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常識とかバランス感覚とか

noteでは執筆者をクリエイターと呼んでいる。何もクリエイトしていない僕ごときがこれを利用するのは気恥ずかしいが、これでもかつては芸大を目指していた。けれど挫折した。

という表現は正しくないか。受験すらしなかったのだから、挫折というより勝手に諦めたと言ったほうが正しい。適当に勉強したらそこそこの大学に受かったので、そっちでいいかとなったのだ。

普通の大学を普通に卒業して、普通に就職した会社で新入社員研修を受けた。プログラムのひとつに、同期生とペアになって互いを紹介しあうというものがあった。100人ほどいた同期社員の前で僕を紹介した男は僕を「すごく常識があってバランス感覚に優れた人物です」と言ってくれた。思わず下を向いてしまったのは照れくさかったからではない。ほんの少し残っていた「表現」への思いが完全に断ち切られたからだ。自分はもうそういう世界にはいない。そんな現実を突きつけられた気がした。

画家も、音楽家も、作家も、彫刻家も、役者も。自分の中から表現を絞り出し、空気に思念を刻み込むような仕事をする人間を突き動かす力は、許される範囲の(ときには許されない)狂気ではないかと思う。そこから一番遠くにあるものが常識とかバランス感覚とか、そういうものだと思う。

じゃあ何と紹介されたら嬉しかったのか。「何をしでかすか分からない危険な男です」とでも言ってほしかったのか。大学生のコンパではない。ここはウケるかどうかよりも「そつなく」が何より価値を持つ世界だ。普通の会社に入社を決めながら、どこか「表現」の世界への憧れを捨てきれなかった自分。そんな中途半端なことだから、その後何度も仕事を変えることになる。

小器用な人間として生きてきた。常識的な世界でバランスよく生きながら、「表現」の世界を知ったかぶりできるくらいの知識はある。「表現」の世界では箸にも棒にもかからない自分が、広告屋の世界ではそこそこ「センスのいい人」なのだ。

ある意味で報われているかもしれない。才能を売り物にしているわけではないので、アーチストのように消耗することもない。いたって健康だ。そこそこビジネス感覚を身につけているので、こんな年になっても「俺んとこ来ないか」と言ってくれる人がいる。それでいいか、と思う。