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京王線を明大前で乗り換える時にちょっとだけ脚がふらついて自分でも思ったより酔っていることに戸惑ってしまう。アルコールに弱くなったのだろうか。高鷺とはいずれデザイナーの仕事には戻るかもしれないが、今すぐには考えていないとだけ伝えた。面倒見の良さは彼の長所だけれど、多分蒼良の話していた抜け目のなさが気になって受け入れられないのかもしれない。清原誠吾。Webディレクターとしてとても優秀な人だ。たくさんの案件をこなして経験を積み、誤解のない言い方をするのなら完璧を好んでいる。決して人前で自らの能力をひけらかしたりもしなければ、無責任な仕事の押し付けもしない。理想的な上司であることを後ろめたくも感じさせない。半年間考え続けてきたことはぼくが本当は彼に何を伝えたかったんだろうかということだ。変えたいことがあったのかもしれない。だから禁煙をした。彼のしていることを辿るように努力をして嘘を覆い隠してしまわないように注意深く生きることを選んだ。平日の22時過ぎの京王線は満員に近く浮ついた雰囲気すら感じられない。桜上水の駅で機嫌の悪いOLがハンドバッグを強引に引き抜いて電車から降りていく。去り際に睨みつけられた理由を考えないようにした方がいいとぼくはスマートフォンを取り出す。イヤホンをつけた方がいい。音楽が心を塞いでくれるような気がしている。気持ちを受け取って消化しようとしている。告白には罪の意識があって英語の歌詞が本当のことを伝えないようにだけ働きかけてくる。灰色のパーカーを被って後悔が押し寄せてくることを電車の中で漏れてしまわないようにだけ耐えている。プレイリストから流れるメロディックパンクのギターリフが何度も感情を揺さぶっている。あるはずのない答えを探している。聞こえるはずのない声に惑わされている。ぼくはあの時からたった一人で二度と会えないのかもしれないという恐怖をずっと胸に抱えている。ぼくが強く握りしめた拳で殴った後に見せた清原誠吾の見下すような眼が忘れられない。嗚咽だけは吐き出したくないと本能に意志が抗っている。ぼくは努力を重ねてきたはずだ。誰にも否定される必要はない。あの日と同じように拳を握りしめて出来る限り心に蓋をして生きようとする。下高井戸駅に着くと電車の扉が開いて駅を降りるたくさんの人にぼくも同化をする。特別な人間であることをぼくはあの日手がけていたデザインの仕事に垣間見てしまった。美容業界の新製品のプロモーションサイトの構図に突然違和感を感じた。社内のPCに気に入ったフォントが見つからないことをどう処理していいのかわからなくなってしまった。八年間勤めていて初めての経験で誰かに相談をする気にもなれなかった。高鷺はちょうどクライアントとの打ち合わせから帰ってきたばかりで他の女性デザイナーと話をしていたけれど、ぼくだけが間違った選択肢を取らされているのかもしれないと知ってしまった。啓示の声が鳴り止まない。PCのモニターに映っている体よくまとめられたデザインカンプはぼくじゃない。夢を見ているのは一体誰だろう。ぼくは勢いよく机を叩いて押し寄せる感情に任せて立ち上がった。清原誠吾がぼくの方を見たけれど慌てる様子はない。出来るだけ正直にクライアントの要望に応える必要がないんじゃないかと打ち明ける為に彼のデスクに向かった。大人であることに希望を持てなくなっていると前日の夜に見たストリーミング番組で社会学者が話していたことが頭を過ぎる。会社とクライアントの関係性を良好に保っているのは明らかに彼の手腕だろう。適切なディレクションに基づいてぼくたちデザイナーが設計をしていく。けれど、何故ぼくは青を基調としたカンプを作成したのだろうか。色彩のバランスが奇妙な違和感を与えている。誰かが何かを警告をしている。
「どうした。急に大きな音を立てたりして。温和なお前にしては珍しい。締切にはまだ十分間に合う。慌てる必要はないはずだ」
 ぼくは大きく息を吸って動じる様子もなくぼくの意見に耳を傾ける清原誠吾を睨みつける。忘れたくても忘れられなかった。半年間ずっと同じ光景だけがぼくの頭に棲みついている。夜風が冷たくて酔いが醒めていくのを感じる。けれど、記憶が再生されて失ったものがどんな形をしているのかをぼくは確認している。高鷺や同僚で同じくデザイナーの翠が急に喋るのを辞めてしまった。ぼくの方を見ている。嘘はもうつきたくない。
「あのデザインでは駄目です。納得がいきません。クライアントはB案でも構わないと言ってくれている。誠吾さんのディレクションはぼくが仕上げたカンプを無視しています。会社の意向ですか? デザインチームの人間関係が大事だって誠吾さんはいつも言っているじゃないですか。これじゃあ翠や文香にだって気を使う。高鷺さんの負担が増えるだけじゃないですか。ぼくは八年この会社にいます。デザインに間違いがあることを補い合うのがチームワークじゃないですか」
「仕上げるのはお前だ。俺が責任を持たなくちゃいけない部分とお前じゃなくちゃ出来ない仕事を考えるのが俺の役割だ。逃げてもいい場面と成し遂げなくちゃいけない決め事を履き違えているのか。お前は今何しにここに来ているんだ」
「キャッチコピーを里原さんにもらうまで気付かなかったのはぼくの落ち度です。誠吾さんのディレクションはいつも完璧だ。間違っていない。それも分かります。『私が人生の主役です』ってあの一言なら社内のフォントだけでは解決しない。かといって、今回の案件の為に特別に用意しなくちゃいけない話でもない」
「なんだ。わかっているじゃないか。だとしたら、なんだ。お前は美容液のWebデザインに悩んだ挙句人生を棒にでも振りたいのか」
 そういって清原誠吾は立ち上がり、ぼくの前に立ち塞がった。ジム通いで体格が良く顔立ちもはっきりとしていて女性受けが良い。彼の身長はぼくよりも十センチほど高く普段は覆い隠されていた威圧的な印象をあの時は迂闊にも持ってしまった。我を忘れてしまうことを恥ずかしいと感じたのは事件があった日から一ヶ月経った中野富士見町のマンションの自室のベッドの上で天井に止まっていた小さな虻を見つけた時のことだ。白い体と六本の足。透明な羽根。ぼくはその日のうちに引っ越しをすることを決めてしまった。荷物を最小限にまとめて、出来る限り生活コストの負担が減るようにシェアハウスを選んだ。二階建てで個室にはデスクとPCとそれから簡易的なベッドに衣服。トイレとシャワー、洗濯機とキッチンは共同。それぞれに個室はあるので住人と鉢合わせになることはあるがコミュニケーションを取る機会はほとんどなく、最寄りの駅からは徒歩で20分ほど。買い物のほとんどはネットで済ませて、食事もインスタント食品で済ませることが出来るようにストックを整えた。誰とも会話する必要がない環境。一日中部屋の中で過ごして好きな映画を観て、溜まっていた小説や書籍を片付けた。音楽に触れる機会もデザイン会社にいる時よりもずっと多くなったし、壁の薄いシェアハウスであったとしてもヘッドホンを使えば深く没入することが出来た。ぼくにとって必要なものは全て揃っていたし、不必要な関係性を築いて感情がすり減っていく時間は極力避けることが出来るようになった。理想的な生活。望んでいた環境。八号サイズのキャンパスを用意して、大学を卒業して以来外に出す機会のなくなっていた油絵具を取り出して絵を描き始めるのに一ヶ月もかからなかった。テレピンの匂いが気になるので、換気は必須で匂い対策もある程度しなければ他の住人との距離感を間違えてしまいそうだったけれど、不思議と住人たちはぼくに口出しをしてきたりはしなかった。住居を共有する上での細かいルールや決め事は時間が経つにつれて共有出来ることがわかってきたし、不慣れな住居環境とはいえ不満はお互いが極力出ないようにだけ気をつけることが出来た。だから、初めて話しかけられた時はとても動揺した。必然だと思えるような仕草と言動が筆を取る動機にもなった。理由を考えるよりも先に脳内に浮かぶイメージを描くことが重要なんだと何度も自分に言い聞かせた。クライアントは誰もいない。要求や要望に応えて伝えるべきメッセージを意図的に間違える必要性はもうなくなっていた。ただ、絵を描くことに夢中になれたのは久しぶりで少なくともデザイナーという職業を選んでからは感じられなくなっていた喜びだった。寝る間も惜しんでという感覚が締切以外に訪れるとは思わなかったので、自分でも驚くような瞬間が何度も訪れた。その度に繋がりを感じて意識が合成されていく時間を求める機会を愛おしむようになっていった。ぼくはたった一人でどんな人間からも切り離されている。けれれど、相互関係だけは意味を求めなかった。時折、コンビニエンスストアで簡単な会話をする女性店員に同情してしまう自分を戒めなければいけないと感じるようになった。変化は訪れることを待ち望んではいけない。ぼく自身が掴み取るべき問題なんだと自覚することが出来た。
「仕事辞めてもう半年になるのかね。いい年をしてなんて口を出すようなことはしたくもないけど、あまり長くなるのなら心配にもなる。いい加減我侭を聞いてあげられるほど私も若くはないから。もうお前の顔拝めんようになるなんて縁起でもないことだけは聞きたくないからね」
 休日にしていた水曜日の昼に今年で七十を迎える母から電話があり、近況を報告するとあまりぼくの方から連絡を取らないことをいつも通りに責め立てられた上に珍しく説教をされた。やりたいことをやっているんだと伝えると呆れた声でテレビタレントの話をして友達だけは大事にしなさいとだけ伝えて電話を切られた。逃げているのかというニュアンスの会話は一度もなく、ぼくはそのことだけが無性に悔しかったのか来年の正月には帰るよとは言い出せなかった。お盆休みに顔を見るたびに小さくなったなとお前はと軽口を叩かれて笑われるのがどこか心地よかったのを思い出す。母は父と離婚して以来一人で暮らしていてぼくと同じように誰にも頼らず僅かな社会福祉だけを糧にして生きている。小さな頃の思い出を絵にしてみようかとも思ったが、意味がないと気付いてすぐに辞めた。油絵具と揮発剤の匂いを消してしまいたくて窓を全開にすると、休みの日は必ず描くと決めている油絵を今日は休むことにした。どうせ出掛けるのであれば、自然の多い場所がいい。ネットで周辺の地図を調べると、羽根木公園というのが見つかった。前の住居から自転車を捨てずに持ってきたことが功を奏した。夕方まで時間を潰すことが出来る。ぼくはもしかしたら自由を手に入れているのかもしれないと思った。外の風景をゆっくり眺めるようなことがなかったので、紅葉が始まっていることに気付いて浪費した時間のことを思い笑ってしまった。人生を無駄にしているのかもしれないと自分を皮肉ってみると、気が楽になった。母には何かプレゼントを贈ろう。来月の給料日であれば、失業保険以外の金も入ってくる。アルバイトにそれほど時間を使いたくなかったし、今のところ食うには困っていない。求めるものがなければ使い道は限られている。例えば、もしこのまま母のようにたった一人で生きるようになったとしてもぼくは満足なのかもしれない。誰かとお互いの願望を擦り合わせる必要がないことが心地よいことを久しぶりに感じている。過ぎ去った記憶が邪魔をしている。手に入れられないものと目の前で見つけられるものの価値を比べて嫌気がさしている。解き放たれていることを不満に思う人間は存在するだろうか。夢は見ていない気がする。現実はとても息苦しいけれど、どこまでも拡張可能で置き換えることの出来ない感覚だけがぼくを構成している。お腹が空いたので帰り道にパンを買って帰ろう。駅前に立ち寄って永福町寄りのシェアハウスに戻ったらコーヒーを淹れる。豆は先週ネットで購入した深煎りのメコンコーヒー。味は気に入っているが、深緑のマグカップには傷がついている。少しだけ気に病むことがあり、ぼくはテレピンの匂いがまだ部屋に残っているのかどうかを気にしている。
「あ。波玲さん。いつも来てくれてありがとうございます。新作のパンがあるんですよ。名付けてちくわクリームパン。甘しょっぱいって好みかなって思っているんですけどお一ついかがですか」
 店員の二塚さんはぼくより二つ年上の人妻で、旦那さんと脱サラして開いたパン屋を開いてもう十年になるそうだ。現在のアルバイト先以外で唯一コミュニケーションを取っているのは彼女の図々しい性格もあるだろうけれど、会話を極力避けている今のぼくにはちょうど良いのかプライベートな情報をあけすけに話されているうちにいつの間にか覚えてしまった。ぼくは軽く会釈だけして無言で可愛らしいイラスト入りのポップアップで紹介されたちくわクリームパンとクリームチーズパンとカレーパンをトングでトレイに乗せてレジカウンターまで持ち運ぶ。
「どうかな。試してみます。今日は休日だし予定もないから部屋で食事をするにはぴったりかもしれない」
 そんな他愛もない会話をしていると、奥から彼女の旦那さんで店長が出てきてとても元気よく挨拶をしてくれる。彼の明るさは今のぼくには遠ざけたいものだけれど、日常会話が極端に減っている今の暮らしであれば簡単に受け入れられる。店に立ち寄るたびにぼくの生活を気にかけてくれている。油絵を描いていることも先週訪れた際に話して夢を追うことの大切さを熱弁された。
「お。ぼくの自信作をちゃんと買ってくれたんだな。本当に嬉しいよ。女房と三日三晩悩んで仕上げたから絶対に気に入ってくれる。ところで、波玲くん。確か絵を描いているんだったね。こいつと話してうちの店の為に描いてもらうのはどうだろうって決めたんだ。よかったら一つお願い出来るかな。あの窓の隣に飾れるぐらいの大きさがいい。何を描くかは君に任せたい。どうだろう。もちろんお代はちゃんと支払うつもりだよ」
 店長である旦那さんの思わぬ申し出にぼくは驚いてしまうけれど、出来るだけ表情には出さないように小さく頷いて右ポケットに入れた財布から千円札を取り出して銀色のトレイに乗せる。夫婦二人で営む街のパン屋さん。内装はヨーロッパ風で緑色の窓枠のペンキは自分で塗ったんだよと初めて訪れた時に話してくれた。油絵を描くことに決めたのはそれから一週間後のことだ。
「もちろんです。三号サイズぐらいがちょうどいいのかな。雰囲気に合わせて描いてみます。頼んでくれてありがとうございます」
 お釣りを受け取りながら、ぼくはもう一度頭を下げる。旦那さんは遠慮するようにして手を振ると、いつもの裏表を感じさせないお手本のような笑顔でぼくを見送ってくれる。奥さんの方は他のお客さんの応対をしている。二人の仲の良さはきちんと覚えておこう。何色を使うのか考えながら誰かの為に筆を動かすのはどんな気持ちがするだろう。彼はデザイン会社で引き受けてきた案件を依頼してきたクライアントとは違う。不必要な感情や打ち消したい主観はキャンパスに筆を下ろす寸前まで吐き出さなくていい。逃げる必要もない。何処まで行っても語りかけてくるのは自分自身でしかない。けど、他の誰かの為に時間を費やすことが許されるのだろうか。大切な約束を帳消しにして思い浮かんだイメージを秘密に出来る自信がなかった。学生の時書いていた油絵をもう一度始めて以来、信じているのは自分の直感だけで、揺らぎのない感情を伝えていることに戸惑いの気配すら見当たらなかった。けれど、彼の為に描く絵はきっと違うだろう。はっきりと主張があり、誰にも疎まれることのない明確な意志が必要だ。ぼくには絵の才能があるはずだ。もう迷う必要がなくなった。求められている実感を握り締めるようにして受け取った釣り銭を財布に戻すのではなくジーンズの右ポケットにしまう。忘れ難い決して消すことの出来ない記憶をぼくはあのパン屋に届けることになるだろう。

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