋は江原氏の手腕にゆだねる形になったわけですが、「契約が不成立」になるどころか・・江原氏の思惑とは真逆の、「私(白鳥)の仕事になる」という思わぬ結果になってしまいました(もちろんこの時点で江原氏は知りません)。



 さらに、2つ目の約束である「ホンダ建材の社長に株を抜いてもらう」ことでも、江原氏の手法が災いしてとんでもない展開になっていくのです。


事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。



「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT67:ホンダ建材社長の株の行方(江原氏の墓穴)


佐藤さまの一件は、結果として江原氏の思惑とは全く真逆の結果になりました。

 ホンダ建材の社長さんに株を抜いてもらう話をするときも、江原氏の手法は尋常ではありませんでした。

皆さんもお考え下さい


(さて、ここで考えてみてください。:あなたが江原氏の立場で想像して、ホンダ建材の社長に400万円の株を抜いてもらおう思ったとき、どういう方法を考えますか?)


私のイメージはこうでした。

「白鳥が㈱木の香の家を辞めて岩手に帰るので、白鳥に期待して400万円の出資をいただきましたが、その意味も薄れるので400万円の株を抜いてもらっていいでしょうか。
あとは私(江原氏)と牧田で切り盛りしていきますので。」・・・と

素直』に『丁寧』に説明して、『円満』にホンダ建材の木戸社長に株を抜いてもらう。

 私もそれを丁寧にお願いして、ホンダ建材の社長の400万円の株と、私の200万円の株を抜いて、きちんと清算して気持ちよく岩手に戻る。
私の役目はそれをお願いすることだと思っていました。

 多分、普通に考えれば100人中99人はそうすると思います。
 


江原氏の尋常でない手法

しかし、江原氏の手法は驚くものでした。

 丁寧に説明して株を抜いてもらえばいいものを、軌道に乗ってきた成金社長みたいに人に頭を下げるのが嫌みたいで、わざわざ泉パークタウンにあるロイヤルパークホテルの高級バーに「臨時株主総会」と題してお酒飲みに誘い出して、株主の4人で話を始めると言い出したのです。
 

 そのスキームはこうでした。
 臨時株主総会と題して、ホンダ建材の社長を呼び出してホンダ建材の社長を怒らせる → 「お前らみたいな会社に出資などできるか!」と怒らせて、株を抜いてもらう。
 

 なんとその理由は、丁寧に説明すると黒字決算なので多少配当を上乗せして株を抜いてもらわなければならない(と言っても1年目なので大した金額ではありません)。
 その配当のお金すら渡したくない → だから怒らせて株を抜いてもらう。

 私は、「開いた口が塞がらない」とはこういうことか・・と感じました。
 出資してくれた御礼として少しくらい配当を渡したっていいじゃないか・・とも思いました。

 
 私は『会社を辞める条件』で『ホンダ建材の社長の株を抜いてもらう手伝いをする』ことになっていたので、とりあえず無言で通そうと決めました。
 私を信用してくれたホンダ建材の社長を怒らせる意味がまったく理解できないので、完全に第3者的な振る舞いで時間をやり過ごそうと考えました。

 ロイヤルパークホテルわざわざ株主総会をする理由は、ホンダ建材の社長が怒っても、その場所では周囲の目もあるので怒鳴れないから・・という理由でした。
 なんで、こんなに手の込んだことをする必要があるのか理解できませんでした。
 
 ホンダ建材の社長 には、理由を説明することなく「臨時株主総会を開きたいのでご出席お願いできますか」と私から伝えました。

 全員の都合を合わせて、会議は平日の夕方に決まりました。
 

ここから、話はとんでもない方向へ進んでいくのでした。


事実は小説よりも奇なり。





「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT68:臨時株主総会、予想外の展開


臨時株主総会は、平日の夕方からわざわざ一流ホテルの高級バーで開かれました。

 ホンダ建材の社長は、「何かいい展望でも見えてきたのか・・」という『期待感』を持ってその場に臨んだ印象があります。
 

 しかし、会議?は重々しい雰囲気で、江原氏の話から始まりました。
 

 話の内容は、「白鳥が会社を抜けることになった」→「なんとなくホンダ建材の存在が不要、邪魔」・・と受けとれる言い回しだったと記憶します。
 

 徐々に尋常ならざる雰囲気になっていくのを感じました。
  

その会議の途中で、人生経験の多いホンダ建材の社長は怒った口調で話を遮りました。
 

ホンダ建材社長の洞察力


 ホンダ建材の社長「この会議は、俺を怒らせて株を抜かせようという魂胆の飲み会なのか!?」
 

まさにその通りであり、ホンダ建材の社長はずばり見抜きました。

 ホンダ建材の社長は怒り、「400万円分の株は持ったまま今後も株主になっている」ことを告げ、飲み会を早々に切り上げて帰りました。
 
全くの逆効果でした。
 

江原氏の想定と真逆の展開


 ホンダ建材の社長の『見抜く力』と『予想外の行動』に明らかに江原氏は動揺してましたが・・江原氏は、「この行動も計算どおり」・・・と少し震えた声強がっていました。

 私は、岩手県に戻るまでは波風を立てたくなかったので、「やっぱり、すごいなぁ!俺にはこんな芸当は出来ないよ!」と、つくり笑顔でヨイショしながら、心の中で「こいつ、おかしくなってる」とつぶやいていました。
 

 どう考えてもおかしいのです。
 

 なんで素直に話して円満に株を抜いてもらおうとしないのか

 そちらのほうが苦労しなくてスムーズに進むはずなのに...。

 なんで、わざわざ怒らせる必要があるのか..
 さっぱり理解できませんでした。

怒号が出ないようにと高級バーで会議をする手法も陰湿さを感じました...。
 

ホンダ建材の木戸社長への謝罪行脚


 私には、責任がありました。ホンダ建材の木戸社長は、私を信頼して400万円の出資をしてくれたのです。

 翌日、私はすぐにホンダ建材の社長さんへお詫びに行きました。

 ホンダ建材の社長からは、「俺が何かしたのか?経営に口出ししたわけでもないし、経営の役に立ちそうな新聞コラムは従業員にFAXさせてはいたがなぁ・・。

 江原氏は、なんで、わざわざ俺を怒らせなきゃならないんだ? 馬鹿じゃないのか!? 素直に言えば、何も波風立てずに抜けてもいいものを・・。あんなふうにされては、簡単には引けないよ!」

全くもってその通りです。 

 「白鳥君と江原が来たとき、白鳥君の顔ばっかり見てしまっていたのが失敗だったなぁ。江原氏一人でくれば、出資なんてしなかったのになぁ…。」 

 私は、ホンダ建材の社長に400万円が無事に戻るまでは、私の株200万円も抜かないことを肝に銘じました。

 こんな感じで、江原氏が墓穴を掘ったため、私も綺麗に縁を切れないまま…岩手県に戻ることになったのでした。
 
 
これも、何かの「流れ」になるのだろうか・・。ん~・・(--;)。
 
 

まさにドラマ


私が株を持ち続けることになったことで、この物語の最終系はとんでもない方向に進むのでした。
 

事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。



「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT69:岩手で始動:「2足のわらじ」と「変な営業初日」


私は、仙台でのドタバタ劇を終えて、『株を抜けない』という中途半端な状態ではありましたが、岩手県に戻ってようやく自由な動きが取れるようになりました。

 仕事面でも、木の香の家受注した北上市の現場管理の仕事が少し残っていたので2か月だけは給料が入ることになっていました。
 そういう意味では、体半分は「㈱木の香の家のスタッフ」・・体半分は「再独立準備の個人事業主 白鳥」という状態でした。

 北上市の現場が終われば給料も止まるので、その2か月の間に自分の仕事を軌道に乗せないと『破綻』というタイムリミットに焦り始めるヒヤヒヤな状況でした。

まず私は、8月のうちに岩手県で個人事業としての設計事務所登録を済ませました。この時点では会社名は「木精空間(もくせいくうかん)」としました。
 「木の香の家」と名付けると、江原氏から小言を言われる恐れがあり面倒なことになりかねないと判断したのと、その時点で私はまだ㈱木の香の家の仕事(北上市の現場)をしていたこともあり同じ社名は避けました。

 工事中の現場があったため、私は江原氏と連絡を取り合わねばならぬ立場でしたので、まだまだ言動には注意しなければならない状況には変わりありませんでした。

 そういう意味では「自由になった」とは言えず、「長いロープの首輪でつながれた犬」のようなイメージだと思います。

江原氏の執拗な要求


 江原氏は、その期間中「株200万円を俺に売れ!」と何度も強く迫ってきましたが、私は「売る気はあるのだが、私を信じてくれたホンダ建材の社長が無事抜けるのを見守るまでは、人として出来ない」・・と、うまくはぐらかして時間を稼いでいました。

 そういう状況下ではありましたが、再独立した時の最初の物件になる「菅原さま邸」の家づくりの話は進めていました。

 

初めての菅原様邸 営業訪問



 初めて菅原様宅にお伺いしたときは、ただならぬ緊張感を感じました。

 実は、菅原さんの親に会うのは、そのときが初めてだったのです(--;)。

 私は、珍しくスーツ姿で営業カバンっぽいのを持ってお伺いしました。(スーツ姿で営業をするのは、人生1回か2回しかありません(^^;))

 営業カバンの中には説明するための一通りの資料は入っていましたが、事前にその資料を送っていたこともあり、住宅の説明は僅か10分で終わってしまいました。

「住宅性能の話など二の次」・・という雰囲気でした(ーー;)

 

菅原パパからの尋問??


 その後は、むこうのお父さんからの、ぎこちない質問タイム」が始まったのです。

「どこの出身か?」とか・・「兄弟何人何番目?」とか・・、
「実家の家業は何?」とか・・。

「いったい、今日は何の話に来たんだろう・・」と、背中に汗をかきつつ、いつの間にかビールを飲んで夕ご飯を一緒に食べていました。

 現かみさんも、わざとらしくタイミングを見計らって帰宅する計画だったので、夕ご飯のときは、まるで『ご挨拶に来た彼氏』の状態になっていました(--;)。

 その後、数回の打ち合わせを経て無事契約していただき、9月着工12月引渡しの工事が決まりました。

資金計画のスタート

 その時点で、200万円の株を抜いていなかった私は、正真正銘の資本金0貯金ほぼ0で 現場の切り盛りスタートだったのです。

 
 ここで、江原氏と一緒に居た中で唯一勉強になった「資金出納計画」を「自己流にアレンジ」して進むことになるのです。

 もちろん工事中に資金ショートさせられません。

 自分の力を試す絶好の機会と思い、毎月の支払い収入予定を計算しました。

 菅原様の住宅ローンは共済と銀行の併用でしたが、残債をいったん0にして抵当を外さないと銀行か共済のどちらかが実行されないという複雑な事情がありました。

もちろん、自分の生活費、会社の維持経費も月々の計画に組み込まないと、資金アウトになってしまいます。

でも、この「綱渡り感」がなんとなく面白く感じられました。

経営の原点』を一番最初の物件で経験できているという不思議な面白さを感じました。

これができれば、あとは怖くないという思いも出てきました。
 


江原氏は、「資金回転がきつくなったらお金を貸すぞ」と協力姿勢をみせましたが、トイチより高そうな「借り」が出来そうなので、断じて借りまいと心に誓っていました。

 

事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT70:貯金0で住宅会社をスタート


住宅会社を始める・・

 普通に考えると、資金1000万円とか持っていないと、怖くてスタートできないと想像します。
 展示場も建てられないし、宣伝も出来ない・・ましてや家づくり自体に数千万円掛かるのに貯金0なんてあり得ない!と考えるのが普通です。
住宅業界に居る私ですら、自分で独立を考える前は普通にそう思っていました。

 しかし・・いざ、その独立という立場に立ってみると、知恵を絞ってなんとかなりそうだという道筋も思いつくものです。
 私は、自分なりの発想で貯金0から住宅会社を経営することになりました。


原価と経費をオープン


 まず最初に行なったことは・・、
 住宅会社がいったいどれくらい利益(会社運営経費)をいただいているのかという話をオープンにすることでした。
 そうしますと住宅建築費の8割くらいは住宅会社の利益(会社運営経費)ではなく、大工さんや基礎屋さん、設備屋さん、建材屋さんなどに支払われる工事原価であることが理解できるようになります。
 この点を、まずはお客様と会社で共有認識することが現場トラブルを防ぐ一番の方法だと思っていました。
 
 一般的に多くのハウスメーカーさんは、衛生機器など定価が分かる項目を安く提示することで「当社は高くないですよ」と思っていただき、「オリジナル構造一式」という項目をものすごく高い金額にして、会社の利益を生み出します。
 つまりは、見積もりで定価の分かる衛生機器などの項目では利益を取らない分、別の項目(オリジナル構造)に利益を含むという仕組みです。

 (もしくは、単純に「坪数×坪単価」+仕様変更分ということで、見積もりを数分で確定させる方法もあります。会社の住宅仕様が固定されていれば、この方法でも良いと思います。)
 
 私は仕様を固定する家づくりではなく、1人で図面作成や現場管理をする状態でした。その上で項目別に利益率を変えて見積りを管理するのは大変な作業だと判断して、素直に工事原価を公表することを決めました。
 一般的に小さな住宅会社さんは総請負金額の25%の経費をいただくと会社運営がスムーズにいきます。



 菅原さま邸では、「私が独り身」ということ、「仕事」&「独立のきっかけ」ということもあり、工事原価+「管理諸経費200万円」で固定して契約しました。


初期の会社運営方法



 アパートの一室で仕事をしていた私には、自分の給料も考えると、ぎりぎり1ヶ月30万円の経費があれば、なんとか暮せました。そのため、毎月、「その月の工事進捗原価分」 + 「経費の一部30万円」を請求させてもらっていきました。

 4ヶ月で工事を終わらせれば、管理諸経費200万円のうち120万円(30万円×4ヵ月分)は使うことになりますので、経費残金80万円が次のステップを踏む資金(宣伝広告費・会社の体力UP費)になるという仕組みでした。
 幸いに、次の現場が仙台市のSTさまとほぼ決まっていましたので、生活を継続できると計算して、そのような契約にさせていただきました。


 つまり・・貯金0でも、業者さんに支払う「工事原価分」 と 自分が食べて生きていける「会社経費分」をご入金していただければ、現場会社も回るのです。
お客様には、その点をご理解いただき「つなぎ融資」を組んでもらい支払い資金をご準備いただきました。
そして、毎月進捗分だけをご請求させていただくことにしました。
 

単純ですが、「毎月の工事進捗支払い分 + 会社運営経費一部 の ご請求」を毎月繰り返す・・。
もっとも自然で当たり前の方法なのです。


 それを、利益を伏せて、着工時1/3 中間で1/3 引き渡し時に1/3 の請求方法・・でブラックボックス的にしてしまいますと、貯金0では途中で「業者さんへの支払い」が「手持ち資金」を超過してしまい、資金ショートしてしまう可能性もあるのです。



お客様の家づくりを守るためにも



 お客様の方でも、「請負金額=全部利益でしょ!」と錯覚してしまい、工事金額の駆け引きが始まって、小さな住宅会社が資金的そして精神的ショートしてしまうことも住宅業界ではよくある話だったのです。

 最悪の結末は、苦しくなった住宅会社が、いろんな言い訳をして、工事が半分も進んでいない状態で請け負い金額の9割くらいを請求して、お客様は何の疑いもなく入金してしまい、その会社の社長が多額の資金を持ち逃げしてしまう・・ということです。
 つまり、何らかの理由で資金ショートしそうになって、お客様から多額のお金を引き出して会社を潰すという方法です。

 
 木造の骨組み建て方が終わって、足場も掛かった状態で1年以上放置されている現場をときどき見ます。ほぼ全てがそういう理由で、現場の進捗以上にお客様が住宅会社に支払ってしまい、そのタイミングで会社が潰れてしまった現場なのです。
 残りの手持ち資金がほぼ無いため、その工事を引き継いでくれる会社も見つからず、結局・・数年後に解体。お客様は家が無いのに、住宅ローンは発生しているという最悪の状況になります。
 

 私が行なっている「工事原価と利益オープン & 毎月進捗分だけのご請求」であれば、現場と会社が資金ショートしづらい上に、万が一、工事途中で会社がつぶれてもお客様の手元には残工事をするだけに資金がまだ残っているのです。残工事をする資金が残っていれば、途中で止まった工事でも引き受け手は見つかります。
 いろんな意味でこの方法は両者にとって良い方法だと思っており、実はこの方法は今でも続けております。
 
 


珍しいお金の管理方法



そして、会社内部の『お金の管理方法』もちょっと変わった手法をおこないました。
 
 
その手法は、以前に業界誌に連載させていただいたこともありますが、その手法の最大の目的は・・
私のような小さな住宅会社の社長が「お金に心を奪われない良い方法」だと思っております。
 

次回ご紹介いたします。
 


事実は小説よりも奇なり。

お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT71:通帳いっぱい作戦


(今回は少し箸休めです)


 私が独立して経営する中で、一番最初に行ったのは、通帳を「現場通帳」と「経費通帳」に「分ける」ことでした(写真①)。

  写真①

 お客様には、毎月「現場通帳」に、「工事進捗分の工事代金」+「会社運営経費の一部」をご入金していただきます。私は、その入金されたお金のうち、その月の運営経費分30万円だけを「現場通帳」から「経費通帳」に移動します。

 資金移動後は「経費通帳」を見ながら1か月間 経営していき・・
「現場通帳」に残ったお金は「手をつけてはダメなお金」となるわけです。業者さんへの支払いに使うので・・

 現場が2つ重なったときは、現場通帳を2つ用意して、それぞれ独立管理する方法を取ります。

上図のように、業者さんに支払うお金は「送金通帳」に移動(青い矢印)し、会社の1か月の運営に必要なお金は「経費通帳」に移動(赤い矢印)します。

 現場が増えれば、単純に現場通帳が増えるという仕組みです。

この方法は、実は今でもやっています。
 そのため木の香の家には、「現場通帳」が15冊くらいあり、そのほかに「経費通帳」「利益資本金通帳」「送金通帳」「ストック通帳」などなどに分けてあります。

 「送金通帳」の役目は、各「現場通帳」から業者さんへ支払い金額をいったん移動し、送金手数料が2重にかからないように一括して各業者さんへ支払うための通帳です。

「ストック通帳」は、毎月、「源泉徴収税」「メンテ貯金」「研修費貯金」「宣伝費貯金」「労災貯金」「ボーナス貯金」などなどを貯金し、まとまったお金が必要な時に放出するためです。ストック通帳からお金を使ったら、そのために貯金していた通帳記載を鉛筆の横線で消していきます。

 

実は、かなりローテクなのです。

 


この手法をやっている本当の目的



このパソコンソフト普及の時代に、なぜローテクにしたのか?
その理由はこうでした。
 仙台の会社で江原氏のお金に対する細かさは確かに学ぶものがあったのですが・・その管理方法には改善の余地があるなぁ・・と感じていたためです。

江原氏は1つの通帳しか作らずパソコン上で資金管理しましたが、その様子をみて感じました。
 1つの通帳で管理していた江原氏は、パソコン上で「どこまで使えるお金」なのか、「どこまでが業者さんへの支払いに使うお金」なのか頭の中では把握しているつもりでした。

 
しかし・・いざ通帳を見てしまうと、一時的に「残高4千万円」という数値も見えてくるのです。

そういう数値を見たときの江原氏は、明らかに言動がおかしくなり、精神的に重荷を背負っているのが明らかでした。ほとんどが「お客様から預かっているお金」なので、4千万円の残高表示を見ても、その8割以上は消えるのです。
 しかし、江原氏は「うちには4千万円ある!!」と高声を上げることもありました。


この姿を見たときに私はこう思いました。 


「使えるお金」は「それ用の通帳」を設けて、
「預かっているお金」は必要なとき以外には見ないようにしよう・・と。

 


1つの通帳で管理するリスク


また、こうすると良い事もでてきます。

ひとつは、どこまでが「その現場のお金」なのか簡単に分かることです。
 1つの通帳で管理すると、現場が増えれば増えるほどお金が混ざり合って「どの現場のお金」か分からなくなります。パソコン上では把握しているつもりでも、通帳のまとまった残高を見て瞬時に判断できないのです。

そうすると・・いつの間にか、「お客様Aから預かっているお金」を「お客様Bの現場の支払いに使っている」という現象も起きてしまう可能性もあります。

 
 もうひとつは、通帳を分けると経理部門の作業が減り、その分の人的パワーを別の業務に回せるのです。

 


江原氏にも提案していた


  
実は仙台にいたときも、この方法を江原氏に提案していました。


当時の私 「そんなにお金で気が狂いそうなら、『現場通帳』と『経費通帳』に分けて『経費通帳』だけを見ていたら?その方がパソコン上で難しい表を作って管理するより簡単じゃないの?もしかすると経理部門が要らなくなって、人的パワーを他にまわせるんじゃない?」・・と。


江原氏は、自分の存在価値が下げられると感じたのかもしれません・・

「おめぇには、この難しさが分かんねぇんだ!。通帳を何個も作ってどうするってや!?」と、曖昧な理由で自分の仕事の重要性や難しさを強調していました。

しかし、「わざわざ仕事を難しくして」、その「難しさをこなすために時間と人力を費やす」のはナンセンスではないのかなぁ...と私は思っていました。

 

当社は、この「いっぱい通帳作戦」のおかげで、設計、営業、現場管理の片手間に私がパソコンで経理をしています。現場が5~6箇所重なっても大丈夫ですし、現場が20箇所重なろうとこなせます。

さすがに支払いのたびに銀行に行くのは大変なので、ネットバンキングというハイテクは使っておりますが...(^^;)。
(ご興味のある小規模会社の経営者さん、参考になりそうでしたら試してみてください(^^)b) 

 

事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT72: 江原氏の『大』墓穴 大事件発生


私は無事に㈱木の香の家の北上現場を終えて、すべての物を仙台事務所から引き揚げる時期になりました。

 短い期間ではありましたが平穏な日々も送り、あとは時間経過とともにホンダ建材社長の「」を抜けば『一件落着』という感じでした。仙台の事務所でも、私の退職金をどう計算するか・・などの話し合いになっており、いよいよ終焉かなという思いでした。

 私が ここしばらく おとなしくしていたので、半年の退職金にしては少し高価ですが「数ヶ月前に買った社用車ビッツ」を退職金代わりにもらうことで円満にまとまりました。

ビッツ

 江原氏からの「株を売れ」という話だけは、「ホンダ建材の社長には俺(私)から話すからちょっと待っててくれよ」と てきと~な理由を言ってやんわりと断りました。
 江原氏の「株を売れ」は・・6割の議決権を持って、ホンダ建材の社長をコケにするつもりだろうとなんとなく想像できました。
 

だから株は簡単には売れませんでした。 

 そして、やっとの思いで鳥かご事務所から私の物すべてを引き揚げることに成功しました(晴れ晴れ)。
 新車(新古車ビッツ)も手に入ったのでマイカー『ビッツ』で岩手県に戻ることになり、途中で見晴らしのいいところで車を降りて気分よく背伸びしました。

 新しいスタートをうれしく感じていました。


とんでもない大事件発生


ところがです・・・。
そこからわずか数日後…、突然、ホンダ建材の木戸社長から電話がありました。
 電話の口調は尋常でない雰囲気を醸し出しており・・なにやら嫌な予感がしました。
 

すぐに仙台に来なさい」というホンダ建材社長の意味深な言葉に、私は急いで150kmも離れている仙台まで車を走らせ、ホンダ建材の社長室に入りました。
  

 あいさつ代わりに 遅ればせながらの近況報告した後、私はとんでもないものを目にすることになるのでした。
  
 
 机に置かれたのは1枚の紙でした。

 「これ、白鳥君の拇印か?」と質問しながら、木戸社長は1枚のFAXを私に手渡しました。そこには、「もうニ度とよこさないでください」と殴り書きして、江原氏・牧田・そして私の3人の署名と拇印が押された・・ものすごい高圧的なFAXがありました。  


文書偽造

 ホンダ建材から定期的に送られていた『経営に役立つ新聞コラム』のFAXに、わざわざ上から殴り書きして送り返したFAXでした。
 その新聞コラムを送っていたホンダ建材の事務員さんが、大きなショックを受けたのだということでした。
 
 筆跡から見ると仕掛け人が江原氏であることは明らかでした。

 もちろん私の拇印でないことは、社長もすぐに理解してくれました。
 多分、牧田は「書け書け」とごり押しされて、江原氏がうるさいから「はいはい」と書いたのだろうとも想像つきました。
  
明らかに「有印紙偽造」か「私文書偽造」という犯罪行為です。
それよりも、恩をあだで返すという「行為」と「このやり方」の非情さが普通ではありませんでした。

この事件で、もうなんのためらいもなく決まってしまいました。
江原氏を代表取締役から解任し、会社から追放するということが...。
  

江原氏解任へのプロローグ


 あとは、解任するタイミングだけでした。
  すぐに牧田に電話で打診してみましたが、「まだ住宅業界を理解しきれていない」ということで、牧田はすぐに代表になることを拒んだのです。
  
 ホンダ建材の社長との話し合いの結果、解任するかどうかも含めて、しばらく江原氏と一切の連絡を絶って様子を見ることにしました。
 
 社長と私はある考えで一致していました。
 
 1つは、江原氏について あ~だこ~だしている時間があったら、自分の仕事に邁進した方がいいということ。
 もうひとつは、沈黙していれば江原氏が勝手にストレスを感じ出して、牧田とケンカでも始めるんでないか?・・ということでした。
 
 こうして、訪れるはずだった平穏な日々は、わずか数日で崩れ・・、
 

ここからクライマックスに向かって『怒涛の展開』が進んでいくのでした。
 
 

事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT73:『沈黙の艦隊』


 岩手県に戻った私は、『拇印偽造』について江原氏に対して、「抗議」と「株を抜くのがますます困難になった」ことを伝えました。

 江原氏に直接会って話をすると、怒涛のマシンガントーク丸め込まれる恐れがあったので、牧田を通しての連絡という形になりました。
牧田の存在はつくづくありがたいと思いました(^^;)

 そして、その後の江原氏からの電話やメールには一切反応しないことを心に決めました。

 
 電話着信やメールに反応していると、江原氏は得意の論理展開で私を丸め込もうとする恐れがあったためです。
 逆に反応しなければ、江原氏のストレスがたまって何か再び「墓穴」を掘るのでは・・。そして牧田と決裂するのでは・・という思いもありました。


 江原氏の『失敗』や『墓穴』のためとはいえ、不本意ながら『株』を持ち続けることになってしまった私は、その『流れの意義』を考えると、『牧田を牢獄から救出することかな』...と思うようになっていました。

 また、『木の香の家』という名称を私が使うためにも、牧田が㈱木の香の家の代表になることがベストだと考えるようになっていました。

 


江原氏からのマシンガンメールと脅迫留守電



 案の定、江原氏は『私が株を抜かないこと』への怒りで、電話メールを使って揺さぶりを掛けてきました。 

電話着信も毎日のようにありましたが、一切受けることなく無視し続けました。

メールも毎日のように来ました。

 その中には「2人(江原氏と牧田)の役員報酬を上げて、資本金を江原氏と牧田の給料として食いつぶして、赤字決算で会社を1回潰すぞ!そしたら、お前の出資金の返金もゼロ返金だ!」という脅迫メールまでありました。

 
 面と向かって言葉で語気を荒げられると少し動揺するかと思いますが、こういうときのメールとは便利です。文章を落ち着いて読めるので、対応もゆっくり考えられるからです。

 

 


ゆっくり考えた結果・・、


私は、それも無視して反応しないことにしました。

 



江原氏のイラ立ち


 しばらくすると、時々、建材屋さんや友人から「最近江原さん相当イライラして、そっちこっちに不満をぶつけてるみたいですよ。」とか、「白鳥さんが、どんな行動をとっているのか一人で想像して不安で不安でたまらないみたいですよ。」とか「牧田さんも、だんだん疲れてきているみたいですし・・。」という報告が自然と耳に入ってきました。

 自分で人を操作できないと納得できないタイプですから、そんな感じにイライラしているだろう・・ということは私でも予想していました。
 なんとかして私をあぶり出し、土俵の上で自分の論理展開で丸め込もうとしたかったようです。

 



私は、「もう少し沈黙していよう・・」と思いました。

 
 江原氏には私が潜水艦のように感じているんだろうなぁ・・と、
漫画「沈黙の艦隊」のイメージと重ねて面白く感じていました。

 



無視する理由



 実はそのときの私は、江原氏を無視する理由が2つあったのです。

1つは『意図的』に・・ですが、もう一つのほうが実は『大きな理由』でした。
 本当に江原氏にかまっているゆとりが無いほど、その時期に『大きな出来事』が仙台で起きていたのです。

 

 


それは次回



事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT74:沈黙していた本当の理由


私は、江原氏のメールや着信に反応していられない理由がいくつかありました。
 一つは、彼女の実家の建築工事で図面を描いたり現場に行ったり、資金回転をさせながら自己流の経営手法を模索する日々を送っていましたし、それと同時に時々仙台市に行っては、佐藤様と家づくりの打ち合わせをしていました。

 そんな本業を軌道に乗せることに神経を注いでいましたので、江原氏とのやりとりで集中力を散漫にしたくないという思いがありました。
 

そして、実はそれ以上に江原氏とやりとりしている気持ちになれない歴史的出来事が仙台市で起きていたのです。
 



それは・・
 

 

 
ベガルタ仙台』なのです。 



 その年のベガルタ仙台は、『初』J1昇格へと快進撃中だったのです。
 

 「一生 J2」と言われていた弱小ベガルタ仙台でしたが、清水秀彦監督を擁して、長身FWマルコスを獲得したことで一気に強くなり、『』のJ1昇格へものすごい盛り上がりを見せていました。 
 
 サッカー好きの人は理解できると思いますが、地元のチームが『初』のJ1に上がるということは、想像以上のパワーと高揚感が日常的に起きてきます(個人的にも地域的にも)。

 私は『ベガルタ仙台』の前身である『ブランメル仙台』のころから応援していましたので、その弱小チームがJ1に上がれるのか・・という「期待感」と「高揚感」をE氏のやりとりで阻害されたくないという思いが非常に強かったことを覚えています。
 


 そんな前向きなムードは、私の再独立への恐怖心を打ち消すのには十二分な後押しでした。
「なんでもうまくいく」・・という『根拠のない自信』が体から溢れてくるのです。

 正直言って、江原氏のつまらない株の話になんか時間を裂いている暇は無い!ベガルタ仙台のように勢いに乗って前を向いていきたい・・という気持ちの方が勝っていました。

 自由に仕事をして、なんとか生計が立てられて、自由にサッカー観戦に行って趣味に時間が使える。本当の意味での独立した気分でした。

「マジですがすがしい」と感じた日々を送っていたのです。
 
 

10年ぶりの同級会


 話は変わりますが、ちょうどそのとき10年ぶりの同級会がありました。厄年の同級会だったと思います。


久々に友人や恩師とも話をする機会がありました。 
 
その中で恩師との会話で今でも覚えている話があります。
恩師であるO先生はこんな話をしてくれました。

 O先生「水面にが浮いている。その桶の中にコップがあり、そのコップには水が入っている。欲を出して、『その水は全部俺のだぁ!』と桶を強く引っ張ると、コップは倒れて水は反対側にこぼれてしまう」。

会社を始めた私へ、O先生なりのアドバイスでした。
 

 この話を聞いたとき、桶を引っ張った「人間」がなぜか「江原氏」と重なりました。 
 

 「良いタイミング」で「良い話」を聞いたと心から感謝しました。
 


事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。






「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT75:「動き」あり


こんな感じで私は江原氏と連絡を絶ったまま平穏な日々を送っていました。
 
 初物件の菅原様邸も無事に完成し、お金の回転も小さいですがバランスが取れ、さらに菅原様邸の引渡し間際に仙台の佐藤様邸の着工と、新会社のスタートとしてはあまりにもうまい滑り出しでした。


 さらにさらに、菅原さん(現かみさん)の勤め先であった小さなカーテン屋さんで、唯一の同僚である及川ちゃん(仮称)の実家でちょうど家を建て替えるという話が出てきたのです。

 菅原さんが当社をプッシュしてくれて、私は及川さまと打ち合わせをする機会を得ました。


 数回の打ち合わせの結果、佐藤さま邸の完成時期である4月頃に及川様邸着工という契約ができたのです。

 場所は金ヶ崎町、規模はなんと・・平屋70坪でした。 

 まだ駆け出しでアパートの一角を事務所として使っていた個人事業の私に、70坪もの家づくりを依頼してくれた及川様には本当に感謝でした(><)

 会社が軌道にのるかどうかの大事なスタート時期に、私はかみさんに2度も助けられました。その後、カーテン屋さんのお客様宅の自宅リフォームも受注させていただき、計3度も会社のスタートダッシュの仕事を得ることが出来ました(足を向けて寝られません)。  

 菅原さま邸の建て替えのタイミングだけでもビックリしましたが、カーテン屋さんの唯一の同僚の家づくりもこのタイミングに重なったことで、本当に「流れ」が正しかったんだなぁ・・とつくづく思わされました。


 佐藤さま邸の着工は12月頭でした。そのために業者さんとの工事打ち合わせなどで仙台に行く機会が増えていた11月、ついに「動き」が起きました。
 


ー動きありー


 
 牧田から私に電話が入ったのです。
  

 第1期の決算報告を兼ねた株主総会の話で打ち合わせがしたい・・という内容でした。
 
 江原氏と会うのは避けたかったので、牧田と私と2人で総会日程など打ち合わせしようということになりました。 

仙台市内のファミレスで久しぶりに牧田と昼飯を食べながら話をしました。

総会の日程調整などの雑談をしながら、私は切り出しました。
 
「どうだ?そろそろ住宅業界も分かってきただろうし、社長する気ないか?」・・と。
 牧田は、少し考えながら「俺は、株の1割しかもっていないから決められない。やれと言われればやってもいいよ。」と初めて言葉にしました。

 うわさ通り、相当ストレスがたまっていたのでしょう・・。

 今までは、「住宅業界が分からないから」という理由で代表を引き受けてきませんでしたが、江原氏と2人になったここ2ヶ月の間に、決断せざるを得ないほどの境遇だったと感じました。 


次の一手』をどうするか・・私はホンダ建材の木戸社長に相談に行くことになるのでした。
 

事実は小説よりも奇なり。


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「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT76:株主総会前のHo建材社長の指示

 牧田が重い腰を上げて「㈱木の香の家の社長をしてもいいよ」と言ってくれたので、私は早速ホンダ建材の社長のところに相談に行きました。株主総会の開催時期の話もあったので、タイミングの良い訪問になりました。

私は、簡単なあいさつを終えて、すぐに本題に入りました。 
 私「株主総会のお話もあるのですが、牧田が社長をやっても良いと言ってくれました。今後どう進めるのがよろしいでしょうか」

 

ホンダ建材 木戸社長の考え


 ホンダ建材の社長は簡略的に話してくれました。

 1:江原氏と会いたくないのと、そんな会議に時間を使っている暇も無いということで株主総会は欠席する

 2:大株主であるHo建材社長の40%の議決権は全て委任状を付けて、私(白鳥)に議決権をゆだねる

 3:江原氏をどうするか、牧田をどうするかは任せる

 4:もし牧田が社長になった場合、株はどうするのかを整理すること

  私はもともと20%の議決権(20%の出資金)を持っていたので、ホンダ建材の社長の40%の議決権と合わせると、つまり60%の議決権を私1人が持つということになるのです。


60%の議決権とは・・

議決権60%」というのを口で言うのは簡単ですが、今まで感じたことのない変なプレッシャーを私は感じ始めました。
 自分の判断で人の人生をどうにでも出来てしまう・・という漫画の世界のような話が現実に起きているのです。

 私1人が「江原氏を解任する」といえば、当然江原氏は解任で人生のレールが変わる。逆に私が株主総会の会議中、脅迫や恫喝で心が折れてしまい
「江原氏は社長続投」と言ってしまえば、江原氏は社長を継続できるのです。
 私が「牧田を社長」といえば牧田が社長で、心変って「いっそのこと私が社長をする」といえば、㈱木の香の家は、実質、私の会社になるのです。

 
 私は、帰りの車中、「『株』ってこんな恐ろしい社会ルールなのか・・」と、このような境遇になって初めて身に染みて感じることになるのでした。 
 悪く言えば、私1人の気分で他人を操ったり、他人の人生を変えたりしてしまうのです。


良い気持ちはしませんでした。
  

私はどういう決断を下して、どう言えばいいのか・・

本人を目の前にして大ナタを振り下ろせるのか・・

その場で恫喝されて、心変わりしないのか・・

逆上した江原氏に刺されて殺人事件にならないのか・・


不安が増してきました。

 
 私は、もう一度牧田と会うことにしました。
 牧田の気持ちの再確認と、全員の『株』をどうするか・・などを整理しないと、自分だけでは最終判断できないと思ったためです。

 

 昔、ホリエモンが株式公開買い付けという方法で、株式会社の筆頭株主になっていった賢い出来事がありました。
 その行動には賛否両論があると思いますし、その話の規模とは天と地ほど差はありますが、『株』という社会ルールは私には重いなぁ・・という印象だけは身に染みました。

  

事実は小説よりも奇なり。


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「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT77:株主総会のシミュレーション


 株主総会の「議決権60%」を密かに持つことになった私は、『不安感』と『恐怖感』も持ちつつ牧田にホンダ建材社長の考え方を説明しました。

 その話を聞いた牧田は腹をくくったようでした。

 牧田が代表取締役を継いだあとの「拠点となる事務所」の事や、「株主総会のタイミング」などの調整に入りました。

 社長解任が決まったら、早々に今の事務所を出なければならないためです。


 その後、数回の打ち合わせを重ねて大筋の話が決まりました。


株主総会の想定事項



〇 株主総会は年明けの1月下旬。場所は会社と決まりました。

〇 新しい事務所は、牧田が社長となる「㈱木の香の家」 と 私の「木の香の家‐木精空間」 と 時々出演するKAさんの「(有)エコプロジェクト」の3社でシェアしようとなりました。

〇 さらに、異例の注意点も打ち合わせしました。

それは、「印鑑と通帳の没収方法」と「私と牧田のそれぞれの避難経路」です。

 社長解任という緊急議決が決議された際・・、もし江原氏が大声で喚きだしたら、私が説明や解任理由などでなんとか時間を稼ぎ、その隙を見て牧田は『印鑑と通帳』を2階の机から取り出すこと。

 そして・・もう1つ、キッチンの包丁やナイフは牧田が事前に隠しておくこと・・です。

 


この2つは、とても重要な打ち合わせ事項でした。

 

 今までの行動から予測するに、江原氏が逆上して通帳と印鑑を持って恫喝し手離さない可能性も考えられました。

 また、頭に血が上ったE氏が、包丁を振り回して刑事事件に発展する可能性も否定できなかったからです。

 

私の逃避ルート(想定)


私も、いざというときの避難経路をシミュレーションしました。

 牧田が通帳と印鑑を取り上げたら、牧田は玄関ドアから・・俺は1階のテラスドアから逃げるのかなぁ。

 時間稼ぎの会話次第では2階に行かざるを得なかった場合は、どの窓から逃げるか・・、恐怖のあまり腰が抜けて動けなくなったらどうしよう・・など、こんなところで命を落とすわけにはいかないと真剣に逃げ方を考えました。

 こんな計画を立てる株主総会なんていったいなんなのだろう・・と、どきどきして打ち合わせしていたことを思い出します。

 

事実は小説よりも奇なり。


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「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT78:WGさまの家づくり


話は変わりますが、牧田との作戦会議のなかで、塩釜市のクレーン屋さん吾妻さま(仮称)の現場の話にもなりました。

 私「そういえばWGさまの現場、高橋大工さんダメになったじゃん。
結局、吾妻さんのお勧めする大工さんで建築できたの?」

 牧田「それが、吾妻さまのお勧め大工さんも忙しいということで、結局、こっちの伝手で紹介してもらった大工さんで施工したんだ」

  私「そっか、いずれにせよ完成してよかったよ。今度から仙台の現場で建て方するときには吾妻さまにクレーンをお願いしようと思っててさ。
 吾妻さまの打ち合わせ途中で俺は会社を辞めたけど、一時期は給料をもらっていた恩はあるからね。円満に完成したのであればクレーンを依頼しやすいや」

  

佐藤さま(仙台市)着工と新事務所探し

 
 この会議の翌日から、私は佐藤邸の現場の基礎工事を見ながら
新しい仙台のシェア事務所を探しました。

  いろいろ探していると、1ヶ月くらいでようやく3人の都合に良さそうな物件が見つかりました。そのビルがある場所は、
牧田は徒歩で通える範囲、
片山さんも自宅から車で5分
そして、私の最大のメリットはサッカー場の仙台スタジアムまで歩いて5分の立地条件でした。

 その年ベガルタ仙台は、みごとJ1に昇格し、私は翌年の年間シートを買うつもりでした。そのため、会社に駐車してサッカーを見に歩いていけるこの立地は、私にとって非常に都合よかったのです。
 しかも、ビルの2階といういい場所で眺めもいい。たまたま1ヶ月前にそこを借りていた会社(塾)が手狭ということで、4・5階に移ったというのです。ある意味出世部屋です!。

 家賃も予想外に安く「掘り出し物」で、これも「流れ」と思い即決しました。

 これで、牧田が代表取締役になったときの拠点も確保したのでした。

   


そして、ついに運命株主総会の日を迎えるのでした。

  

どんな株主総会だったのか・・

 

 
それは次回


事実は小説よりも奇なり。


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「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT79:   株主総会の日


2002年1月下旬。
とうとう株主総会の日が来てしまいました。
 株主総会の日は、なんと佐藤様邸(仙台市青葉区)の土台敷きの日に重なりました。

これも不思議な縁なのでしょうか・・。

株主総会は、その日の夕方からでした。

私は朝から緊張しており、朝ごはんも喉を通りませんでした。

 その日は11時頃に佐藤様の現場に行き、土台敷きで時間を潰しながら気持ちの整理をして夕方の株主総会に行こうと決めていました。

 

江原氏 出没

そんな緊張していた朝9時頃です。
私は岩手県から仙台市へ向かう高速道路上を走行していました。

現場で土台を敷いていた高橋大工さんから私に電話が入りました。

  
高橋大工さん 「いま、例の江原氏現場の前を車でゆっくり素通りしながら工事看板なんかをじろじろ見て行ったぞ・・・」

私 「まさかぁ・・。現場の場所は知っているはずだけど、契約を断られたお客さん(佐藤様)の偵察にいちいち来ますかねぇ。」

高橋大工さん 「いや、あの目は忘れねぇ!間違いない。やつだ!」

 

 私は背中に寒いものを感じました。

 

 真相を確かめるべく牧田に電話をして聞いてみると・・、江原氏は本当に現場に物色に行ったようでした。
 事務所に戻ってから「白鳥に客取られたぁ!」と怒鳴っていたという話を聞きました。

つくづく「執念深い」と思わされました。

 

恐ろしい株主総会(想定)

 また、そんな怒鳴っている精神状態の中で、株主総会による社長解任の緊急議決なんかしたら、本当にブレーキが壊れた暴走車のようになって、江原氏は包丁で私の体を斜めにメッタ切りするのではないか・・、そんな想像が湧いてきて、私は急に震えるような症状に見舞われました。

 株主総会は夕方からでした。

 以前にも述べましたが、ホンダ建材の社長は、「もう、自分が出るべきことでもない。4割の議決権を白鳥君にゆだねる書面を書くから、あとは3人で決めなさい。」と株主総会の欠席を決めていました。

 社長の身の安全を考えれば、そのほうがいいと思いました。

 
 11時頃に現場について高橋大工さんと株主総会についての話をしている間も『恐怖感』は消えませんでした。

 高橋大工さんからも「とりあえず命だけは落とさないように逃げるんだぞ」と縁起でもない応援をいただきました。

  私「よりによってこんな日(株主総会の日)に、この現場を見て怒鳴っていたようだから・・・タイミング悪すぎですよね・・。
 江原氏がなにか企んでくるかもしれないですよ・・(;_;)。
ホント死にたくないですよ」

 
 私が心配したことは、頭に血がのぼっている江原氏が、夕方の株主総会までの間に先手を打って、私をおとしいれる画策をしてくるのではという可能性でした。

「客取られたぁ!」と激怒していたのであればやりかねない・・(--;)

 
 昼ご飯は、緊張のあまり喉を通らず、結局 朝食・昼食とも摂らず、しかし空腹感も感じず緊張で胃がいっぱいの状態でした。

 

恐怖の株主総会

 時間は午後2時・・午後3時・・と、刻一刻と『恐怖の株主総会』の時間に近づいてきました。
 江原氏が何かを企んでいるのでは・・という恐怖感で胃が痛くなる思いでした。
 
 そして4時頃、ついに牧田から電話が入りました。
 
 株主総会の具体的な最終確認だと察しました。

 私「もしもし?」
 私は震える声で電話に出ました。

 牧田「ああ俺、株主総会の件でちょっといい?」


 牧田の声は少し重く感じられました。

 


 私はドキドキしながら「う・うんいいよ。」

 


 牧田「株主総会の件で・・江原さんから・・

 


 私は生唾を飲むような感じで何か企てられるのかと
緊張感MAXになりました。

 



そして次の瞬間、想定外の電話内容に驚くことになるのでした。

 

事実は小説よりも奇なり。


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「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT80: 運命の株主総会


株主総会まであと1~2時間となったとき、牧田から電話ありました。

 電話の内容は、江原氏からの「株主総会の開催方法について」の意見だと気づきました。
私は江原氏と株主総会の日まで一度も顔を合わせることなく、電話やメールも無視し続けていました。
 
 どんな揺さぶりにも耐えて無視し続けました。

 そんな怒りを買うような関係の上、よりによって株主総会の日に佐藤様邸の土台敷を見に来て「白鳥に客取られたぁ!」と激怒していた江原氏なのです。
 完全に火に油を注いだ状態で、メラメラを沸騰していることは想像できました。

 きっととんでもない先手を打ってくるだろう・・という恐怖を感じていたので、私は心臓が止まる思いでした。
 

 牧田からの電話内容は、あまりにも想定外なものでした。
 


あまりにも想定外の株主総会


 

 

牧田「今日の株主総会・・、
 
 
 
  
江原さんが・・、
 
 
 
 
ホンダ建材の社長と顔合わせるの嫌だから、
 
  
  

欠席するって・・」


 


私 「・・・」
 
 

 
私 「はぁぁ!??

 
  
 
牧田 「江原さんから、『決算書見せて説明して来い』って言われたよ」
 
 
 
 
 
私は、へなへな・・と、腰が抜けるような感覚を持ちました。 

正確に言うと、心の中では腰が抜けていました。
 


 どこかで拍子抜けし、どこかで安堵して、何とも言えない複雑なモヤモヤ感が湧いてきました。
 


 最終的には「安堵感」が心と体の中を埋め尽くしました。

 目の前の景色が、急に明るく見えました。

 青い空も緑の木々も不思議と明るく見えました。 

 
 江原氏にホンダ建材の社長が株主総会を欠席する話はしていなかったことが、思わぬ効果を発揮しました。 
 
 

2人だけの株主総会  

 結局、株主総会は、私と牧田の2人だけで、ファミレスで行うこととなりました。いろいろ事前に考えて刑事事件の想定も立てていたのに、肩透かしをくらった株主総会になりました。

 牧田から決算書をもらって、私からE氏の社長解任議案の文章を手渡しました。欠席裁判という形になりましたが、欠席した者が悪く、委任状で60%の議決権をゆだねられていたので、もちろんスムーズに成立しました。

  こんなに荒れることなくこの議案が決まるとは、まったく想定していなかったうれしい出来事でした。 

 本当にあっけないものでした。

 2人は、この拍子抜けにニコニコしながらコーヒーを飲んでいました。
 
 しかし牧田には心配事がひとつあるという話をされました。
牧田「今まで建てたお客さまが動揺しなければいいがなぁ」・・ということです。
  たまたま偶然ですが、翌日から佐藤さま邸の建て方だったので、「クレーンは吾妻さんに頼んであるから、吾妻さんにはそれとなく言っておくよ」と私は伝えました。他のお客様にはお手紙すれば大丈夫だろうということで話はまとまりました。
 
 

 そして、翌日、牧田から緊急議案の決議を江原氏に伝えるということだったので、江原氏から私に電話があるだろうとことも話し合いました。
 

多分、一度、3人で会うことになるだろう・・と。
 
 

明日が、本当に最後の日であることを牧田と確認しました。
  
  
 
しかし、この最後の日に・・、


全く想定していなかった・・ありえない出来事が起こるのでした。
 
 


事実は小説よりも奇なり。


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「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT81: ものすごい偶然・・そして終焉


 2人だけの株主総会の翌日、佐藤さま邸の建て方の日がやってきました。

㈱木の香の家を改革する一連の行動の最終日に、佐藤さまの建て方という日が重なったことも不思議な感じでありました。

しかし、この日はそれだけではなかったのでした。

  

建て方開始前の 私 と 髙橋大工さんとのやり取りから
それは始まります。

 その日は、少し早めの7時半に現場に着いて、コーヒーを飲みながら前日の株主総会の報告を30分くらい話し込んでから建て方作業をスタートするつもりでした。

高橋大工さん「昨日、2人で株主総会なんて命拾いして良かったなぁ」

  私  「ホントですよ。事前の妄想では生きるか死ぬか・・血を見るかどうか・・と怯えてましたが、結果的にはすべて杞憂に終わって、あっさり代表解任が決まってよかったです。」

 高橋大工さん「今から、『昨日のは無しだ!』とか言ってひっくり返しに来ないの?」

 私「無理でしょう。株主総会で決まったことですし、既に筆頭株主のホンダ建材の社長にも報告済みなんですから」

高橋大工さん「だったらよかった。これで、前向いて進めるね」

 私 「ほんと、肩の荷が1つおりました(^^;)。多分、今日の夕方に会いますけどね。」

 

大工さん と クレーン

 高橋大工さん「ところでさぁ、今後の現場での建て方のときなんだけど・・、やっぱりクレーンは俺が使い慣れているクレーン屋ではダメなのが?」
 私 「ん~・・。できれば、㈱木の香の家のOBさんのクレーン屋さんで行きたいですね。」

 高橋大工さん「でもなぁ・・クレーンと大工ってある程度、呼吸もあったり無理も言えたりすることで工事がスムーズに進むんだけどなぁ・・」

 私 「私が㈱木の香の家に在籍していたときに、少なくともそのお客様の工事で給料もらったということにもなるので、出来ればOB様の事業を応援したいですね。」

高橋大工さん「それじゃ仕方ないなぁ・・。気が合いそうなクレーン屋だといいんだけど・・」

 

 

 吾妻さんクレーンさん登場


  こんな会話をしながらコーヒーを飲んでいると、朝8時ころに、少し遅れて吾妻さんがクレーンを運転して現場に近づいて来ました。

 私は、吾妻さんのクレーンを運転する姿は初めてだったので、打ち合わせの普段着とは違う不思議な印象でした。
 クレーン車のボディーには大きく『吾妻クレーン』と書いてありました。

 

そして、現場に着きそうなタイミングで減速し始めたとたん・・

 高橋大工さんが口にくわえた缶コーヒーをこぼすような勢いで、驚いたように叫んだのです。

「白鳥さんのクレーン屋て、こいづが!?」・・と。

私 「そうですよ。」

高橋大工さん「こいづ、おれのクレーン屋だ!」 


私 「えー!?マジすか?

 

吾妻さん「あれ?高橋さん・・。なんで、この現場に居るの??

 高橋大工さん「なんでもかんでも、俺がお世話になっている人って白鳥さんだ!」

 私「なんだぁ・・。知り合いだったんですか!

 
私「吾妻さんにあの時、『私が依頼している大工さんはすごく丁寧ですから、私の依頼している大工さんで吾妻さんの家づくりをお願いします』って言ったのは、実は 高橋大工さんのことだったんですよ!」


吾妻さん「え!?俺もだ。俺の知っている大工使ってくれ・・って言ったの、高橋さんのことだったんだ!」

 高橋大工さん「ええーー、吾妻さん、木の香の家で自宅建てたの!?言ってくれれば良かったのに!」

 吾妻さん「あのとき、10月ころ内部造作してもらいたい現場あるんだけど空いてない?・・て聞いたじゃない・・」

 高橋大工「だって、自分の家だなんて、一言も言ってなかったじゃないか。しかも 木の香の家 って名前を少しでも言ってくれれば・・」

 

 その後は、このものすごく長い時間の中で『絡まった糸』をときほぐすような話で、しばし現場はスタートしませんでした。

それにしても、100万都市 仙台市には大工さんが数千人はいると思います。

クレーン車も数百社あると思います。


特に吾妻さんは塩釜市という仙台の2つ隣の市でクレーン会社をしています。

 そんな中で、吾妻さんの家づくりを依頼する大工さんを、私と吾妻さんが同じ高橋大工さんを指名して、おのおの裏で交渉していたとは・・

こんな偶然あるのでしょうか・・。


何百人という大工さんを知っている吾妻さんが自分の家を任せたいと指定したのが高橋大工さんだったことが、私はうれしく感じました。



 その日は、私が吾妻さんに江原氏の解任を説明するまでもなく、高橋大工さんから吾妻さんに真相を伝えてもらいました。

 帰宅するとき、吾妻さんはクレーンを現場に置いて、高橋大工さんの車に同乗して帰りました。翌日もクレーン作業があるためです。

 私から高橋大工さんに事の真相を伝える依頼したわけではないですが、話してくれていることは今までの付き合いから分かっていました。


 

この「ものすごい偶然」と「それを解きほぐす解析」は、まるで一連の会社設立から改革に絡むどろどろとした糸を解きほぐし終焉を迎えるその日には、本当に『ふさわしい出来事』でした。

今日という終焉の日は「流れが間違っていなかったんだ」・・とつくづく感じました。 


終焉


 案の定、その日のうちに江原氏から電話があり、私は、夕方会社へ会いに行きました。

 江原氏は、その日の午前中は落ち着いていないようでしたが、午後には気持ちの整理がついたみたいで、全て(社長解任)を了承しました。

 そして、持ち株を牧田以外の全員が抜いて、牧田の親類で株を引き取ってもらうことで、株式会社木の香の家の一連の騒動は本当に終焉を迎えました。


 こうして2002年2月、仙台市には牧田が代表の(株)木の香の家 が誕生し、岩手県には私が代表の 木の香の家-木精空間-が誕生しました。

 共同経営とは、いろんな人が言っているように本当に難しいです。多分、最初から私と牧田の2人で会社を始めていても、数年後には途中で空中分解して、どろどろした関係になっていたと思います。

 最終的にこういう形で牧田と私が各々の城を持って落ち着いたのは、遠回りだったようで、実は、最短距離を走っていたような気がしました。

 江原氏は性格的には合いませんでしたが、数値の細かさや先を読む金銭感覚は経営の勉強にもなったことも事実です。私の人生のレールの中では存在してくれてよかったのだと振り返ると感じます。

いろんな面で、やっぱり「この流れ」も正しく、「そこにも存在する意味」はあったのだと。



事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。



「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT82: 人間、楽しようとすると、その分苦労する


 私は、30歳で本当の独立をすることになりましたが、いろんな会社の失敗例、人の失敗例を間近で見てきました。その多くに共通することとして、ある哲学者の言葉を思い出します。

「人間、楽しようとすると、その分、苦労する

多くの人は、机に座っているだけで自分の懐にお金が入ればいいのになぁ・・と考えるかもしれません。


〇 一番最初に勤めたN建設は、役所工事にべったりだったため、名刺配りの楽な営業方法しかしりませんでした。民間での本当の競争にさらされないまま過ごしてきたため、役所工事が減った段階で慌てて作戦を模索しましたが、そのまま解散という結果になりました。

 ○次に務めたCホームは、株を上場して、濡れ手に粟のような一儲けしたいという理念のもとに、安売りで地域を荒らしまわった結果、倒産しました。

 ○営業マンも、「安ければ売れる」という発想で、安易に儲けがなくても契約するという路線に走りました。もちろん、「安ければ売れる」のは当然なのですが、「安くて売れるなら営業マンは要らない」のです。結局、営業マンは自分の仕事を失うという結果になりました。

 ○江原氏は、有能なロボットを従えて、自分の寝ている間に稼ぐような仕組みをつくりたいと考え、その仕組みづくりに苦労して、結局、ダメにしてしまいました。
 
同じように、楽しようとして、結果的にその何倍も苦労する人も多く見てきました。

○ 実行予算なんて作るの面倒だから、余ったのが利益だ!・・と、どんぶり勘定で切り盛りする。→結果、残る利益が少ないか、赤字で会社が倒産する。

○ 営業したくないから、楽して仕事を取れる方法を教えてもらいたいと考え、500万円を支払って甘そうなシステムに手を出す。→自分の理念と合わないノウハウを教えてもらっただけで、うまく受注できない。
 500万円の損失。

 
○ 細かい図面を引くのは面倒なので、現場での口先指示だけで済ませたい。結果、納まりの不具合が生じて、手直し工事が発生し、利益が減っていく。

 
全て、「自分で○○をしたくないから、できれば楽したい」・・なのだなぁと感じてきました。

 「作業の効率を良くすることで楽する」のと、「めんどくさいから手を抜いて楽する」のとでは、ちょっと性質が違うと思います。


 直接は関係ないですが、「ねずみ講」でも、「マルチ商法」でも、「楽して儲ける」の言葉にだまされて、結果ものすごい苦労を背負い、友人を失っています。

 

10期待されたら12で応える


 だから、私は「努力すれば、報われる」という理念でがんばっていこうと思いました。

 経理もする。営業もする。営業ツールも作る。図面も何回でも描く。実行予算もつくる。模型もつくる。カラースケッチも描く。詳細図も描く。現場には職人より早く行く。漫画も描く。講習会の依頼が来れば期待以上の講演をする。原稿依頼があれば、「またお願いします」と言わせるくらいの内容で書きあげる。クレームが出れば床下にももぐる。近所からクレームが出れば、頭を下げに行く。ホームページもこまめに更新していく。とにかく、楽しようとしない・・。

10期待されたら、12で応える」です。

 こうやって、まずは全てを自分でやっていくと、やはり問題が起きたときに、その原因が手に取るように分かってきます。努力してお客様と打ち合わせすれば、仕事にもつながると思います。

  現在では、ある分野で任せられるものをスタッフに分担していますが、経験したことないものを尻込みして最初から任せることはしていないつもりです。

ただ・・ときどき「楽しようとして苦労している」こともあります

そのたびに思い出します(--;。

 

「人間、楽しようとすると、その分、苦労する」

 

次回最終話です。


事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。



「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT83: (第1幕 最終話)オンリーワン


いろいろな試練を乗り越えながらも、2001年 私は本当の意味で独立することができました。

 ホンダ建材の社長はじめ多くの方のご協力もあり、多くの困難を乗り越えることが出来ました。

 新会社のスタートダッシュには菅原さん(現かみさん)の人脈営業力という幸運にも恵まれました。

 新会社のスタートは順調と言えるものだったと思います。


不思議なテレビ番組 

そんな穏やかな気持ちで仕事をこなしている土曜日の昼です。

 当時視聴率の高かったテレビ番組、「どっちの料理ショー」の再放送(1999年9月放送の再放送)をしており、たまたま昼ご飯を食べながら1人でそのテレビ番組を見ていました。

「食材のテーマ」が、「鶏肉 vs 豚肉」・・ということで、ふと気になりテレビ画面を見ていました。

「偶然だけど畑岡さんの牧場と同じ食材だなぁ・・。畑岡さんの牧場もいつの日か、特選食材としてこの番組で出演してくれればいいのになあ・・。」と、ボーっと見ていました。

 
ところがです。

その再放送の「どっちの料理ショー」の特選食材の供給先として登場した牧場は・・、なんと畑岡さんの牧場だったのです。

 あまりの唐突な展開に、口の中に入れたお米を噴き出してしまうほどびっくりしました。

 畑岡さまとの家づくりの打ち合わせの時期に、そんな話を一度も聞いていなかったのです。

 「すぐに菅原さんに電話しなきゃ!」と即座に思いました。畑岡さんがどういう人だったか菅原さんは知らなかったためです。
 ところが、畑岡さんの牧場がテレビに登場すると同時に、偶然、菅原さんの方から電話が掛かってきました。

 私は大声で「今、家!? テレビ見てるか!?」

 菅原さん「家だけど、テレビ見てないよ」

「早くテレビつけて、どっちの料理ショーつけて!!」

「え・・え・・」


 ちょうどそのタイミングで、テレビ画面に亡くなられた畑岡さんが映ったのです。
 私「この人が、前に何度も話していた畑岡さんだよ。まさか、今日テレビに映るとは思っていなかった・・」

 

そのとき、私は、菅原さんと結婚するんだな・・と直感で思いました。

 

結婚とその後・・


そして、2002年の日韓サッカーワールドカップの年に私たちは結婚しました。

 ところが、長男が誕生する2003年の冬2月ごろ、焦る時期がありました。

 春からの仕事が全く見えてなかったのです。

 子供が生まれるのに仕事が見えない・・。

 正直、焦りました。

 
 住宅の路線が世の中のニーズと合っていないのか?

 私の宣伝方法がおかしいのか?

 ローコスト規格商品で進むべきなのか・・。このまま、お客様がこだわる住宅で進むべきなのか・・。世の中は、どっちを必要としているのか・・

 ホームページの表現方法、チラシの出し方に自信はありました。しかし、結果が見えてこなかったので、悩んでました。まさに「どっちの家でショー」・・である。寒っ(‐_‐;)・・・。

 


 しかし、またも救われることになるのです。

 

子供に救われる?


 子供が運を持って生まれてきたかのように、長男が生まれて2週間後の見学会で、一気に5軒もの契約が見えたのです。以前からホームページを見てて、見学会を機に相談に来たというお客さんがたくさんいました。
 仕事が見えないプレッシャーから解放された思いで、精神的には、またしても九死に一生を得た感じでした。

 創業時はかみさんに助けられ、2年目の危機は子供の運に助けられました。

 

畑岡さまからの教え


 雪が融け始めた3月・・。私は、畑岡さんのお墓の前にいました。畑岡さんの命日に、「なんとかやってますよ」という近況報告をしたかったのです。

 そのお墓の隣には『大きな石碑』が立っており、そこには町長から畑岡さんに宛てた文章が書かれてありました。

 その長い文章の中に、ひときわ目立つカタカタの文字が刻まれていた。

 
「オンリーワン」

 
 生前、畑岡さんが、事業をするときに常に口にしていた言葉だといいます。いつも、「オンリーワン」でなければならないと畑岡さんが語っていた・・と、その石碑には刻まれていました

 お亡くなりになったあとも、畑岡さんには事業の道しるべをいただいくこととなりました。

「オンリーワンの家づくり」

 
わたしの目指すものは、このとき、これで決まりました。

 

***エピローグ*** 

 

「何かをあきらめることが大人になることじゃない」


 今までの環境から脱却するのは、やはり勇気が要ります。今までの慣れた環境にいる方が、ず~っと楽なのです。私は、そういう人生の岐路に立ったとき、よく聴いてた歌があります。

DEENの「少年」という歌です。


その一節の詩が、いつも迷った私を勇気づけてくれました。

何かをあきらめることが大人になることじゃない。捨てるもの一つもなかった、あの日の僕らのように・・自由に・・

 この詩を聞いて、何のために生まれてきたのか・・、何を残すのか・・、社会的な存在意義は何なのか・・、どう進めば目指すものに近づくのか・・、そんな自問自答を繰り返してきて、直感で感じ取った「流れ」に勇気を持って乗ってきました。

 結果として、ここまでは「流れ」に従って正解だったと思いたいです。

 そして、今後どういう「流れ」が待っているのか、それも期待して決して焦ることなく、今は平凡に過ごしています。

 
 今回、このレポートを書くにあたり、自分の人生を振り返る機会を得ました。はじめは軽く書くつもりでしたが、書いていると面白くなってきて、作家になった気分でどんどん書くことになってしまいました。これも何かの「流れ」なのでしょうか・・。

  もうひとつの夢である「漫画家」・・。今後の人生でなれるのでしょうか・・。あきらめることなく目指していきたいものです・・。


                       記述 平成17年2月      

 追記

 追記:第1幕の「流れに従って生きる」は今回で終了いたします。

 しかし、第2幕の私の人生は、これ以上の波乱に満ちた出来事が次々を起きます。
 本当に信じられないことが、次々と起きるのです。

 人生の第2幕「流れに従って生きる」もまとめていきたいと思います。 

 

 私の人生の役目は、いったいなんなのでしょうか・・

未だに答えが見つけられておりません・・




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★「流れに従って生きる」①ー大学生活編ーは下記より飛んでください。
歴史上初の出来事によって大逆転で志望校に合格!そして・・ありえない話の連続ストーリです(実話
10代の皆さんの勉強に臨むヒントになるかもしれせん。
「流れに従って生きる」ー①大学生活編ー ACT1:大学受験勉強|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」②ーN建設編ーは下記より飛んでください。
安月給の会社で5年、自分スキルを上げた爆笑ストーリー(実話)!
20代の若い社会人の皆さんのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」②ーN建設編ーACT13:ここに居る意味がある|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」③ーフランスワールドカップ編ーは下記より飛んでください。日本が初めてワールドカップに出場した大会。会社を辞めて観戦に一人旅。そこでも起きる不思議な出来事…(実話)。なにかのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」③ーフランスワールドカップ編ーACT31:不思議な出会いその①|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」④ー転職準備編ーは下記より飛んでください。
次の行き先を決めないままN建設を退社。
しかし、人生とはうまくつながるものです。人生の転換を考えているかたになにかのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」④ー転職準備編ーACT37:HAさんとの不思議な縁|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」⑤ーCホーム編ーは下記より飛んでください。
Cホームでの経験が次の人生に大きく影響しました。
最後は宝くじで10億当たる以上の出来事で電流が流れます。
人生で岐路に立つ方になにかのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」⑤ーCホーム編ーACT40:Cホーム入社|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」⑥ー独立準備編ーは下記より飛んでください。
独立することを決意したときから、巻き起こる信じられない偶然の出来事!これはなんなのか…引き寄せの法則とは本当にあるのか…?
信じられないストーリーは、人生の中で勇気ある一歩を踏み出した方になにかのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」⑥ー独立準備~編ーACT47:独立準備|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」⑦ー仙台スタート編ーは下記より飛んでください。仙台でのスタートは衝撃の出来事の連続です。
まるでジェットコースターに乗ったような展開は、起業を目指している方へのなんらかのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」⑦ー仙台スタート編ーACT53:「項羽」と「劉邦」|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


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