仕事のストレスで「適応障害」と診断されて1年3ヶ月経って「過剰適応」と言われて腑に落ちた話

2020年6月。仕事のストレスによる「適応障害」と診断された。

いろんなところに移動して仕事をしていたのが、新型コロナウイルスの蔓延によりすべてキャンセル。まったく別の業務(主にテレアポ)でテレワークになった。

テレワークにしてもらってありがたかった反面、家には4歳になる娘も居て業務も進めづらく、業務内容も電話をしてヒアリングという僕が一番苦手(飛び込み営業とテレアポが一番苦手)なもの。

「家でできないんだったら出社してやってもらいましょうか」と今思えば僕の環境のことを思って配慮してもらったはずなのに、出社ってなった瞬間に身体が動かなくなった。

適応障害になった直後くらいにnoteにあげようと書いた文章が未だに下書きにあるけど、そこには「過去にさまざまな仕事をしていますし、今よりキツい環境はいくらでもあったはずなのに、身体が拒否反応示したのは今回が初めてで今も戸惑っています。」って書いている。

仕事を離れてもストレスがなくならない

仕事によるストレスならば仕事から離れれば改善される。ストレス要因から離れられれば普通に過ごせる。

でも僕は1年3ヶ月経っても抜け出せていない。いろいろがんばって調子のいい時にひとりで取材に行って写真を撮り、文章を書いて収入を得ることもできたけど、がんばれない時のほうが多く、おこづかい程度にしかならない。

国の給付金や補助金の申請、経営計画つくって公庫に融資もしてもらったし、移動系のライターじゃこのコロナ禍ではダメだと思ってインタビュー記事にチャレンジしてみたり、できうる限りのことをやってきた。

けど、がんばれない時が多いから、通帳の残高は減っていく。

「さすがにこれは仕事のストレスでの適応障害ではないな」と思い始めた

「さすがにこれは仕事のストレスでの適応障害ではないな」と思い始めたのがほんのつい1月前。

適応障害になってからずっと「適応障害になったのに全然楽にならないし、理解してもらえてないな」と思い続けていたのが「あれ、そういや自分のしんどさ誰にも伝えてないな」ということに、なんのきっかけか忘れてしまったけど、なにかの瞬間で気づいた。

思えば診断出してもらった心療科でも「仕事のストレスによる適応障害」にしかフォーカス当たってなかった。

なにかのタイミングで家族の話しても深く聞いてもらえなかったし、「HSPですかね?」って訊いたら「それはわからないけど」って言われて「あれ?」ってなった。

なので「寝れてます」(実際割と寝れてた)、「薬も飲んでません」(実際飲むのやめてた)と言って半ば無理やり通院を終わらせたのが先月だった。

「躁鬱大学」という書籍で「神田橋語録」を知り、はじめて救われる気持ちを感じる

たぶん適応障害になってから知った坂口恭平さんの著書「躁鬱大学」。

5月ごろに買って一気に読んだ。

そういやこれの元はnoteの投稿でしたね。

この本のベースになっているのが「神田橋語録」。

著書のなかで坂口さんは「神田橋語録」を読んだ時のことをこう書いている。

躁鬱病に関することでこんなに力が抜けたのは、鬱が明けた瞬間くらいなものです。そうです、僕はその文章を読みながら、励まされ、そして長かった鬱から抜け出し、しかも躁状態に入るのではなく、なんだかポカポカと体が暖かくなりました。

残念ながら僕はそこまでにはいかなかったものの、「神田橋語録」の次の文章に救われる。

自分の生活を狭くしない事。広く広く手を出す事。頭はにぎやかにして、あっちふらふら、こっちふらふらがよろしい。(中略)用心のためと思って、それをしないでじっと我慢していると中々良くなりません。窮屈がいけないのです。

「窮屈がいけない」

すごく腑に落ちた。窮屈がダメなんだ。

思えば適応障害になってやめたところも、オフィスが嫌いだった。気分転換に外へ出ることもできず、オフィスに居るときはやたらとトイレに行ってた。

なんかはじめて「わかってもらえたなー」という気持ちになった。

そしてこの人に全部話せば良い方向に持っていけるのではないかと。

「神田橋語録」の編者あとがきに衝撃を受ける

「神田橋語録」は全部で26ページあり、4ページ目以降は「専門家向け」に書かれている。最後のほうの24ページには「編者あとがき」があり、神田橋語録の基となる神田橋先生は鹿児島にいらっしゃることがわかる。

そしてびっくりしたのは編者の波多腰先生。

神戸!それも三宮に診療所を開いてらっしゃる。三宮なら自宅のある西宮から電車で30分で行ける。これは「診てもらえ」と言われているに違いない。早速診療所に電話をした。

波多腰先生と会って全部話してわかった「過剰適応」

電話をしたのが8月の20日ごろ。電話に出てくださった受付のかたは9月の初旬になるとおっしゃる。たぶんだいたいの人があきらめるのか電話を切ろうとされたが、こっちはなんの問題もない。会ってお話ができればいい。

「それでもいいです」とお伝えして、9月の初旬、三宮のとあるビルの地下にある波多腰先生の診療所に伺った。

もう問診票からして違う。どこで生まれたか、どこにどれくらい住んだか、家族構成、今まで辛かったことなど、裏面まで書く項目がびっしりある。目的がはっきりしてるから、こっちもびっしり書いた。

そして診察。

「辛かったこと話してください」とだけ。

最初は戸惑ったが結局30分くらい喋った。

そしていくつかの質問を投げかけられる。そこでもそれきっかけに思い出されることが出てくる。

波多腰先生は、僕の話をひととおり聞いて、話すことがなくなった段階でこうおっしゃった。

「あなたは本当によくがんばってきたと思いますよ。あなたの場合はコロナが落ち着いたらなんとかなる。それまでのお金をなんとかできればいいんだけど…。」
「声に出して自分の声をしっかり聞いたほうがいい。広いところに向かって叫んで、そのあとに続く文章に答えがある。」
「その文章のなかには辛辣なものもあるかもしれないので、受け入れられないときは見ない。余裕ができたら見る。」
「過去同じ境遇にあった人に向けて、話したり、文章書いたりすると、自分も元気になれる。」
「負担になるから親しい人には言わないほうがいい。そして親しい人をなんとかしようと思わないこと。共倒れになる。」
「あなたは適応障害じゃなくて過剰適応の人だね。なんでもひとりでやってきたからなんでもやっちゃえる。だから持ちきれなくなる。3つまでと決めてそれ以上のことはやらない。」

求めていたとおりだった。やっとわかってもらえたという気持ちで、はじめてひとりでなくなった気がした。

薬が処方されその薬がなくなる2週間後に再診となった。

「そのあいだでも不安があればいつでも来てください。」

ライターのお仕事してますとお話していたこともあってさいごは「いい文章書いてくださいね」という波多腰先生の言葉を背中に受けて診察室を出た。

すべては「過剰適応」だった

「過剰適応」と言われて思い当たるふしがいくつも出てきた。

大学を卒業したものの、ラジオDJになりたかったこともあり、正社員として就職せず職を転々としてきた。

ラジオ局のAD、CATVの営業、量販店の販売応援、携帯ショップの副店長、派遣会社のスタッフマネジメント、Webデザイン・広告業の営業、スマートフォンのトレーナー、教育支援ソフトのインストラクター

7年やったスマートフォンのトレーナー以外どれも長続きせず、ずっとなんでだろうと思ってたけど、相手のことを思い過ぎて、自分の感情しまい込んで何も言えず、それでもできちゃうからそれなりにやってこれたけど、結局持ちきれなくなって破綻するというのが、ほぼどれにも当てはまることがわかった。

「こんなの売られたくないよな」
「いきなり電話したら嫌やろな」
「大変そうやから今話しかけるのやめとこう」
「コロナ禍やのに旅の記事書くのよくないな」
「普段しんどい思いさせてるから自由にしてもらおう」

思えば、相手のことを推し量りすぎて自分が持ちきれなくなってダメになることばっかりだった。

「過剰適応」をやめたい

相手のことを思いすぎて、大事なときに大事なことが言えず、そのことに対して悶々と思い悩むことも多く、それが僕を蝕んでいってる。現在進行系で。

「過剰適応」と診断されて、過去から今までずっとなぜだろうと思ってきたことがわかってよかった反面、それを治していきたい…いややめたいと思ってるけど、「親しい人に言わないほうがいい」がひっかかってる。

「親しい人だからこそわかってほしい」という気持ちと「けど負担になって共倒れになりたくない」という気持ち。けど現実問題わかってもらわないとやっていけない部分もある。言わないと今のまんまで持ちきれなくて破綻が続いちゃう気もするし、どうしたらいいんだろう。

そこをどう折り合いをつけていくか、生活をどうしていくかが今後の課題。

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