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シガレット アンド コーヒー

高校の卒業式の夜に行われた「クラスコンパ」で初めてタバコを口にしたとき、僕はこの嗜好品をどう味わうか、その方法を全く知らなかった。ただくわえてみて、吸ったり吐いたりしてみるのだが、手応えのようなものがない。くわえたあと、そこから先にどうしたらいいか知らなかったのだ。

野球部の仲間で、別の店でコンパをしていた他クラスのある友人が、渋谷の路上でそんな僕のことを見かけて声をかけてきた。
彼は僕のぎこちない仕草を笑い、そういうのは喫煙とは言えず、できもしないくせに何をスカしたことをやってるのだ愚か者、と諭してくれた。

口内にため込み、肺に入れるイメージで吸い込んでから、ゆったりと口や鼻から煙を吐き出す。そういう一連の所作を学んだのは大学に入り、さらに数ヶ月経ってからのことだった。

タバコは現実逃避の手段である。頻度やタイミングを間違えさえしなければ、何しろ気分が良い。

しかしその一方で、どういうわけか思索が拡がる手段でもあった。
何かしらのアイディアが浮かぶのである。
むろん気のせいかもしれない。

気のせいかもしれないが、それでも僕にはタバコが必要であった。

気持ちが落ち着くのはいうまでもないことだが、さらに、ほんの少しだけ自分と向き合うことができ、まるで天井から自分を客観視するような気分になれたのだ。

客観視した自分は実に情けないもので、ああ、俺にはこんな視点が欠けていたのだな、と気づくこともしばしばであった。

煙やにおいが周りに迷惑をかけているなどという発想はなかった。その点はつくづく、多方面の人々に対して申し訳なく思う。

コーヒーとの相性は最高であった。

学生時代のあるとき、バンドのリハーサルのあと、僕は何かの理由で苛立ちが隠せず、下を向いていた。

うつむきながらコーヒーを啜る僕に向かって、先輩は、「そんなにむくれるなよ」という趣旨のことを僕に言った。

本当はもう少し別の表現なのだが、この言葉は亡くなったその先輩からもらった宝物であるから明かさない。

その言葉をもらった時のコーヒーとタバコの味は忘れられない。

こんな自分のことを認めてくれる人がいる。

吐き出す煙が先輩の方に行かないように横を向いてから、僕は姿勢を戻して先輩に向かって精一杯に笑みを返した。

それを見て先輩は、自らも煙をくゆらせながら、満足そうにカラカラと笑うのであった。

僕はタバコもコーヒーも苦い方が好きだ。

だって人生なんてそもそも苦いではないか。

苦いからこそ自分を諭してくれるし、
何よりも人の優しさがわかる。

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