読書は勉強なのか?
僕は普段からいろんなジャンルの本を読む。
小説、ビジネス書、自己啓発本、写真集、詩集、絵本…等々。
比率で言えば、仕事のことを本で学ぶので、ビジネス書が多めだろうか。
この前、自宅に古くからの付き合いの友人がきて、本棚を眺めているとこんな会話になった。
「めっちゃ本読んでるんやな」
「読むのが好きやからな」
「あ、投資の本とかも読んでるんや」
「まぁ、今後必要やろうしな」
「へー、読書できるんすごいな。そんな勉強できひんわ」
この友人はほぼ本を読まない。
たまに伊坂幸太郎さんの小説を読んで紹介してくれたりすることはある。
読書の習慣がない人からすれば、そう見えるのか、この友人には読書=勉強という構図があるようだ。
僕の中では、読書は勉強ではない。
勉強の中の一つの手段として読書はあるだろうけど。
本を読むという行為は、歯を磨くのと同じ。
日々の予定の一部であり、習慣である。
歯を磨かないと気持ち悪いように、1日の中に読書という時間がないと何か忘れている気がして気持ちが悪くなる。
読書はやらなきゃいけない、当たり前の習慣である。
読書が勉強と映る原因は何なのか。
じっとして、一つのことをやっていることが勉強と共通しているからか。
読んでいる本のタイトルが難しそうだったら、そう見えるのか。
何かを頭にインプットすること自体がもはや勉強という定義なのか。
人によって見え方は違うのだろうけど、もし、読書=勉強というイメージがある人が一定数いるのであれば、もっと読書に対して、カジュアルなイメージを持って欲しいと思う。
今日はどの服を着ようかな?
というテンションで今日は何の本を読もうかな?とその日の気分で本を手に取れば良いし。
一杯だけビール飲むか。
というノリで5分だけページをめくっても良い。
新しい服を着て、「自分に似合ってるな」と思うように、自分に合う本に出会うかもしれない。
ご当地ビールを飲んで「これはいつもと違う味だけど美味しい」と発見があるように、「この言葉良いな」と思うフレーズに出会えるかもしれない。
読書をしない人にとって、読書のうちに入る本の範囲も狭い気がする。
難解な本や小説、ビジネス書を読むことだけが読書ではないと思う。
漫画を読むことだって、読書だし、詩を読むことも読書だ。
ある作家さんの本に、本は過去の経験や知恵を未来に残す媒体にすぎないと言っていた。
そうだとすれば、写真集や画集を眺めることだって、読書と言って良いんじゃないかと思う。
読書は広いし、自由だ。
そんな価値観が広がれば良いなと思う。
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