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短編小説「アンディ・ウォーホル展」

※本編は、実際に開催されていた展覧会を題材にした作り話です。

明日あいてる?
ウォーホル見に行かへん?
京セラ美術館

気が向いたら簡単に京都に出てこられるのが、僕たち関西人の特権である。彼女とはここのところ忙しくて会えていなかったが、昨夜LINEしてひさびさの美術館デートの約束を取り付けた。

彼女とは大阪の高校の美術部で出会い、僕が部長、彼女が副部長だった三年生から付き合い始めた。今年25歳だからもう足かけ8年、そろそろ将来のことを考えてもいい頃だ。ウォーホルを見た後、疎水沿いを歩きながら住みたい町の話でもしようか。街路樹の紅葉は始まった頃だろうか。そんなことを考えながら昨夜は眠りについた。

なのに、今日、彼女の様子がいつもと違う。
待ち合わせ場所からずっと口数が少ない。電車の中で僕と目を合わせない。体調が悪いのか? いや、彼女は体がツライなら我慢して付き合うより直前でもキャンセルするタイプだ。話しかけたら答えるし、怒っている感じではない。なのにこの「いつもと違う」感は何なのだろう。
あまり言葉を交わすこともなく、京阪三条駅から最短距離で美術館に到着。参ったなあと思いつつウォーホル展の入り口に進むと、彼女がとんでもないことを言いだした。

「お互い見たい作品も違うやろうし、別々に回ろう。じゃあ、出口で」

何それ? 銭湯じゃあるまいし。という僕の華麗なリアクションに反応することもなく、彼女はすたすたと展示室に入っていく。後をついていくのも間抜けなので、僕は少し間隔を開けて入場した。何なんだよ一体。すぐそこにいる彼女がとてつもなく遠い。

今回のウォーホル展は感染症の影響で延期になっていたそうだ。出品される作品の一覧を見るとなかなかに気合の入った回顧展だが、巡回展ではない。要するに、この時期にここ京都でしか見られないウォーホル展である。そう考えると、ここが「京都市美術館」と呼ばれていた時代からなじみのカフェのように出入りしてきた僕たちとしては、ちょっと誇らしい気分になる。
そしてさらに、この展覧会は写真撮影OK。さすがに動画やフラッシュはご遠慮くださいとあったけれど、なかなか太っ腹ではないか。

展示室はいくつかのエリアに区切られており、ウォーホルの人生をたどる流れになっている。最初のゾーンに並んでいるのは、イラストやドローイングなどの初期作品。ウォーホルといえば工業製品や人物のシルクスクリーンが代表作だが、最初からそんな作品を作っていたわけではない。大学を卒業してニューヨークに出た彼は雑誌のイラストの仕事をしていた。当時の作品には、神経質そうな線とやや陰気な色合いの中に瑞々しい情熱も感じられて、僕はけっこう好きなのである。

次のゾーンに入ると視界に蛍光色が飛び込んできた。ここにはウォーホルがポップアーチストとして開花した時代の作品が並ぶ。壁一面の「牛の壁紙」の前にはおなじみの「ブリロボックス」と「キャンベルスープの缶」。
そういえば高校の美術室の壁に「キャンベルスープの缶」のレプリカが一つ掛かっていた。この作品は一種類だけだと思っていた僕に、ビーフやコンソメなど32種類があることを教えてくれたのは彼女だ。僕が「関西風ぜんざいはある?」と言うと、彼女に「あるわけないやろアホ」と返された。関西人ならお分かりだろう。この「アホ」には親愛の情がこもっているのである。

ポップアートとは、皮肉なアートだと思う。どこにでもある大量生産品をそのまんま絵にして額装して飾る。それを有難そうに腕組みして眺めたり、何かメッセージがあるのではないかと深読みしたり、あげくとんでもない金額で売買する人間を冷たく笑っている、ような気がする。そんなことを考えていたら、作品よりも「作品を撮影している人」のほうが面白く思えてきた。それこそポップアート「的」じゃないか。僕もその一人だが。
彼女はもうどこにいるのか分からなくなった。

僕と彼女が付き合い始めたきっかけは、ちょっとした勘違いだった。放課後の美術室で、僕は彼女に「後藤さん、付き合ってくれへんかな」と言ったのだが、「生徒会の部活動予算の説明会に副部長として一緒に出てくれないか?」と言ったつもりだった。しかし少々言葉を省略しすぎたようだ。彼女は「ちょっと考えさせて」と小走りに出て行ってしまう。その後、なんだかんだで二人はくっついて今に至る。

晩年の作品群を展示する最後のゾーンは、かなり照明が絞られて暗くなっている。ここに漂っているのは「死」の臭いだ。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をイメージした大作はウォーホル最後の作品。コミック風のタッチでキリストを描き、宗教画にはもっともふさわしくなさそうなオートバイの絵を重ねている。キリストを「THE BIG C」とポップに略してはいるものの、宗教や信仰をおちょくっているようには見えない。むしろ救いを求めているかのようだ。彼は58歳で亡くなったが、病気だったというから死の予感はあったのかもしれない。「終わりの予感」は、人を謙虚にするのだろうか。

僕は彼女を探した。この作品だけでも彼女と一緒に見たい。いつか彼女が言ってくれた。美術館はたくさんの作品が大量のメッセージを送ってくるから一人ではへとへとになる。僕が一緒にいてくれたら安心だと。その彼女がなぜ今日はこんなによそよそしいのか。僕に問題があるなら謝ろう。そうして食事でもして、帰りの電車では恋人同士に戻ろう。ウォーホルの展覧会なのに、僕ときたらずっと彼女のことを考えている。彼女はどこだ。

ミュージアムショップに続く出口の手前に立った。ここまで彼女に出会わなかったのだから、僕が先にここに到着したのだろう。「出口で」と言って別れたのだから、ここに彼女は来るはず。すると背後から「足立君」と僕を呼ぶ声が聞こえる。出口の向こうに彼女がいた。出てたの? 僕はへなへなとその場に座り込みそうになった。一度出ると展示室には戻れない。もう一緒に作品を見ることはかなわない。何のために一緒に来たんだよ。何も買わずにショップを出て、そう言おうと思ったら僕より先に彼女が口を開いた。

「あのな、言わなあかんことがあるんやけど」
「僕もあるけど、そっちから言って」
「わたし、結婚するねん」
「え? ・・・誰と?」
「職場の先輩にプロポーズされて、もう両親にも紹介した」
「へえ・・・」
「黙っててごめん」

ああそうか、そうなんだ。と、頭の中にback numberの曲が流れた。つまり、そういうことか。
謎はすべて解けた。って僕は名探偵コナン君、じゃなかった金田一少年か。ここに来る前から僕たちは終わっていたんだ。ウォーホル展は彼女にとってデートではなく、別れを告げるための「作業」だったわけだ。今日、僕と彼女の間にずっと感じていた距離の正体はそれだったのか。
不思議なもので、さっきまでの彼女に対する不満は消し飛び、別の何かが僕を支配していた。それは何だろう。あえて言えば虚無、だろうか。

「あと20分くらいで彼氏が来るんやけど、ここに」
「何しに来るの?」
「車で来てくれるから、送ってもらう。足立君はどうする?」
「どうするって・・・」

ちょっと待て、なんだか手回しが良すぎないか。僕を振りたいなら、なぜ昨夜僕とLINEでやりとりしたときにそう言わないのか。最後の思い出に美術館デートをして、結婚することを告げて、僕があっさり引き下がるならよし、ゴネるようなら彼氏が出てきて直接話をつけようということか。昨夜、僕とのやりとりの後、彼氏に電話して相談する彼女を想像した。いや、もしかしたら彼氏は彼女のすぐそばにいたかもしれない。ダメだ!想像ストップ。もはや初期の中島みゆきの世界だ。僕のLINEを二人で見るのはやめてよ。

彼女のスマホがブルブルと震えた。彼氏からだろうか。横を向き、「早いね、今どこ?」と話す彼女の顔は、好きな男の前で見せるとてもいい顔だった。僕は一瞬で理解した。もう勝負はついている。敗者復活戦もない。

「先に行くよ。四条あたりぶらぶらして阪急で帰るわ」
通話中の彼女に軽く右手をあげた。彼女はスマホを耳に当てたまま、目で僕に別れを告げた。その顔が、今日初めて見せてくれた「彼女」の顔だったので、うっかり言ってしまった。
「じゃね、おめでと」。
ああもう、ちくしょうめ。一番言いたくない言葉だったのに。
僕は一人で美術館を出た。

鴨川の上に青空が広がる。風もなくまことに気持ちのいい秋の日。
あてもなく歩きながら、僕はなぜか高校の美術室にあった「キャンベルスープの缶」を思い出していた。僕と彼女の始まりも終わりもウォーホルが見ていたってことか。あの缶、中身が何だったかは覚えていないけど。