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日本でプロのバスケットボールのコーチをしていた私が気づいたら欧州でコーチ挑戦していた件について

初めましての皆様は初めまして。
お久しぶりの皆様はお元気でしたか?
いつもなぜか私を応援してくれる人達はいつもありがとう。

どうにも最近X(旧Twitter)の仕様が気に入らないというか、妬みと憎悪が溢れかえってるタイムラインにうんざりしてすっかり閲覧や投稿が減ったので、まとめて想いを文章にぶつけられるnoteはじめてみました。
※X(旧Twitter)を辞めた訳ではないので、
気になる方はこちらへ👇

https://x.com/kenjihilke?s=21&t=dsMHmbtZk48y8cKFFfxSYw


飽きてすぐ辞めてしまわないといいなと思いつつ、今までの事や身の回りで起こった事や、これからの展望など書いていきたいなと。

今日は簡単に自己紹介をして記事にしてみようかな。

まずは、初めまして比留木謙司です。
父がアメリカ人、母が日本人、東京出身の38歳の男です。

ハーフではあるものの頭の中や母国語は完璧に日本語なので、自分ではサムライ並に日本人ぽいと自負しているのだが、いかんせん顔は完全に海の向こう側なのと196センチの身長も手伝って初見もそうだが、大体の人に日本人に見られませんが😅

基本的には日本で小中高の教育を受け、ありがたい事に全てのカテゴリで全国大会に出させてもらえました。この辺の話も今のスポーツを取り巻く環境と自分が生まれ育った時代では違いもあって中々面白い話もできそうなので、いつかまた。

高校を卒業してアメリカの大学NCAAのディビジョン1でどうしてもプレーしたかった私は父方の家族をたずねて渡米、短大に入学しプレーをします。短大で活躍してから大きい名門大学への編入を狙うのは結構ある道のりだったので。今でいうとネブラスカ大で大活躍した富永啓生もその道のりかな?(間違えてたら申し訳ない)
勉学での苦戦や怪我、仕事に没頭したり、オネエちゃんにのめり込んだり、バスケ選手からすれば様々な『寄り道』をして合計で4年ほどアメリカでプレーや活動をした後に日本でのプロチームに入団します。
(この辺の話もまたいつか)

bjリーグ、JBL、NBL、そしてBリーグなどで10年以上プロとしてプレーをして現在ではプロのコーチとして活動しています。(指導者って言葉が偉そうに聞こえてなぜかあんま好きではない)

日本でのバスケットボール3部リーグ、B3リーグのトライフープ岡山というクラブで監督をさせていただいて2部への昇格まであと少しというシーズンもありましたが、昇格叶わず4シーズン目を終えた時に自分の中で『このままではいけない』という思いが強く芽生えてどうにも消化できなくなってしまいました。
岡山ではクラブの中でも要職に就かせてもらったり、当時のクラブの規模からすれば、かなりの好待遇で所属させてもらっていましたから、相当に悩んで退団を決めました。
判断の決め手はやはり自分の中でも常々心がけていて、私の恩師でもあるドイツ人バスケットボール監督であるトーステン・ロイブル氏の口癖でもあった『現状維持は停滞ではなく下降だ。我々は常に成長を望まなければいけない』という言葉でした。
退団を決めてからは目まぐるしい日々でした。海外のクラブのコネクションなんかゼロに等しいので、イチからコネクション作りやコンタクトを取ってビデオ面接、岡山での今まで支えてくれた方々や関係各所へのご挨拶、日本での業務の引き継ぎ、プラス海外への引越し、などなど。正直、死ぬかと思った。絶対に終わらないと思った。相当、岡山のクラブのみんなや周りの方々にはケツを拭いてもらいました。この場を借りて、「お手数おかけしました、本当にありがとうございます🙇🏻‍♂️」。

4年間一緒に戦ってくれた現岡山HCの大森勇。
彼がいなければ心折られていた場面もあった。
周りが思う以上にHCは孤独というか理解されにくい仕事だと思う。

万人に好かれるタイプの私ではないですが、本当に多くの人に支えてもらえてる、応援してもらえてると感じた時期でもありました。

無事にスペインの3部リーグ【LEB Plata】でアシスタントコーチとして活動の場所も見つかり、スペインのバレンシアへと旅立つ事になるのでした🇪🇸🍊

近所の公園からの1枚。どこでもオレンジの木が生えててバレンシアのオレンジへのプライド(ブランディング?)が凄い。


さて次回はスペインのバスケットボールのリーグ構造の話でもしましょうか。

次回へ続く(多分)

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