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短編小説「締め日」

経理課長が亡くなった。
難しい病気だったそうだ。年明けに入院して、3月に一時危篤となったものの持ち直し、「もしかしたら奇跡が起こるかも」と期待させながら、6月の末にあっけなく心臓は停止した。

葬儀には、会社から総務部長と経理課の僕が行くことになった。部長は課長の上司だからいいとして、課長の部下とはいえ中途入社したばかりの僕が選ばれたのは、面倒な役を押し付けられたにすぎない。梅雨が明けきらぬこの蒸し暑い季節に、喪服を着て葬儀に参列したがる者などいないからだ。

葬儀は課長の自宅からほど近い斎場で滞りなく催行され、棺を乗せた車が出て行くのを見送って、僕のミッションは完了。時間はまだお昼前なので、会社に戻らねばならない。斎場から最寄りの電車の駅まで、歩いて10分以上はかかるだろうか。この夏空の下、と考えただけで汗が噴き出しそうなので考えないようにしよう。と、思ったそのとき、後ろからポンと肩を叩かれた。
「おう、会社に帰るなら一緒にタクシーに乗ってくか?」
にっこり笑う部長が喪服を着た神様に見えた。どんな神様だ。

タクシーは冷房がきいているのはありがたいが、後部座席に上司の上司と二人きりというのはなかなかにつらい。デキる若手ビジネスマンなら絶好のチャンスと自分を売り込むだろうが、僕はそんな柄ではない。できれば会話なしで乗り切りたいと思っていたら、部長のほうから話しかけてきた。
「君は、最近入社したのか?」
「はい、去年の暮れに」
「じゃあ課長のことはあまり知らないか」
「はい、先輩方によると、仕事にはすごく厳しい方だと」
「ははは、経理はルール遵守が基本だからな。逆に言えば守るべきルールを押さえておけば楽勝だ」
「あ、課長も同じこと言ってました」
「俺が教えたんだよ」
その会話でタクシーの中の空気がほぐれた気がした。
部長が話してくれたところによると、部長と課長は同じ大学の先輩後輩の仲で、課長が入社したときの上司が(当時課長だった)部長だったそうだ。二人は家族ぐるみの付き合いがあり、課長が入院してから部長は何度かお見舞いに行ったこともあるという。

「あいつ、まだ小さい子供がいるんだよ」
「あ、はい。親族の席に座ってましたね。女の子」
「娘の小学校の入学式は絶対見ますからって言っててな」
「はい」
「危篤になってもうダメかと思ったら、持ち直しやがって」
「実際、入学式に出られたんですよね」
「一日だけ外出許可をもらってな」

課長の遺影は背景に桜が写りこんでいたから、入学式で撮ったのだろう。娘さんの入学式に出られてよかったですね、課長。
でも、それで気力を使い果たしてしまったから、二つ目の山を越えられなかったのかもしれない。部長も僕もおそらく同時にそう思った。でも二人ともそれを口にはしなかった。そんなふうにわかりやすい形に人の死を「まとめる」のは不遜だと思ったのだ。二人とも、たぶん。

「まあしかし、8月になれば初盆ですぐまた帰ってくるさ」
窓の外に視線を向けたまま小さくつぶやいた部長の言葉に、僕は小さな引っかかりを感じた。
「初盆って、前のお盆から今年のお盆までに亡くなった人は、みんな初盆なんでしょうか?」
「ん?どうだっけ。そうじゃないか」

ちなみに、僕の祖父の命日は8月8日という覚えやすい日で、葬儀のときに親類が「すぐまたお盆だからおじいさんも忙しいねえ」などと言っていたら、お経をあげてくれたお坊さんが「四十九日がお盆明けになるので初盆は来年のお盆ですよ」と教えてくれた。
そう、初盆の対象者は、お盆までに四十九日を終えた故人だ。対象者というのも変だが、レコード大賞の新人賞にも「対象年度内においてデビューした者」という規定がある。「初」は誰しも一度きりなので、明確なルールが必要なのだ。

亡くなった日から四十九日間、故人はあの世のどこに行くのか審判を受けるために、魂はまだこの世にあるという。
課長が亡くなったのは6月25日。ということは、四十九日は8月12日。お盆は8月13日からなので、今年の初盆にぎりぎりエントリー可能だ。これより早く死ぬと、あの世に行ってすぐまたお盆に戻ってこなければならず、せわしない。逆に6月25日を過ぎてすぐに死んでしまったら、初盆はまるまる一年先になってしまう。
さすが経理課長、今年の初盆の受け付けは今日まで、という締め日に亡くなるとはお見事。これで四十九日プラスお盆の三日間はこの世にいて、娘さんをもう少しだけ見守ってあの世に行ける。

そんなわけはないか。

課長、もっと長く生きて娘さんの卒業式や結婚式や孫の顔が見たかったでしょうね。いつ死ぬか、なんて考える余裕もないくらい、生きて、生きて、生きていたいと思っていたでしょうね。
僕は自分のくだらない思いつきを胸の奥にしまい込み、部長と反対側の窓から夏空を見た。今日初めて、鼻の奥がツンとした。

タクシーの中に一瞬、線香のにおいが流れたような気がした。